銀のしずく ふるふる 序章(2) |
月の女神・イシュ=ウイネと見えた少女が口を開く。 ふと見ると、体の上に布がかけられていた。 月明かりに、その布にも少女のまとう衣服と同じ紋様があることに気づく。 彼が横たわっていたのは、洞窟の中だった。 傍で焚き木がパチパチと爆ぜている。 少女が洞窟の入り口から、彼のそばへと歩み寄ってくる。獣が忠実に、その後に続く。 「無理しないで、まだ寝ていた方がいいわ。」 「・・・・・・たむたむ、助ケテクレタノ、オマエカ?」 声を出して初めて気づいた。 顔の皮膚が直接、空気に触れている。 神ノ面ガナイ! 狼狽し顔を撫で回す。 「オオ・・・・・・。神ノ面・・・・・・目的果タスマデ、ケシテ外サヌト誓ッタ・・・・・・ 彼は顔を覆い、それから拳で地を連打しつつ叫ぶ。 レラは傍らにひざまずき言う。 「神の面? 確かに悪い気は感じられなかった・・・・・・。でもあれは危険なものよ。人の命を食らう。 言葉を振り切るように、タムタムの頭が激しく振られる。 「神ノ面、勇者ノ証! たむたむ、勇者ノ資格失ッタ!」 悲しみとも怒りともつかぬ長い叫び声を、少年はあげ続けた。 「・・・・・・くだらないわ。」 少女が低くつぶやく。 全身で嘆き続けていた、タムタムの動きがぴたりと止まる。 「あなたは面がなければ何もできないの?」 怒りに満ちた眼差しが、まっすぐ少女に向けられた。 冷めた瞳がまっすぐに見返す。 「そんな情けない男に、ラメトク(勇者)を名乗る資格があるのかしら。父様とは随分違うわね。」 歯噛みしつつ身を乗り出しかけたタムタムに動じることなく、レラは言葉を続ける。 「それに、そんな兄を持ったあの子も浮かばれないわ。」 その途端に、怒りが少年の表情から霧散した。 「ちゃむちゃむノコト、言ッテイルノカ・・・・・・?」 我を忘れたかのように、少年は立ち上がる。 「ちゃむちゃむ、ドコニイル!? イッタイドウナッタ!?」 「こう言ってたわね。“ハグワル”なのに、あなたを護れなかったって。それからあの子はカムイに祈ったわ。 「我ガ神、けつぁるくぁとる・・・・・・!」 目前のレラを忘れたかのように、呆然とつぶやくタムタム。 「光の中に現れたカムイ。あなたのカムイは蛇なのかしら。 でも、カムイコタンの周辺では見ない種類なのね。」 レラの静かな声が、ますます静謐さを増していく。周りの気が、静かに張り詰める。 彼女は、人の世と常世をつなぐトゥスクルとして語り始めた。 「なんだか、蔦のようにも見えた。色鮮やかな巨大な蛇。 全身にまとわりつく、緑に輝く鳥の羽根。尾の先は、赤く煙るつむじ風に隠れて見えない。 大きく開いた蛇の口の中から、男が現れたわ。 額に仮面をつけ、槍を持ち武装した男。彼は言った。勇者は痛みを負った。 「ちゃむちゃむ・・・・・・!」 タムタムは、半ば崩れるように座り込む。 「彼女が乗り移っていたポンメノコ(少女)は、あなたのカムイによって故郷に送り返された。 レラに寄り添うようにしていたシクルゥの、大きなふさふさとした尻尾が揺れる。 「ちゃむちゃむ・・・・・・たむたむノ代ワリニ、けつぁるくぁとるノ試練引キ受ケタ・・・・・・。」 握り締められる、逞しい拳。硬く閉じられた目蓋の間から、一筋、流れ落ちる涙。 シクルゥに寄り添われたレラはただ、じっと見つめている。 妹にしてトゥレンカムイ。どうしてそうなったのか、レラが知る由はない。 ただ、大切な者が負った痛みを思い、己が身にも痛みを感じている、彼の気持ちを思んばかることはできた。 もしもリムルルなら。 一度も、私自身姉妹として接したことはなくても。