彼岸花〜骸羅と命〜

綺麗ね。なんだか、この世にあるものじゃないみたいに、綺麗。

骸羅おじさま。命はこのお花、好きよ。

この世にねぇもんか。

命、それはな、彼岸花ってんだ。

”向こう岸の花”って意味よ。

向こう岸?

母さまも、そこにいるの? おじさま。


いるのかもしんねぇな。

そんで向こう岸から、ずーっとおめぇのことを見てんだろう。




風が、しんみりと冷たくなり始めた秋。

枯華院の縁側に、蒼の着物を小奇麗に纏った小柄な少女が座っていた。

首のところで切りそろえられたお河童の髪、

円らな、紅い瞳。

みこと。」

少女の背後から、野太い声が聞こえた。

振り向いた少女が、微かに笑う。

「骸羅おじさま。」

巨体の修行僧・花諷院骸羅は口をへの字に曲げ、頭を掻きつつ、少女の背後に立っている。

「あー・・・・・・まぁなんだぁ、その・・・・・・さっきは悪かったな。」

「さっき? ・・・・・・お酒のこと?」

「たいしたことねぇと軽く考えちまったんだが・・・・・・やっぱ、餓鬼に酒勧めたのはよくねぇやな。」

「骸羅おじさま、和狆おじいさまに叱られちゃったの?」

命と呼ばれた少女は、心配そうな声と表情で骸羅に向き直った。

「あ、いや、別にジジイが雷落としたわけじゃねぇ。あのな命。

お前、なんでもかんでも心配しすぎだぞ。」

さっきの一件もそうだった。

つまらん悪戯心で、こいつに酒を勧めたのは俺なのに。

命は、それを咎めた和狆に自分が飲みたいと言ったせいだ、と事実に反することを言ったのだった。



「ごめんなさい、おじさま。」

「謝るこたぁねえだろうが。おめぇは何も悪いことしてねぇってのによ。」

ぶっきらぼうな口調が怒りを表していると思ったのか、

命は口をつぐみ、庭に目を向ける。



男ばかりの枯華院で育てられている、この穏やかで気持ちの優しい少女。

常に周囲に気を使い、皆に波風が立たぬようにと心を砕いている。

ただ、時たま少女はただ一人縁側に座り、

何を見るともなく目を泳がせていた。

少女の紅い目は、枯華院の鎮守の森を抜け、町並みを抜け空を抜け、

何も存在しない虚空に泳いでいるようだった。



命は、己の父の顔を知らず、母の顔を知らない。

そのことが、やはり彼女の心に寂しさの影を残しているのだろうか。

一人ぼっちで縁側に座る幼い命の姿は、何処にも寄る辺を持たない頼りなさの中に

ぽつねんとあるようだった。

枯華院でも、稀に赴く麓の町でも、命を邪険にする者などいないのに。

誰に対しても優しく、あらゆる人を気遣い、感謝を忘れない幼い娘は、

それでも己の居場所は此処ではないと、常に居心地悪く感じているようだった。

他の誰も持たぬ、紅い目の故か。

それは、命が生まれながらに負った宿命。

彼女の父と母が残した。

逃れられないもの。


一人ぼっちで遠い虚空を眺める少女の、紅い目をふっと目に留めた時。

骸羅はいつも、かつて赤子だった命を枯華院に連れて来た、彼女の母の瞳を思い出す。




こいつの母親。

あの時参道ですれ違っただけの。

人形みてぇに綺麗な女だった。

俺は直接、命の母親と話とかしたわけじゃねぇ。ただの一言も。

けどあの時のことは、多分一生忘れねぇだろうな。


桜の花びらがそこら中で風に舞ってて、

信じられねぇくらい真っ白な肌と、真っ黒な短い髪と、

真っ赤な唇をした蒼い着物の細身の女が石段を降りてきた。

俺は修行の身ってこともあって、

女に見惚れたりゃあしねぇ方だと思ってたんだが。

なんつうか、命の母親を見た時は。

思わず息が止まった。

そういうことって、ほんとにあるもんなんだな。

この世の女じゃねぇみたいな、そんな感じだった。

妖しくて儚げで。

女はすれ違う時、少しだけ俺に頭を下げた。

女の目が、片方が蒼い色で、片方が真っ赤な色だったことが

妙に目に焼きついてる。

長かったのか、それともちょっとの間だったのかよくわからねぇが、

気がつくと桜吹雪に溶けたみてぇに、命の母親は見えなくなってた。

俺はその後も、しばらく動けなかった。



で、枯華院に入って命と初めて会った時は、確か。

ジジィが赤ん坊のこいつをあやしてて、側に覇王丸がいたんだった。


「まっさかたぁ思うが、主が父親じゃねぇよな、覇王丸?」

「違う」

盃を手に、あっさり一言だけあいつは答えたっけな。

