斬紅郎無双剣公式小説(壱)

満月の夜である。

十兵衛は夜具の中で寝返りを打った。右腕を下に丸まった姿勢に落ち着いたとき、

その手には枕元にあった脇差が握られていた。

「十兵衛どの」低く抑えた声が、この屋敷の真の主の名を呼んだ。江戸の西端、下目黒にある柳生家下屋敷である。


「さすがは十兵衛どのだ。それがしの気配を感ずるとは」

「気づかせるため、わざと気配を発したのであろう。肝が冷えたぞ、半蔵」

十兵衛は応えながら、ゆっくりと体を起こし、漆黒の天井の一角をにらみつけた。

「こちらでござるよ」

半蔵は既に十兵衛の足下におり、明かりをともした。

十兵衛の背中に冷たいものが走る。

殺す気になれば、この稀代の忍びは俺をいつでも殺すことができる…。

この当時の柳生屋敷は天下に名だたる柳生道場を併設していた。当然のことながら新陰流の達人が同じ敷地の中に住まっている。

そのうえに裏柳生と呼ばれる忍び働きの者たちが数多く宿泊しているのである。

しかし、誰ひとりとして起き出してこない。半蔵の侵入の見事さを物語っていた。

「鬼が生まれおった…。強い。真の鬼だ。山を下りることがあれば、多くの民が死ぬことになろう」

半蔵は、奥多摩の破寺の境内で起きた一部始終を十兵衛に語った。

某藩の家老の嫡子が傾き者を気取り、江戸近辺の兵法者に一方的な喧嘩を売って歩いていた。

これがあるとき仕合に敗れたことを恨みに思い、藩の家来衆や忍びの者を引き連れ仕返しに向かったのである。

半蔵は忍びの不穏な動きを追って、その修羅場に居合わせることとなった。

男は襲撃者たちをひとり残らず斬り捨てた。人質に取られた我が子をもその首謀者と共に斬り捨てたのだった。

「その男は何者なのだ」

「無限一刀流、壬無月斬紅郎」

斬紅郎のことは十兵衛も知っていた。一子相伝の無限一刀流を細々と伝えている兵法者である。

無限一刀流の開祖は鬼であったといわれ、斬紅郎もまた六尺に及ぼうかという長大な古拵えの太刀を振り回す大男である。

無限一刀流が兵法として広まらなかったのも、その大太刀が斬紅郎以外の常人には操れるものではなかった

からなのだ。いずれ廃れる運命の流派であり、天下に危害をなすものではないと十兵衛は捉えていた。

「どうして止めなかったのだ」十兵衛は半蔵を叱責した。

半蔵の口から老中の名が告げられた。卑怯にも数を頼んで意趣返しをしようとしたのは、

幕府の要職者の縁の者であったというのだ。

十兵衛の顔が赤くなった。

猛烈に起こっていた。

十兵衛たちが、また数多の兵どもや民衆が、血河を流して築き上げた平和な世の中を、いとも簡単に

踏みにじる輩がいる。それも、執政の責を担うべき者の中にだ。

折りしも長雨や空梅雨で飢饉がたび重なり、武士による民衆支配は揺れていた。米商人と結託して

私腹を肥やそうとする幕閣や下級武士が跳梁し、民衆への圧制は極限状態に近づきつつあった。

十兵衛は将軍直々に密命を受け、それらの不敗官僚を排除するために奔走する日々を過ごしていたのだ。

「で、どうだ。鬼は、山を下りるか?」

「うむ。既に探索の者どもは手配しておる」

里に出ることがなければよいのだが。半蔵は心底そう願っていた。しかし、半蔵の勘はそれでは

収まらないことを告げていた。無惨にも我が子を切り捨て、鬼と化した男の咆吼がいまだに頭の中で鳴り響いている。

また、そうでなくては厳重な柳生屋敷の警護をかいくぐってまで、わざわざ十兵衛の所へ来る理由はなかった。

「さらに心配なことがござる。そこに…天草四郎がおり申した」

「おぬし、天草を見たのか! あの怨霊を!」

「しかと見たわけではござらんが、確かに感じてござる。あれは…」

「!」

寛永十五年四月十二日、陥落した原城にあって一揆勢とともにキリシタンに殉じたはずの天草四郎時貞。

異国の妖術で蘇ったその怨念が半蔵の息子真蔵の肉体に憑依し、国中に禍をなした事件は

苦い記憶としてふたりの脳裏に刻まれていた。

「まださまよっておるか…。お役目さえ抱えておらねば、我が手で天草を追うものを…口惜しや!」

「いずれ十兵衛どのの出番もござりましょう。ここはひとまずこの半蔵にお任せあれ!」

「頼むぞ!半蔵」

半蔵の気配が消えた。残された十兵衛は戸を開け放し、煌々と輝く月を見つめた。

警戒にあたっていた忍びが飛んできたが、十兵衛は無言で月を睨みつけている。

(世の乱れが人の心を狂わせるのか、人の心が世を乱すのか。なあ、お月さん、どちらなんだい)




