北欧神話の雷神トールの娘、スルーズ。
父は北欧の神々の国アースガルズの事実上ナンバー2・雷神トール、母はアース女神であることが明言されているシフ。
つまりは純正なアース女神の彼女について、語ってみようと思います。
家族は両親の他、兄弟にウルとマグニとモージがいます。
ウルは母シフがトール以外の男(巨人?)との間に産んだ神であるとされ、エッダ詩『グリームニルの歌』ではユーダリル(イチイの谷の意味)という領地を持っていることが明かされています。
マグニはトールと女性の巨人ヤールンサクサとの間に産まれた男の子で、トール対巨人フルングニルのエピソードで生後三日(もしくは三か月)にして怪力を発揮したことで有名。
後述の理由で、多分スルーズにとっては弟に当たると思われます。
モージはスルーズと同じくトールとシフとの間の息子です。はっきり言ってトールの子供たちの中では何のエピソードもなく、名前しか知られていない影の薄い存在ですが
ラグナロクの後マグニと共に生き残り、父のミョルニルを受け継ぐとされています。
……父の違う兄と、母の違う弟と、両親を同じくする兄弟……
この複雑な家庭環境、スルーズの人格いや神格?形成に大いに影響したかもしれません(笑)
スルーズが登場する北欧神話の物語は、詩のエッダ(または旧エッダ)と称される歌謡集のうちの『アルヴィスの歌』のみ。
スルーズに求婚し、父親の雷神トールの許可を得るためにやって来た黒妖精(黒小人)アルヴィスと雷神トールの問答で形成されているのですが
スルーズ本人は登場しません。
アルヴィスがどういった経緯でスルーズに求婚することになったのか、スルーズ本人がアルヴィスやこの婚儀のことをどう思っていたのかは一切不明です。
(ただ父親のトールが「娘がお前に約束したときは、わしは家にいなかった。だから神々がそんなものを贈ったのだ」と言っているのを見ると
スルーズ本人も了承していた・何を贈ったかは不明ですが神々=アース神族も婚姻を前提とした贈り物をしていたのは確かなようで)
ですが僅かながら、スルーズについての描写があります。
アルヴィスが彼女について「この美人を思いのままにできるというのは何者だ」「一人ぼっちでいるよりは、雪のように肌の白いあの娘が欲しいのだ」と言ってますから
若くて色白美人なのは確定。
スルーズについてはトールの娘の一点で"逞しい女"と断定している北欧神話関連書籍やイラストもありますが、どうやら父親よりも見事な金髪を持つことで有名な母親の方に似たようです。
良かったですね(笑)
ついでに言いますと、母のシフは金髪が判明していますが父のトールも赤髭・つまり赤毛なのは北欧神話で言及されてますから
スルーズの髪の色も、赤毛か金髪のどちらかかもしれません。
『アルヴィスの歌』は、娘を黒小人の嫁にしてなるものかと決意した雷神トールが、短気で知恵が足りないと言われている彼にしては珍しく頭を使い(かつ辛抱強く)
アルヴィスを一晩質問攻めにし、翌朝まで彼を留めておくことに腐心していた……黒小人(黒妖精)は太陽の光を浴びると石化するため……という結末を迎えるのですが
それについてスルーズがどう思ったかはやっぱり不明です。
ふと思ったことは、黒小人と結婚しそうになった唯一のアース女神・スルーズにはある女神と似た点がある、ということでした。
それは北欧神話でおそらく最も有名な女神フレイヤです。
フレイヤについては、アルヴィスと同じく黒小人である四人の鍛冶屋が作った見事な首飾り・ブリーシンガメン欲しさにその四人と一夜ずつを共にした、という伝説が残っています。
この二柱の女神以外に、黒小人と関わった神話を持つ女神は存在しません。そもそも北欧神話で物語を残す女神自体が少数という事実もありますが……。
そしてフレイヤについて顕著なことは、彼女はアースガルズに住まう女神たちの中で、神々の敵である巨人族に最も懸想された女神だということです。
