流雲涙華第一部 風間火月対八角泰山
風、再び (壱)


「あーあー!もうすっかり日が暮れちゃったじゃない!」

黒く闇に沈んだ木立の中、少女の大声が響いた。

「……大声出しても仕方ないよ、リムルル」

諭すのは、落ち着いた少年の声。

「大体ねぇ!」

少女の声が非難めいた調子を帯びる。

「閑丸がのろのろしてるのがいけないっ!」

「……なんでそうなるの」

非難を受けて、少年の声は困り果てた気配を滲ませて沈んだ。

「大事な旅なんだから、急がなくちゃいけないってわかってるでしょっ! 壊帝を倒して」

少女の声が一度途切れた。

「……姉さまを探し出さなきゃならないんだから!」

「リムルル」

少年の声が、再び少女を呼んだ。

「だからって、ここで大声出しても何にもならないよ。まずは壊帝がどこに隠れてるのか、突き止めなきゃ」

先ほどより小声で、少年の声が少女を諭した。

「鬼を探すより大変そうだけどね……」

「弱音を吐かないっ! 絶対に見つけるんだから!」

円く柔らかい月の、柔弱な光の下。

決意を込めた声と共に少女は前を向き、昏き虚空を睨む。



少年の名は緋雨閑丸、少女の名はリムルル。

二人は、人形師……または傀儡師を名乗る妖魔・壊帝ユガを探すため、共に旅を続けている。




アイヌモシリ(蝦夷。現在の北海道)はカムイコタンで、巫女の家系に生まれたナコルルの妹として

巫女の修行をし、カムイコタンに代々伝わるシカンナカムイ(雷神)流刀舞術を習ったリムルルは、

姉ナコルルが魔界より姿を現したウエンカムイ(悪神。羅将神ミヅキ)と戦い姿を消してから、

姉の後を継ぎ、カムイコタンの巫女としてまたシカンナカムイ流の戦士として戦うことを決意し、修行の日々を送っていた。

そんなある日、カムイイピリマ(カムイのお告げ)がリムルルに降ったのである。

ナコルルは生きている、と。

壊帝ユガを倒せば、その時姉の行方は自ずと明らかになるだろう、と。



(姉様が生きてる!)

リムルルは矢も盾も堪らず、カムイコタンを飛び出した。

正確には、一人飛び出そうとしたところを緋雨閑丸に止められ、

二人揃ってカムイコタンを旅立ったのである。



「閑丸には関係ないじゃないっ!」

その時は止めに来たとばかり思って、そう眦(まなじり)を吊上げたリムルルに閑丸は言った。

「関係なくない。僕もナコルルさんにはお世話になったから」

閑丸は既に旅支度を済ませていた。近頃目にしなかった、あの巨大な太刀を閑丸が元から持つ小太刀と共に佩いているのを見て、

リムルルが閑丸が"本気で往く"つもりだという事を知った。

「それに、僕には僕なりに壊帝を倒す理由がある」



(……閑丸が壊帝を倒さなくちゃいけない理由……。)

カムイコタンを出たときの事を思い返していたリムルルは、ふと思った。

達成された時、もしかしたら閑丸はカムイコタンを去ってしまうのだろうか?

……考えたこともなかった。

いつの間にか、カムイコタンの生活の中に、閑丸の姿があるのが当たり前になっていたから。



あの、「鬼」と呼ばれた巨漢、壬無月斬紅郎との死闘の後。

リムルルは閑丸をカムイコタンまで連れて来た。

早いもので、既に二年の歳月が流れている。

もう、記憶の事は拘っていないと閑丸は言うが、

彼にはそれ以外に心残りがあることをリムルルは聞いている。



「……どうしたの?」

閑丸に声をかけられ、はっとするリムルル。

知らないうちに足が止まっていた。

「ううん、なんでもない。行こっ!」

笑顔を作ってリムルルは、閑丸の手を取り先を促した。




自分の手を取り、引っ張るようにして再び歩き出した彼女の後姿を見ながら閑丸は思う。

(……あの時、リムルルは……僕の「鞘」になってくれたから)

今でも忘れない、そしてこれからも、忘れる事はないだろう「鬼」との死闘。

そして「鬼」を倒し、自分もまた「鬼」だということを知ってから後の事。

リムルルがいなければ、今頃自分はどうなっていただろうか。

(お礼に僕が、彼女を助けなくちゃいけない)

そしてこの旅は、ただリムルルのためだけではなく、お礼のためだけでもない。

(今の僕には、守らなくちゃいけないものがある。やらなくちゃいけないことがある)

ひとつひとつ、閑丸は思い出す。

ひとつはリムルルを支え守るため。ふたつ目は、彼女の姉ナコルルを探すため。

(「鬼」との闘いのあと、どうすればいいか分からなくなっていた僕を助けてくれたのは……ナコルルさんだから)



「……閑丸くん」

リムルルに連れられカムイコタンの土を踏んでからしばらくして。

ナコルルが、閑丸が村人達にあてがわれたチセ(家)に訪ねて来た。

カムイコタンに居ついてからその時まで、閑丸はチセから一歩も出る事無く、ただ日々だけが過ぎていった。

今にして思えば、閑丸がチセに篭っている間一度もリムルルが尋ねてこなかったのは

ナコルルに止められていたためかもしれない。

リムルルに確かめてはいないけれど。


顔を伏せ俯いたままの閑丸の前にナコルルは座る。

二人とも無言のまま、しばしの時が流れた。

「僕は……鬼……なんだ……だから……リムルルの近くに、いちゃいけないんです……」

閑丸の前にじっと座っていたナコルルは、少し沈んだ哀しい色の瞳で閑丸を見ていた。

(……この人は、僕の事をどう思っているんだろうか)