我が子の悲鳴を聞いた瞬間、男の精神の中で何かが切れた。

あるいは何かが急速に膨らんではじけた。

一瞬抵抗するものが頭をよぎったが、耳元で囁く声にかき消されてしまった。

『斬れ!さすれば望み通り、そなたは鬼とならん!』

「そうとも、俺は願っていた。我が血が知っていた。鬼にならねばならぬと」

『斬れ! 血飛沫を浴びるのだ!そなたはもはや人を超えた!』

真紅に染まった大太刀が唸り、肉も骨も空気を切るように断ち斬った。

返り血に濡れた全身から湯気が立ち上っている。男は悦びに打ちふるえ、両の眼からは血の涙があふれていた。

積年の望みを果たした悦びの涙であった。

かつて人間壬無月斬紅郎であった鬼が吼えた。あたかもその咆哮が呼んだかのように雷雲が立ち込め激しい雨が降り始めた。

血塗られた鬼の伝説がこのときから始まったのだ。




勢子たちの呼子が聞こえる。大猪が隠れ籠もっていた穴から出てきたのだ。

猪は獣道を走る。回り込んだ犬どもが猪の退路をふさぐ。

破沙羅は手にした得物を振り上げ、目を閉じて待った。三方杵に鋭い刃を付け、長い鎖の先で回転するように工夫した武器である。

破沙羅の里の者は銃を使わない。もとより都を追われた者の隠れ里である。山間で密かに半農半猟の暮らしを営み、

昔ながらの方法で猟を行っていた。破沙羅は村に伝わる猟具に細工し、大型獣をも一撃で屠るように改良したのだ。

勢子たちの声が大きくなる。村長の声が飛んだ。斜に構えた破沙羅の正面に生贄が飛び出す。

破沙羅は得物を投げ、鎖がのびきる寸前で右腕を振るう。回転する三枚の鋭利な刃が微妙な孤を描き、標的の喉元をかすめた。

大猪はそのまま数本の木をなぎ倒して走り、そして止まった。

勢子たちが歓声をあげて解体に取りかかった。張り込み。待ち。追い込み。そして仕留めるまで都合五日をかけた猟を終え、

獲物をもって村に帰れるのである。

「めでたいな、破沙羅。この大猪を土産に、いよいよ祝言だ。娘も待ち遠しかろうよ。」

破沙羅は村長の一人娘篝火と祝言を控えていた。今回の猟は、祝言のために是非とも大猪を仕留めたいという

破沙羅の希望を容れて仕立てられたものであった。彼でなければ村長は許可しなかったであろう。

村一番の実力と尊敬を破沙羅は得ていた。猪は山の主である。身を清めて山の神に祈りを捧げた後に、破沙羅たちは山に入った。

その上で首尾よく仕留められた大猪は、山の神が破沙羅の前途を祝し下賜されたものと考えられるのだ。

そして祝言の夜。村の慣行に倣い、華やかな宴が夜更けまで催された。

破沙羅は新たにふたりのために設えられた新居で、右腕に新婦を抱いたまま横になっていた。

幼子の頃から知っている篝火が妻として隣に眠っている。心地よい疲労と酔いを感じながら深い眠りについた。

彼は夢を見た。夢の中では篝火は天女であり、破沙羅は天上の射手であった。

宙を舞う白い馬にまたがり、金色の弓と矢をつがえた若者であった。

頭上から降り注ぐ神々しい光に導かれ、ふたりはより高みに昇っていく。至上の幸福があった。

しかし、その幸せを鬼が打ち砕いた。

宴の夜でなければ、村人全員が無抵抗のまま殺されることはなかったであろう。未踏の野山を駆けめぐって獣を狩る民の村なのだ。

鬼は生命の気配を求め、そして斬った。破沙羅もまた深い眠りの中で殺気を感じ取り身を起こそうとした。しかし間に合わなかった。

右腕で新妻を抱いて寝ていたために反応が遅れてしまった。鬼は寄り添って眠る篝火もろとも破沙羅を斬った。

