彩雲空華 第一部 傀儡戯 Kui lei xi |
一つの王朝の、終焉が導かれる。 終焉を目指して回る歯車は、 かつて平安の世を現出させた皇帝の老いた心を、 珠玉と称えられし美姫が虜にした、その刻に動き出したのかもしれない。 そこには 情欲に操られし傀儡がいた。 そして知ってか知らずか、人形師となった美姫もまた傀儡であった。 あやしの手により操られし傀儡であった。 傀儡は人たちのあずかり知らぬうちに、 國を動かし、國を惑わし、 そして國を滅ぼせと、 あやしの手により命じられていた。 当時、このような詩が歌われた。 木刻牽絲作老翁 鶏皮鶴髪與眞同 須臾弄罷寂無事 還以人生一夢中 木を刻み、糸を引いて作られた人形が老爺を演じる。 皺に弛んだ肌も、白い髪も、本物と寸分違わない。 だがしばし後、人形芝居が終わればそこに残るは虚しさのみ。 あたかも、夢幻に過ぎぬ人生の営みを示すように。 傀儡は、 詠傀儡的詩。 すなわち、傀儡を詠みし詩を意味する。 奇しくもこの七言絶句を愛好したのは、唐の太平と没落を一手に担いし皇帝・玄宗であった。 玄宗が晩年にその心を奪われた美姫、楊貴妃(楊玉環、道姑つまり女性の道士としての名は楊太真)と出会ったその年、 唐の開元二十八年(七四〇年)に、 ひとりの男が世に生を受けていた。 後に、強大な魔にその身を委ね、禍となりて封じられ、 千年の後に目覚めることとなるその男は、 屋台骨を揺るがされる唐の大地で、生身の人を傀儡と為すあやしの手に接触することとなる。 侍たちが剣を交え。それ故にか、異界から表れ出でた魔性のものたちとの戦に身を投じることとなった時代から、 刻をさかのぼること、千年の昔。 当時中国大陸には、唐という壮大な王朝が建っていた。 かつて皇帝玄宗に重宝された節度使・安禄山が起こした叛乱以降、 唐朝は衰退の一途を辿ってはいたが、 それでもなお、絹絲之道、すなわちシルクロードの大陸における終着点であり、東方と西方が交わる城市、 様々な國の、様々な人が行き交う唐の王城である長安は、当時の世界に冠たる巨大国際都市であった。 長安の郊外に、五稜と呼ばれる丘陵があった。 五人の古代の帝王が葬られし塚であり、また付近には、侠客の大物達が屋敷を連ねていた。 その一角に、”仙に最も近き流派”、天仙遁甲を収めた武侠である、劉雲飛の館は在ったのである。 門をくぐり、正面の館より外れた 二人の若い男と一人の少年が陣取っている。 彼らは劉雲飛の八人の弟子たち、巷間で『八天仙』と綽名されるうちの三人であった。 名は、二人の若者が 孫継海と肖戦波。 両者は後の世に、水邪と炎邪、という呼び名の妖魔として知られることとなるが、 唐朝の刻には劉雲飛の下で、武芸と仙術の修行を重ねる人の身であり、それぞれ雲飛の五番弟子と六番弟子であった。 彼らは、元々漢人ではなかった。 つまり、大陸で最も多人数を占める民族の出身ではなかった。 孫継海と肖戦波の詳しい出自は明らかではない。 昔。ある時劉雲飛は、二人の胡人の 親と生き別れたか死に別れたか、捨てられたか、何れとも知れず、己の名も知らずに彷徨い続け お互いの他知る者もなく、頼れる者もなかった少年たちに名を与え、 天仙遁甲の同門の養子とすることによって姓を与え、後に弟子としたのであった。 胡人とは、赤県神洲とも称された大陸の外、主に西域からやって来た人々に対する唐での呼び名である。 広くは、天竺(インド)から 後の水邪である継海の、漢人とは違った端正な顔立ちと青みがかった髪、 そして後の炎邪である戦波の、金色がかった蓬髪と太い眉は、 当時の長安では特に奇異ではなかった、胡人の面持ちであることは間違いなかった。 