私自身を“姉さま”と呼んでくれたことはなくても、 あの子は私の妹。 目の前の少年の肩の震えを見やりながら、レラは立ち上がった。 「立つのよ。終わってないわ。」 少年は顔をあげた。 黒い瞳が、まっすぐにレラを見上げる。 「あなたには使命があるんでしょう。あの子の思いに応えなくちゃいけないんでしょう。 その言葉に、黒い瞳は光をみなぎらせていく。 こくりと、力強くうなずき、膝を立てタムタムは立ち上がった。 ふと見やると、岩壁に立てかけられている彼の剣。 「へんげ・はんげ・ざんげ。・・・・・・勇者ノ剣、“闇ヲ切リ裂ク刃”。」 歩みより、柄に手をかける。 少し弧を描いている刀身に、冷たく月の光が閃いた。 「神ノ面ナクトモ、たむたむ神ノ戦士。必ズ勝利スル。我ガ神、けつぁるくぁとるト我ガはぐわる、ちゃむちゃむニ誓ッテ。」 蒼い夜空の月に向かい、 神の戦士は三度、鋭く吼えた。 その後姿を見やっていたレラは、シクルゥに声をかける。 「おいで。」 私も旅立たなくてはならない。 ここでの用はもうすんだから。 「名前ハ?」 「え?」 突然の問いかけに、一瞬戸惑うレラ。 タムタムが、彼女に顔を向けていた。 「マダ聞イテナカッタ。オマエ、名ハ何トイウ?」 その顔に、人懐こい笑みが浮かんでいる。 見た者の気持ちを和らげずにはおかない笑みだった。 表情を変えずに、レラは目を瞬く。 「レラ。」 そう名乗り、何故だかふと目を逸らす。 「それが、私の名前。」 「れら・・・・・・。」 黒く、澄み切った瞳を瞬かせ、少年は繰り返した。 声が、胸の襞に染み込んでいく。 思わず、顔を背けていた。 私がつけた、私の名前。 私以外の誰かが・・・・・・今初めて、呼んでくれた。 「れらノ名前、意味、アルノカ?」 タムタムの呼びかけに、はっと気づくレラ。 「風。」 「カゼ? ソウカ。オマエノ名前、神ノ息吹。」 レラはタムタムを見た。 「え?」 「たむたむノ神、けつぁるくぁとる。太陽昇ル前、空ニ輝ク明ルキ星。 己の神を語り始めた少年を見つめるレラ。 神(カムイ)は、この世界のいたるところに存在している。 人は、カムイの居場所を借りて生きているに過ぎない。 そして人はカムイに呼びかけるため、自分たちの言葉で名前をつける。 「あなたのカムイはニサッチャオのカムイ・・・・・・”明けの星の神”なの?」 そう言ったレラをタムタムは、黒い澄んだ瞳できょとんと見ている。 言葉を探しているように、刹那瞳が中空を舞う。それから少年は、首を振った。 「けつぁるくぁとる、百ノ姿持ツ。輝クツバサ持ツ大蛇デアリ、 少年の瞳が、真正面からレラを捉えた。 「カゼ、神ヨリ流レ、命ヲ作ルモノ。れら。神ヲ見ルコトノデキル娘、フサワシイ名。」 風は神が運ぶもの。 でも、アイヌモシリと彼の故郷では、随分捉え方が違うらしいとレラは思う。 彼はどこから来たのだろう? 「あなたはどこから来たの。目的は何?」 少年の唇に浮かんでいた笑みが、静かに消える。 「たむたむ、村デ夢ヲ見タ。夢ハ神ノオツゲ。コノ国デ、黒イ神ガ目覚メルト。 たむたむ、コノ国デ黒イ神ニ憑カレタ男ニ会ッタ。」 「黒い神?」 おそらく、人に害をなすウエンカムイ(悪い神)を、彼の故郷でそう呼ぶのだろう。 「シカシ・・・・・・ソノ男ニ勝ツニハたむたむ、力足リナカッタ。」 少年は歯噛みし、膝の上で拳を握る。 「ちゃむちゃむ、たむたむ助ケルタメニじゃがーノ精霊トナリ、たむたむヲ連レ出シタ。男ト戦ッテイタ広イ荒野カラ。 「・・・・・・なんとも面妖ですね。忍びの術とも見えません。鬼神やあやかしの類、なのでしょうか。」 