凄まじい速さと猛烈な重さをもった刃は篝火を両断し、破沙羅に致命的な傷を与えた。

己の妻の血で真っ赤に染まった視界の中で、鬼が嗤った。



斬紅郎の意識の中で天草の声がこだまする。

『もっと斬れ! 血を流せ! 吼えろ! 血に染まるほどに、鬼の剣は冴えるのだ!』

鮮血を浴びるたび、斬紅郎は快感が膨れ上がっていくことに酔っていた。

「おれは強くなる。史上最強の鬼になるのだ!」



修羅場を見下ろしていた天草は、冥界から舞い戻ろうとする強い怨念に気づいた。

一度は完全に死んだ男の魂が、執念でこの世に舞い戻ろうとしていたのである。

その男、破沙羅の魂は鬼を恨む感情に満ちていた。愛する者を失った怒りだけが復活することを望んでいたのだ。

「クックック。それも一興」天草は印を結び呼びかけた。

「ここへ来い!見ることかなわず。聞くことかなわず。ただ感じるままに鬼を斬れ!恨みを晴らせ!破!沙!羅!」

血の海の中に青白い光が人型に輝く。

一体の屍が立ち上がった。

「せいぜいこの世に怨念を撒き散らせ!存分に強くなったならば、わたしがその魂を喰ろうてやる。おまえが追う鬼の魂と一緒にな!」

天草の哄笑が響き渡った。



まとわりつくような霧が夜明けの陽光を遮り、東の空が赤黒く染まっている。ガルフォードとパピーは山林の中を駆け下りていた。

視界が赤灰色に濁る。息苦しさを覚え、立ち止まって深く息をついた。

「STOP! パピー。これは…血の匂いだ」

里に降り立ったガルフォードが見たものは血に濡れた廃墟であった。

槍や鋤などを手にした男たちはもちろん、女子供にいたるまで生きて動くものはなかった

。ほとんどの死骸は、首や肩あるいは胸や胴で分断されていた。

「OH!GOD!これは…」

ガルフォードは、母親の胸にしがみついた赤子の見開かれた目を閉じてやり、手を合わせた。この母子は腰から下を失っていた。

凄まじい斬撃が両断した上半身を飛ばしたのだ。

「とんでもなく強いヤツだ。パピー、カエデさんに知らせた方がいいカモ…」

懐から出した布片に事情をしたためながらガルフォードは泣いた。こんな残酷なことがあってはならない。許されない!

パピーもまた全身の毛を逆立てて震えていた。

パピーを楓の元に走らせ、ガルフォードは殺人鬼の痕跡を調べ始めた。涙は止まらない。いつしか声を上げて泣いていた。

ふつふつと怒りがわき上がり、炎が全身を包んでいた。

生命の気配が全く感じられなかったためにガルフォードは不意をつかれた。

巨大な三方手裏剣様のものが飛来したのだ。

かろうじて致命傷は避けたものの、鋭く回転する刃が肩を引き裂いていた。素早く宙に跳んで敵の気配を探る。

二度三度と凶悪な攻撃が襲う。

身を捩り致命的なダメージを避けながら、ようやく地面に吸い込まれていく敵の姿を視野の片隅に捉えた。

「消えた!GHOST?!」

明らかに人間ではなかった。反撃する余裕を全く失った自分自身を罵倒しながら敗走する。

背後で、バケモノが吼えた。

「鬼!鬼はどこへ行ったぁ!」

叩きつけるような叫び声に、ガルフォードは直感した。泣いている!このバケモノは悲しくて泣いているんだ!

闘気が激しく燃え上がった。闘わねばならない敵は他にいる!あのバケモノがONIオニと呼んだものだ。

「OK!俺がONIオニを斬る。その前におまえの苦しみを止めてやらなくっちゃな」

ガルフォードは修羅の道を引き返した。


  

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