二人と共にある少年、藍玉寧は、八天仙の男のうちで最年少の七番弟子であり、 物心ついた頃には既に雲飛に師事し、天仙遁甲の修業を始めていた。 今三人は鍛錬の合間に語らい、話題は剣仙・・・・・・天仙遁甲に属するものたちの最終目標である、 剣と仙術を極めし存在・・・・・・のことに上っていた。 「剣仙となる条件はただ一つ。如何なる苦難にも耐えうることだ、って雲飛師父はいつも言うけどさ。」 明るい目をした雲飛の七番弟子、玉寧は、頭の後ろで手を組みつつ二人の兄弟子に話し掛ける。 「それだけじゃ駄目だよな、継海の兄貴と戦波の兄貴? ていうか剣仙で一番重要なことってのは、 最も剣術に秀で、んで最も仙術に通じている、この二つ。だろ? 今の剣仙は太師父だけど、太師父の後を継いで、剣仙の名と、流派伝来の剣譜(秘法書)と双剣を受け継ぐのは・・・・・・」 口数の多い弟弟子に対し、兄弟子である継海と戦波は多少うんざりした心持ちを隠せないようだった。 そんな兄弟子たちに気づいた様子はなく、玉寧は意気揚々と告げる。 「俺たちの師、天機七曜を駆使する”華胥飛仙”たる劉雲飛師父に間違いナシ! 問題はさぁ、 その跡目を俺たち八人のうち誰が継ぐか?ってコトだよな。 そりゃー、順当に行けば一番弟子の でも、案外俺かもしれないだろ?」 玉寧は、そう得意げに言うと兄弟子たちを見た。 「ッたくよォ! てめえは男のクセに喧しいんだよッ、いつもいつもッ! 」 戦波は、いささか凶暴さの滲み出る目で弟弟子を睨みつけ、噛み付くような勢いで吼える。 「大体小師弟の分際で、生意気ぬかしてんじゃねぇ!」 「全くだ。そもそも貴様ごときに剣仙が務まるわけもなかろう。」 戦波に続き、そう言い捨てた継海に対し、 「追い討ちかよぉ、継海の兄貴。絶対二人一緒に畳み掛けてくるもんなー。」 少年は唇を尖らせた。 「フン。」 青みがかった長髪を背後でまとめた男・・・・・・後の世で、水邪と呼ばれることとなる男・孫継海は、 冷たい視線で弟弟子である玉寧を一瞥する。 その時、玉寧が瞬いた。 「あれ、兄貴達。雲飛師父がまた一人で出かけるみたいだ。」 身を乗り出した少年の言葉に、二人の若者は共に 彼らの師、長安に名を知られた武侠である劉雲飛が、漆黒の長髪を流したその背に鞘に収めた愛刀を負い、 門へと向かって行くのが目に映った。 「何かあると言うのか? この所師は、 「俺が知るかよ。」戦波が返す。 「俺は知ってるぜ、継海の兄貴。こないだ太師父が来てただろ? あれから、師父は毎日ずっと城内に行ってんだ。」 得意げな様子の見え隠れする玉寧の言葉に、 「貴様は少なからぬ年月を武林で過ごしながら」 継海は鋭く声を投げかける。 「師兄に対する口の利き方を知らぬのか。我らは貴様と同等の身分ではないのだぞ。」 再び弟弟子に冷たい視線が浴びせられたが、継海のその目の奥には一抹の凶悪な怒りが宿っていた。 玉寧は心に冷たい刃の感触を感じ、姿勢を正すと兄弟子の前に拱手する。 掌を握り拳につけて行う、武芸者の間の挨拶である。 「さて、弟子としては師に全てを負わせてのうのうとしているべきではないな。行くぞ、戦波。」 「別に師父が、俺らに手伝えって言ったわけじゃねーしよ。」 戦波の声を後に、継海は手摺りを軽々と乗り越え、師の元へと向かっていた。 「ほっといてもいーんじゃねえか? 継海よぉ!」 呼びかけつつ、戦波、続いて玉寧が手摺りを飛び越える。 「師よ」 雲飛は、馴染みあるその呼びかけに振り向いた。 