アースガルズの城壁を築く石工としてやって来た巨人は報酬として太陽と月とフレイヤを要求し、
富裕だったらしい巨人スリュムはトールの槌ミョルニルを盗みその代償としてフレイヤとの結婚を要求し、
トールと決闘した唯一の巨人と伝わる最強の勇者フルングニルは、アースガルズに乗り込み神々に酒を振舞われた際、フレイヤとシフを巨人国ヨトゥンヘイムに連れ帰ると豪語しています。
そういえばフルングニルはフレイヤに懸想した巨人たちの中で唯一、トールの妻シフにも同じような態度を取っていますね。
実はここにも重大なポイントがありまして、フルングニルについては新エッダ・『詩語法』内で次のように言われているのです。
(『広島大学文学部紀要43 特集号3』「スノリ「エッダ」詩語法 訳注 谷口幸男訳より)
聴き給え フラヴンケティルよ
スルーズ(トールの娘)の奪い手(フルングニル)の足裏の葉(楯)―美しく塗られしそれ―と王をば予が賛うるを
北欧のスカルド詩にはケニングという例えの技法があり、その一つである「フルングニルの足裏の葉」とは盾の言い換えになるのですがその由来は。
巨人フルングニルが雷神トールと決闘した際、トールを待つ彼の武器は砥石でできており、彼の頭と盾は石製であったと語られており、
フルングニルがトールの従者シャールヴィの計略に乗せられ、楯を地面に置きその上に乗ったという記述にあるようです。
『北欧神話物語』(著者K・クロスリイホランド 訳・山室静、米原まり子 青土社)の「北欧神話ノート」には、
スルード(スルーズ)はトールの娘だが、このほのめかしは、フルングニルがスルードを運び去ったか犯すかした、この神話のより早い版を指している。
その場合はトールは、もともとフルングニルを片付ける、言わば個人的と共に職務上の理由を持っていたわけだ。
とあります。
とすると、アースガルズの女神たちとトールと巨人たちを巡る事件の輪の中で、正反対の要素が浮かび上がってくるわけです。
女神フレイヤが複数の巨人に懸想され狙われる関係で、巨人を倒して神界と人界を守護する雷神トールは彼女を狙う巨人たちを片端から殺し、
結果としてフレイヤの一番のボディーガードになっているわけですが、
フルングニルがスルーズに手出しをしたのだとすると、トールは自分の娘を守れなかったという結果に。
妄想を逞しくすれば、巨人に連れ去られてしまったスルーズは他のアース神たちとの婚姻の望みを絶たれてしまい、そこにアルヴィスが付け入った……とも考えられるわけです。
せめて父として娘に惨めな結婚をさせたくない、という親心だったのかもしれませんね。
それにしても、「一人ぼっちでいるよりは、雪のように肌の白いあの娘が欲しいのだ」と言っていたアルヴィスも哀れではあります……。
(一応上記を参照すると、巨人の男が攫いたくなるくらいの年齢の頃にマグニは生まれたばかりの赤ん坊、ということになると思われますからスルーズは姉でマグニは弟になるのかなと。)
さてスルーズについては、北欧神話を扱った書籍では結構な割合で「トールの娘でヴァルキューレの一員である」と書かれていたりします。
というのも、先述のエッダ詩『グリームニルの歌』でオーディンが挙げている13人のヴァルキューレの中にスルーズの名前があるからなんですね。
女神でヴァルキューレを兼任しているといえば、スノリのエッダ『ギュルヴィたぶらかし』第36章に次のように書かれています。
スクルドという運命の女神のいちばん末の者が、たえず馬にまたがって戦死者をえらび、戦いの決着をつけるのだ。
運命の女神とヴァルキューレ兼任って忙しそう……というか"たえず"って表現からすると、運命の女神をやってる余裕の方がないのでは?(笑)
しかしスルーズはスクルドと違って、スノリのエッダ内の『詩語法』においてはトールの娘、としか記されておらず