「鬼」を宿した者に、妹の側にいてほしくないと思っているだろうか。

「鬼」は何かを、殊に人を斬らずにはいられない。

家族としては、ここにいて欲しくないに違いない。それは当たり前のことだ。

それならリムルルの側を去り、カムイコタンを離れるのがきっと正しいことなのだろう。

きっとナコルルは、出て行ってほしいと告げるために来たのだと閑丸は思っていた。

そして彼は、項垂れたままナコルルのその宣言を待つ。



「鬼は誰の心にもいるわ」

ナコルルはそう言った。

閑丸は顔を上げる。

「生命はいつか尽き、花も草も木も枯れる。

嵐は吹き、川は溢れ、地が揺れて全てを壊す事もある。

鬼が破壊の衝動を宿したモノ、というのなら……それもまた、大自然の一部です」

「……僕は」

閑丸は言葉を搾り出した。

「僕は、鬼のままでいいんですか」

「あなたが心の鬼のままに行動すれば、たくさんの人が死ぬ。私はそれを見過ごせないけれど」

澄んだ瞳が閑丸を見据えた。

「あなたは心の鬼と向き合い、その力を抑えることができる。鬼を滅ぼすことはできなくても、抑えることは必ずできるはずです。

私も、リムルルも」

ナコルルは閑丸に微笑んだ。

「そう信じているわ」

そして閑丸は、ナコルルと共にチセから足を踏み出した。

笑顔のリムルルが駆け寄ってきて、閑丸は彼女に鼻をつままれたのだった。




そして、みっつ目。

閑丸は数年前、ある一家の世話になり居候として過ごしていた。

儚という女性とその夫。

儚は新たな命を宿していた。

夫婦は一時、日輪國の黄泉ヶ原という場所に出かけそこでの戦に巻き込まれ、

閑丸は二人を探し回り、徳川慶寅という男……将軍家の一人で、一時は次期将軍筆頭候補であったという……の力添えで

無事出産した儚と、傷を癒していた夫に再会した。

もう、過去を探すのは止めよう。

みんなと一緒に生きていこう。

そう決意し、儚たちと共に暮らし始めた閑丸だったが。


二年後。

安らいだ暮らしの中で、何故か「鬼」の夢がますます強くなり閑丸を襲った。



儚夫婦の息子・二歳の小綱(おづな)は閑丸を慕っていたが。

このまま「鬼」の夢に縛られていると、僕はそのうちこの子に……儚さんたちに何をするかわからない。

そして閑丸は、仕舞い込んでいた……"封印"していた刀、

大祓禍神閑丸を手に、何も言わず儚たちの家を出た。



リムルルがカムイイピリマを受けたのと時を同じくして、

レラ(風)に乗り、レプンモシリ(本州)から鷹のママハハが伝えた事実。

儚が身篭った胎児……生まれてくれば小綱の弟が妹になる……が、彼女の胎から姿を消した、と。

リムルルが受けたカムイイピリマによると、人形師……壊帝ユガは、母の胎から生まれる前の赤子を誘拐するという。



僕には、壊帝を追い戦う理由がある。

いくつも、ある。

ナコルルさんを助けるため。

リムルルを支えるため。

儚さんの子供を、生まれてくる小綱の弟か妹を取り戻すため。



一人、「鬼」を探し彷徨っていたあの頃と違って。

今の僕には、守りたいものがあるんだ。助けたい人がいるんだ。

今度こそ、一人じゃない。

自分が何者なのか、未だもって分からない。

でもそのことよりも、今の自分が手に入れたもののために。

今緋雨閑丸が大切と思うものと、大切と思う人のため戦う。

それなら、それでいいんじゃないか。

閑丸はそう思い始めている。否、今やそう思って旅を続けている。




二つの人影は、山道に差し掛かる。

「……こっちで、いいの?」

リムルルは閑丸を横目で見て、ぽつりと困惑気味に問いかけた。

「……」

閑丸は、その背に負った小振りな太刀の柄、大祓禍神閑丸の上部に取り付けられた宝玉を見る。

「気配はある」

「壊帝ユガの奴は、ここに来てるんだね?」

「……微弱な気配で、壊帝のものかどうかは判別できないけど。邪悪な何かの気な事は間違いないと思うよ」

閑丸は、最後の言葉を低めた声で告げた。

「姉さま……待っててね」

活発な印象を残す両足を見せた蝦夷の衣装に身を包むリムルルは、小さく呟いた。


次の瞬間耳に届いたのは。

(悲鳴だ!)

それも年若い女のもの。

咄嗟にそれだけは理解できた。

(まさか)

思った瞬間に

「姉さま!」

叫ぶと同時にリムルルは駆け出した。

「リムルル!?」

閑丸も、すぐさま彼女の後を追う。

黒々と闇に沈む木々の間から、見えてきた光景。



山小屋の前で、赤毛の筋骨逞しい若い男が、

凄まじい形相で邪悪な笑みを浮かべながら、

一人の少女を吊り上げ、その首を締め上げていた。


 



(3)へ   (4−2へ)  アスラSSトップ  小説トップ

サイトトップ