「我らがお供いたします。」 八人の弟子の一人、五番弟子である孫継海が立ち、雲飛に対し頭を下げ、拱手する。その背後にすぐさま 六番弟子の肖戦波と七番弟子の藍玉寧が立ち、同様に拱手した。 「師はこの所連日城内に出向いておられますが、もしや我らに仇を為さんとする動きがあるのでしょうか?」 雲飛は、そう言った弟子の継海をじっと見据えていたが、僅かに首を振った。 「じゃあ、師父。ひょっとして、この間太師父が来て話してたことと関係ありですか?」 「また盗み聞きか、玉寧。・・・・・・やはりな。」 落ち着いた声に混じる詰問の響きに、勢い込んでいた少年は頭を縮める。だが、 「雲飛師父、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。俺は情報収集してただけです。 戦の時には役に立つことでしょ?」 すぐさま言い返した。 「で、なんだよ話してたことってのは。」 ぎょろりと、戦波は弟弟子を見やる。 「壊帝、とかいう魔物の話だよ。戦波の兄貴。」 「魔物だぁ?」 「魔物、だと?」 戦波は顔をしかめ、継海は眉を寄せる。 「天仙遁甲の達人の使命には、降魔辟邪も含まれる。貴様たちに無縁の話でもないぞ。」 「は。心得ております、師よ。」 雲飛の重々しい言葉に、継海が畏まる。 「で、師父。その壊帝っつぅのは一体何者なんですか。この近くにいやがるんですか?」 戦波が身を乗り出すようにして訊ねた。 「今、長安にいるか否かはわからぬ。何者かと言えば、國を滅ぼす者だ。」 「國を滅ぼす・・・・・・ですか。」 僅かに怪訝な表情を浮かべ、継海が言う。 「師よ。それは例えば、この唐朝に対し夷敵を 「それも手立てに含まれるかもしれぬが」 雲飛は、弟子を振り向いた。 「ことによっては、戦よりも恐るべき手立てを用いるかもしれぬな。」 瞬く継海を見据え、雲飛が告げる。 「奴は國の根幹を、意のままに弄ぶ人形師よ。」 「人形師? そのような下賎の生業の者が、國を滅ぼす、と? 無礼をお許しください、師よ。そのようなことがあり得るとは到底・・・・・・」 「貴様たちには覚悟はあるか。」 雲飛はその言葉で弟子の異論を遮り、鋭利な光を宿す双眸で三人の弟子達を捉える。 「魔と相対し、その魂魄を危うくし、落命も辞さぬ覚悟があるならば儂に続くがよい。」 「失礼ながら、愚問です、師よ。我ら八天仙、武林に身を置いた時点で如何なる凶事が降りかかる事も覚悟しております。」 継海は師を見返しつつ、不敵に笑みを浮かべた。 「そのくらいの方が面白いですよ、師父。」 戦波もそう言って豪快に笑った。 弟子たちのうち三人を伴い、屋敷を出て長安の城市へと劉雲飛は向かう。 その心に、ふっと落ちる僅かな陰影。 時折。 雲飛は危ぶむことがあった。 彼に師事する八人の弟子達は、いずれも雲飛が内心誇る存在であり、かつ全員を大切に思ってはいたが、 うちの二人、幼い日より共に成長した仲である孫継海と肖戦波の気質。 それが雲飛に、僅かな不安を抱かせる。 頭が切れる方だが、時に尋常ではない自負心を覗かせる継海と、 ひとたび怒りに身を任せれば、獣じみた凶暴さを見せる戦波。 二人の気質が、間違った道へ踏み込むことあらば。 それは何かの折に凶事を呼び寄せる因となりかねぬ、そんな予感があった。 この一抹の不安が、己の取り越し苦労で終われば良いが。 否。彼らのその気質を折に触れ正し、道を誤らせぬよう心を配ることこそ師としての務め。 思いつつ雲飛は、弟子たちのうち三人と共に、妖しき人形師探索のため長安の城内へと踏み込んで行く。 |