『グリームニルの歌』でもヴァルキューレのスルーズは名前以外何も記されていません。
つまり、北欧神話の資料の中で"トールの娘のスルーズ"と"ヴァルキューレのスルーズ"が同一の存在であるという記述が確認できない以上、
個人的にはトールの娘と13人のヴァルキューレの一員は名前が被ってるだけの別人、と判断しています。
……しかし、トールの娘がヴァルキューレ。そういう設定のライトノベルなんてあったら、すっごく面白そうではあるんですが!(笑)
ところでスルーズは、13人のヴァルキューレの一員以外とも名前被りしています。
ただし人物や神ではなく、父トールの領地とされているスルーズヴァンガル(『グリームニルの歌』ではスルーズヘイム)、意味は力もしくは強き者の平原(または国)です。
北欧神話では、例えば世界樹ユグドラシルのほとりにあるというウルズの泉は、運命の女神ノルン(複数形ノルニル)の最年長・ウルズの名前がつけられ
また巨人ミーミルが管理している知恵の泉も、同様にミーミルの泉と呼ばれています。
他にはロキの娘でオーディンによって地下国ニヴルヘイムに投げ込まれ、その女王となったヘルが治める死の国も、彼女と同じくヘル(冥府)と呼ばれるようになりました。
これらの例に当てはめると、トールが領地の名前を娘につけたというよりは、"スルーズヴァンガルが元々スルーズの所有"という可能性も、僅かながら浮上してきます。
寝言を言ってるとしか思われないでしょうが、根拠はあります。
その昔、『神話・伝承事典』(バーバラ・ウォーカー著・山下主一郎主幹 大修館書店 1988年7月1日初版発行)という本がありまして。
現在アマゾンなどでレビューを見てみると、評価は低いものが多いです。
というのも、項目や図版は豊富なものの、フェミニズム的視点から世界の神話を読み替えるという主旨のため正確さに欠け、かつ強引な結論も多々あるため無理もないとは思うのですが
一方、読み物として見るならこういう視点もありかな、というくらいには面白いです。
その『神話・伝承事典』、北欧神話の雷神トールの項にこんな記述があります。
(前略)彼(トール)はトゥルド(力)(=スルーズ)としての大地女神と結婚した。のちの神話では、トゥルドはトールの「娘」となっている場合もあるが、アスガルドの彼の館は
大地女神トゥルドのものであり、トゥルドヴァンガル(「トゥルドの野」)と呼ばれていた。
……トールの館には"ビルスキールニル"って名前があるんですけどね……。
『神話・伝承事典』の著者は、トールを"ユピテル(ジュピター)同様の雄牛の神"と定義していますが、項目の中に根拠は書かれていません。
ただ鶴岡真弓『黄金と生命 時間と錬金の人類史』(講談社 2007年4月20日第一刷発行)によると、紀元前七千年紀に農耕革命を起こした(牛を使った耕作を始めた)古ヨーロッパ文明が
白い雄牛に化けたゼウスに誘拐されたという神話を持つエウロパ(ヨーロッパの語源)を大地女神として崇めていた、と書かれていまして。
つまりゼウスが変身したとされる雄牛を連れてヨーロッパ大陸を巡り、耕作を広めた女神エウロパと
ゼウス≒ユピテル→雄牛に化身する男神・女神の連れ合いにして耕作を担当させられる獣のペアを同じく女系・母権社会が男系・父権社会に先んじていたという立場を取る『神話・伝承事典』著者が
北欧神話バージョンに置き換えたのが、力もしくは強き者という名を持つ大地女神スルーズと、連れ合いの雄牛に化身する男神トールだったということになるのかな、と。
現在、詩のエッダや散文のエッダ(スノリのエッダ)によって伝えられる北欧神話がまとめられたのは約800〜900年前ですから、文字として残らなかったさらに古い時代の北欧神話には
もしかするとそういった別バージョンも存在したかもしれません。