朱の着物を纏い、自作の刀を下げた若者は呟く。 「我旺様が幾分かお認めになったとは言え、叛意を持つ存在ならば放ってはおけません。」 この地を探り当て踏み込んできた異形のものに、若者の主君である兇國日輪守我旺は興味を抱き、自ら仕合うため赴いた。 次にここに現れた時には、侮れぬ敵になっているかもしれない。 如何に小さな禍根であろうとも断て。 「我旺様。黒河内夢路、御命に従います。」 若者は、刀の柄に手をかけた。 抜刀したと見えた刹那、斬撃は地を抉るように、男を背に疾走する異形の獣に向かっていった。 それは神夢想一刀流の秘剣、夢想真波と呼ばれる。 「・・・・・・たむたむ、ソイツノ斬撃ハへんげ・はんげ・ざんげデナントカ防イダ。シカシ、逃レタ時ニハちゃむちゃむ、 「すると、そのウエンカムイに憑かれたという男はこの近くにいるの?」 「・・・・・・イヤ。コノ近クデハナイ。アレハ、命アルモノガ住マウ現世ノ場所デナイ。」 しばし黙したままで、レラはタムタムを見つめる。 燃える薪の爆ぜる音。 「貴方の話をすべて信じるなら、その男はポクナモシリ(冥界)に足を踏み入れてしまっている、と判断してよさそうね。 レラの瞳に炎の色が写っている。 「危険だわ。」 「奴ヲ放ッテハオケナイ。コノママデハ、世界中ニ危害ガ及ブ。」 「その男、名は何と言うの。」 「ソレハ・・・・・・。」 タムタムの脳裏に、あの時の光景が過ぎる。 脅威の間合いを持つ十字の槍を握った男の、タムタムを射殺さんばかりに見据えている眼光。 「乱破などに名乗る名は持ち合わせておらなんだが・・・・・・。覚えておくがよいわ! わが名は・・・・・・」 「・・・・・・思イ出セナイ。ケレド奴ノ目、たむたむ忘レナイ。 再び、沈黙が二人の間に流れた。 シクルゥが、黙する主人を見上げていた。 (父様を探すための旅の筈だった。成り行きで妙なことに関わってしまったけれど、 チチウシの手入れを済ませたレラは、そっと背後を振り返る。 (それと彼。) タムタムと名乗る少年は、巨大な愛剣を背に負って立ち上がっていた。 (アトゥイ(海)の向こうから来たことは確かね。となると私以上に、シサム(和人)に慣れていないのも確か。) 一人にはしておけない。まして彼は、レラ同様神や精霊と意思を通わせる力を持ち、 今のところ、彼以外に男に通じる手がかりはないのだ。 タムタムが近づいてくる。レラに寄り添うシクルゥに目を留めると、微笑を浮かべ逞しい手を伸ばす。 狼の姿のトゥレンカムイであり、警戒心の強いシクルゥなのだが、黙ってされるままに撫でられていた。 時折、鼻面を摺り寄せもしている。 「しくるぅ、れらノ良キはぐわる。」 昨夜と同じ、心を和ませずにおかない笑みでタムタムは言った。 (・・・・・・そして、信義を重んじる人間だということも確か。と見てもいいわね。) 昨夜眠りに着く前にタムタムは、己の剣をレラと自分との間に置いた。 彼女に一切近づかない、という誓いの証らしい。 たとえ破ったところでシクルゥもいるし、レラ自身もシカンナカムイ流刀舞術を受け継ぐものとして、 それでも、タムタムの行為をほんの少し、感謝の気持ちを持ってレラは受け止めた。 風が、粛粛と吹いている。 その中に、ふわりと人の形が浮かんだ。 白髪の男が一人。 青竜刀を背にした男は、見事に流れる髭を撫でつつ、娘と獣・男の共に歩む姿を眼下に見る。 「“闇キ皇”のものではなかろうが・・・・・・わずかに邪気がある。」 娘と男が、それぞれ帯刀してるのが見て取れる。 「若さゆえに散り急ぐか。」 再び風が舞った時、男の姿はそこになかった。 |