俺もそりゃありえねえや、たぁ思ったけどよ。




その時、畳に腰を降ろした骸羅は顎をさすりつつ、覇王丸に問うた。

「するってぇとひょっとして・・・・・・さっき参道ですれ違った、えれぇ綺麗な女子の赤子か?」

「ああ。」

覇王丸は一口ぐいとあおった。

「多分、母親に似た美人になるぜ。」

「じゃあ、こいつも女子か。名前は何てぇんだ。」

「みこと。いのち、と書いて命だ。」

「神様についてるみてぇな名前だな。ジジィがつけたのか?」

「いいや。この子の母が、この子に残していった唯一のものじゃよ。」

赤子を抱いた和狆が答える。

「何だぁ!? じゃあ、あの女子は自分の娘をここに押し付けてったてぇのか! 」

骸羅は喚きながら立ち上がった。

「なんっちゅう薄情な母親だ! てめぇが腹痛めて産んだ娘だろうがぁ! だったらてめぇの手でちゃんと育てんかい!」

「あいかわらず、真っ当だが五月蝿ぇな骸羅は。」

さらに杯をあおりつつ、覇王丸が言う。

「この子が望むから、と母御は言っておったのぅ。」

「赤ん坊が何を言ったっつうんだよ?」

食って掛かるように、骸羅は師である和狆、赤子をあやしている好々爺然とした和尚に問うた。

「こいつは、命という名前と一緒に、二つの運命を背負わなくてはならん、と・・・・・・。」

覇王丸の声に、骸羅は振り向く。

盃に酒を注ぎながら、覇王丸は続けた。

「色はそう言った。」



睨み付けんばかりに自分を見ている骸羅。

知らない人間はこの形相と眼光に縮み上がるだろうが、

これがこいつの、真剣に話を聞いている時の態度だ。

盃に口をつけつつ、

覇王丸は骸羅に、命の母・色が残した言葉を告げた。



桜吹雪の舞い踊る中、女は言った。

「あの子は・・・・・・”七王を従える者”の半身と・・・・・・半陰の女の血を受けた者・・・・・・

”命じる力”を持つことを、定められた者なのです・・・・・・私が育てるわけにはいかない・・・・・・。」

「それが、赤子の名前のわけか。」

「もう一つあります。あの子は私と共に消え去るところを救われた命・・・・・・

救ってくれた一人であるあなたに、見守っていてほしいのです。」

女は覇王丸を見た。

かつての虚無を宿した瞳ではない、悲壮な願いを込めた瞳で。

「どうか・・・・・・。」

女は、そう呟くように声を絞り出し、頭を下げた。

かつて禍々しい手によって結び付けられる筈だった、半陽の男に対して。



命には、生まれながらにして負った宿命がある。

覇王丸の話だとそういうことらしいが、こいつは親がどこの誰だろうが目の色が紅かろうが、

ただの娘っ子じゃねぇか。

そのうち好きな男ができでもしたら、そいつと一緒に生きりゃあいい。

こんなチビのうちから、暗くなることなんか何にもねぇじゃねえか。

なんとか元気づけてやらにゃあ。

そうだ、こいつの親の話だったら喜ぶんじゃねえか。

ジジイはまだ命に教えるのは早い、とか言うけどよ。



「なぁ、命。」

骸羅は、どすんと命の隣に腰を降ろす。

「聞けや。話があんだ。」

「なぁに、おじさま?」

命は骸羅に向き直った。

「俺が直接聞いたわけじゃねぇが、おめぇの名前はおふくろさんが

直接おめぇにくれたもんなんだぞ。」

「母さまが・・・・・・。」

「俺は詳しいこたぁ知らねぇけどよ。おめぇが生まれるためにな。命を投げ出した奴がいたんだと。

おめぇの親父と、おめぇの親父を好きだった女だ。」

命は、紅い瞳を大きく見開き。

さらさらした髪に覆われた頭が、打ちのめされた様子で俯いた。

「なんだ、どうした?」

問い掛けた骸羅の耳に届く、涙声。

「私のせいで・・・・・・私のせいで、不幸になってしまった人がいて・・・・・・」

「待てよ、おいっ! 馬鹿ヤロウッ!」

慌てて骸羅は、命の肩に手を伸ばす。

おっと、力を入れちゃいけねぇ。命が痛がる。

「あ、あ〜、違う違う、おめぇが悪いわけじゃねぇんだ命。

泣くなってんだ! おめぇは何も悪かぁねぇんだよ!」

命が、涙に潤んだ紅い瞳をあげた。

流れた雫の痕が、真っ白な頬に残っている。


いけねぇ。

また怒鳴っちまうとこだった。

骸羅は頭を掻く。

(骸羅さん、だから怖がられるんだよ。)

ふっと、記憶の底から娘の声が聞こえた。

昔、鬼の騒動が起きたとき、出会った蝦夷の氷使いの娘。


(怖い人なんて、思われちゃうんだよ。骸羅さんはとっても優しいのに。)

