流雲涙華〜序〜


空を穿ち、嵌め込まれた如くに月が輝く闇夜であった。

幽玄な形の岩山が綿綿と連なり、月明かりを溶かした闇に沈んでいる。

まさしく霊峰と呼ぶに相応しい光景であった。

足が、地を踏み締めて鳴った。

その男が纏うは、闇に溶け入る如くに黒い拘束具。そこから覗く、陶器の如く白い肌。

血の通う温もりを全く感じさせぬ、人ならざる肌だった。

纏わりつく長き黒髪の下、彫の深い顔立ちが垣間見え、峻烈な光の宿る赤い双瞳が、月光を反射する。

男は念じる。

呼応せよ。

七つの座に属するモノよ。

契約に呼応せよ。

俺の力となれ。

男は己の内側に、意識を集中する。

研ぎ澄まされた意識が探るのは、

七つの座に属するものたちの共鳴。

契約は今も生きている。

既に四つの座は彼の元に還り、

その馬手(めて。右手)に宿る刻印より、彼の命に呼応し現世に現れ、その戦いを補佐する役目を果たしている。

残り、三つの座。

この大陸、霊気を帯びた大地からその闘気が感じ取れるか。完全なる復活が叶うか。

あの者への復讐のために。

僅かな気配があった。

生あるものの影が全くないこの霊峰で、感じられたのは命の鼓動。

それは人のもの。

ひとりの心の蔵の鼓動が、規則正しく立てる響きを男は聞く。

その鼓動には、微かな違和感があった。

男は、鼓動に向かい踏み出す。




やがて男は、月明かりの下ひとりの若者を見出した。

簡素な武術着に太刀を佩いた若者は、

男を見て驚愕に目を見開く。

「……何奴!」

若者は構えを取り、腰の太刀を抜き取る。

その様子を見やる男の瞳から、

徐々に赤い光が消え、

黄金めいた色へと変じていった。

月明かりの下で、男の瞳は今は琥珀の色に映っている。

若者の目に、男はどう見えているのか。

純白といっていい完全なる白、血の流れの感じ取れぬ肌は人のものではない。

男の全身を、手足の一部を除いて覆い尽くしている黒衣……かつて男が仇敵に架せられた拘束具は

おそらく若者の目には、これまで見聞きしたことのない類の鎧と映っていることだろう。

「貴様……人ではないな……魔物か!」

若者は抜き身の太刀を手に、男に問い掛ける。

「それとも魔教の生き残りか? まさか、あの折に師父が討ち漏らされたとでも……答えろ!」

若者の問いかけは今や叫びに近かったが、

男は全く意に介していなかった。

男が、感情を全く窺わせぬ面で見すえているものは若者の魂であった。

若者を若者たらしめている、精気の根源。

身体の中心で揺らめき、精気を発しているその魂には瑕が残っている。

刃で抉り取られた痕が。

それこそが、男の仇敵が常用する秘術の痕だった。

男は馬手を開く。

掌と甲とにそれぞれ施された刻印、万魔印と称されるそれが仄かに紫の光を帯びる。

すぐさま光は強まり、男の手から抜け出る如く、零れ落ちる如くに形を為す。

現れ出たそれは、漆黒の長刀だった。

相対する若者の全身に、緊張が走ったのが見て取れる。

男は、手にした長刀を薙いだ。

刃が青く光を放つ。

若者が身を反らし、

頭のみ地につけ背を弓なりに反らせ、反動で一気に後方へ飛び退いた。

その刹那に彼が目にしたのは、裂け目。

在り得ないはずの現象だった。

目の前の空が裂け、闇の満ちる中に一筋、亀裂が走り赤黒い光が漏れ出している。

そこに手をかけた謎の男は、刃を若者の方へ向けていた。

その刀身には一面に、摩訶不思議な、異様な文様が刻み込まれ、

切っ先には微かな血糊が残り、何かがまとわりついているのを若者は見て取った。

するりと、その何かが剣先から零れ落ちる。

「人間よ」

低く声が響く。

「俺に関るな」

若者が、初めて発せられた男の声に幾許かでも注意を向けたか否かは定かではない。

彼の意識は完全に、男の刀から地に零れたものに奪われていた。

「まさか」

目にしたものが何であるかを認識しつつ、それを信じられないと、その声は告げていた。

そんな若者に背を向け、男は自ら作り出した空間の亀裂に身を滑り込ませようとしている。

「ま、待て!」

ようやく注意を向けた若者が叫んだ。

「貴様、我が師父に何をした!」

若者が立ち上がった時には、男の姿は亀裂に消え失せ、

同時に、裂けた空間は何事もなかったように閉じた。

後には闇が残り、静寂が残り、

地のすべてに桂の影が降り注ぎ、

若者は、求めた答えも手がかりも何ひとつ得られることなく、佇んでいた。

「師よ……!」

切迫した呟きと共に、若者は身を翻し夜の霊峰を駆け出していく。




この若者は幸運であった。

闇より来たりしもの、闇の世界で”万魔の王”と呼ばれる魔人の目前に立ちながら生き長らえたのだから。

さらに幸運と言えるのは、若者が魂に残していた”万魔の王”の仇敵の痕跡が

魔人の怒りを誘うような状態になかったということだろう。

降り立った大陸に、契約した座の気配は無く、

漆黒の刀”レフィシュル”を召還しても、全く共振が得られなかった。

これ以上の探索は無意味と悟り、彼はその場を離れたに過ぎない。

仇敵との関りを今や絶たれた若者は、男にとっては如何なる意味も持たぬ「在るもの」にしか過ぎなかったのである。



万魔の王。

その名は闇の世界で、「神に背くもの」「神を裏切るもの」そして

「無きもの」を意味する、アスラとして知られている。

アスラは、己の仇敵への復讐のためにのみ現世に現れた。

その仇敵、”壊帝ユガ”と名乗る魔に関るもの、またかつて関りを持ったものはすべて

善悪の区別なく、一様にアスラによって滅せられるだろう。




アスラは、壊帝への復讐への一歩を踏み出そうとしていた。


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