娘の大きな目を思い出す。

今ここにいるわけでもないのに、じかに見つめられているような気がした。



そういやぁ。

魔物の人形遣い、とかいうもん絡みで妙なことが立て続けに起こった時、

覇王丸があの娘・・・・・・りむるる、とか言ったよなぁ・・・・・・

あの娘の噂を何べんか聞いたことがあるとか言ってたか。

あれから何年も経った。あの娘は今どうしてんだろう。

なかなか可愛かったからな。今頃さぞや、男どもがほっとかねぇ別嬪になってることだろう。


おう、しまった。

今俺は命の相手してんだよ。

こいつは俺らで育てた、大切なお姫さんだ。


「なあ、聞けや命。」

力を抜け、力を抜け。

自分に言い聞かせながら骸羅は、命の小さな肩にそっと手を置いた。

「覇王丸からの又聞きだから、あんま詳しくは話してやれねぇけどな。

おめぇの親父は、おめぇのお袋とおめぇが好きだった。そんで、お袋と腹の中のおめぇを守りたかった。

親父を好きだった女は、親父に悲しい思いをしてほしくなかった。つまりな。

皆、悲しませたくねぇ、幸せになってほしいって思う大事な奴を持ってたんだ。」

俺は、魔物の人形遣いの手下だったという命の親父のことも、

人形遣いに作られた”人形”だったという横恋慕してた女のことも知らねぇが、

大事な奴がいて、そいつを悲しませたくねぇ、って心を持ってたんだったら、

それがどういう気持ちなのかってことぐれぇはわかるぜ。


潤んだ紅い瞳で、少女が骸羅を見上げている。

「おめぇの親父は、疑問を感じながらも悪い奴の手下になってた…って覇王丸から聞いたんだが、

その悪い奴がおめぇのお袋を犠牲にしようとしてることを知って、そいつに刃を向けた。

親父を好きだった女は、おめぇのお袋が悪い奴の作ってた妖怪に襲われた時、身代わりになって死んだ。

そこまでしたのは、どっちも大事な奴を助けてぇと思ったから、そんで悲しませたくなかったからだ。

だから命をかけたんじゃねぇか。

それは”おめぇのせい”というのとは違うだろ?」

骸羅は、少しだけ、少女の肩に置いた手に力を入れる。

「おめぇのために、じゃねーか。ああ?」

ほんの軽く揺さぶっただけのつもりだったが、命は明らかに驚きで目を丸くした。

骸羅は少女の顔まで目線を下げて、覗き込む。


「だから、おめぇは幸せにならなきゃいけねぇんだ。

おめぇのお袋と、親父と、親父を好いた女の分ひっくるめて生きて、うーんと幸せになんなきゃいけねえんだぞ。

な。」

命の紅い瞳が、そう言った骸羅をじっと見つめている。

「はい。」

縁側で共に座ってから初めて、少女は嬉しそうに、にっこりと笑った。


「風が気持ちいいなぁ。じきに冷たくなっちまうけどよ。ちっと歩くか!」

言うなり骸羅は、命の答えも聞かずに彼女を抱え上げ、肩の上に乗せた。

「おじさま、」

何か言いかけた命は、そのまま口を閉じる。

彼女の重みが肩にかかる。

「おめぇ、言いてえことはちゃんと言っといた方がいいぞ命。」

言いつつ骸羅は歩き出す。

「ええっとな。俺はあんま物覚えがよくねぇから、さっき言いかけたおめぇの名前の由来、

ちゃーんと覇王丸から聞いたこたぁ聞いたが半分忘れちまったんだがよ、

おめぇのために命をかけてくれた奴らに感謝するために、

その命の分まで生きるように。ってことらしいぜ。

つまりさっき俺が言ったことと一緒だ!」

少女は。

骸羅の袈裟の下の、衣の端をそっと掴んでいた。


命を肩に乗せて骸羅は、夕暮れを映す田圃の畦を歩く。

「あ、おじさま。」

「どうした?」

「あれ。あの紅いお花。」

少女は小さな指で、畦に鈴なりに咲く炎のような花の群れを差した。


骸羅の肩から下ろされた娘は、花の側にひざまずき、茎を手にとって揺らす。


「綺麗ね。なんだか、この世にあるものじゃないみたいに、綺麗。」

微笑みながら少女は、骸羅を振り向いた。

「骸羅おじさま。命はこのお花、好きよ。」

この世にねぇもんか。

「命、それはな、彼岸花ってんだ。”向こう岸の花”って意味よ。」

腕を組みながら骸羅は、少女に答える。

「向こう岸? ・・・・・・母さまも、そこにいるの? おじさま。」

「いるのかもしんねぇな。おめぇの親父と一緒に。そんで向こう岸から、ずーっとおめぇのことを見てんだろう。

いつかおめぇが幸せになれるようにな。」



紗羅、紗羅と、向こう岸の花は鳴り渡る。



解説