月天心


「きゃあっ!」

手にした弓・鎮聖八浄が弾け飛び、

真鏡名ミナは吹き飛ばされて地に這った。

「ミナー、ミナー。」

彼女に付き従う唯一の友・小動物のチャンプルがとことこと走りより、倒れた彼女にしがみ付く。

そのまま泣き出したチャンプルのぬくもりを感じながら、ミナは漸う目を上げた。

その彼女の上に落ちかかる言葉。

「──風は射抜けぬよ。」

一人の老爺、彼女が先ほどまで戦っていた老爺が

片手で印を結び、そう呟いていた。



確かに、老人と思えぬ見事な動きだった。

矢を射掛けても、老爺は流れるような動きで交わし、まさに風に乗るが如く刹那に間合いを詰め、

ミナの懐にまで入り込むと手にした青竜刀を薙ぐ。

一歩間違えれば、確実に屠られていただろう。

ミナは唇を噛む。

「私・・・・・・ここで負けられないのに。」

「ミナぁー。」

涙で円らな瞳を潤ませたチャンプルが、泣き声を出す。

「仇を討つまで負けられないのに!」

その叫びに、老爺は視線を僅かにミナへと向ける。

「ならば、儂のことは捨て置くべきであったな」

ミナは顔をあげ、老爺を睨みつけた。

「私は妖滅師だもの」

低く呟き、そして意思を込め声を高める。

「あやかしをほうっておけるわけがないでしょう!」

ミナにあやかしと呼ばわれた老爺は、

感情を窺わせぬ厳めしい表情を崩さなかった。




これまで、故郷の琉球王国を出たことのなかった真鏡名ミナは、海を渡って北上し、大和人やまとんちゅの国土に辿り着いた。

目的は、彼女のシマを滅ぼしたあやかしを見つけ出し、倒すことであった。

彼女は琉球王国でも屈指の妖滅師、つまりは”あやかしを滅する者”であった。

だがある時、妖滅の生業のために村を離れた彼女は、強大な邪気を感じて急ぎ村へ引き返し・・・・・・

そして、滅ぼされた生まれ故郷を目にすることとなった。

瓦礫の山と屍の群れの中、ミナを呼び、泣きながら彷徨うものがあった。

ミナが幼い日、ゴーヤを植えた畑で拾って以来離れた事のない、唯一の心の拠りどころ。

小さなシーサー(守り神の獅子)の、チャンプルだった。

ミナはチャンプルを伴い、あやかしを滅する力の宿る神弓である『鎮聖八浄』と矢筒を携え、琉球王国から旅立った。

許せない。どうしても許せない。

その想いに支えられ、ミナは大和人の国土を踏み締めたのだった。

強大な邪気が。

日輪國、という小国の方向から流れてくることを感じ取ったミナは、確かめるべくその方向へと進み、とある岩山に差し掛かった。

「この、雲の流れ・・・・・・凶兆、ね。」

ふと目を上げると。

風が流れていた。

霊力を持つミナには、その風の舞い方が自然なものではないことが理解できた。

「チャンプル、こっちへおいで。」

傍らのチャンプルは、ミナの呼びかけに彼女の長い腰布にしがみつく。

風の行方を追い走った先に、ミナは一人の老爺を見た。

風は、一際長く空へと突き出た岩の先端に立つ老爺を取り巻いて流れていた。

その手に一振りの青竜刀を持ち、首の周りに紅い三角巾をはためかせている、長い白髪の老爺の周りを。

「誰っ!?」

ミナは、大声で呼びかける。

老爺が振り向き、ミナを見下ろした。

鋭利な、深みを湛えた目であった。

「あなたは・・・・・・一体何なの? どうしてあなたの霊力サジは・・・・・・邪悪な気を宿しているの?」

ミナは、老爺をそう問い詰めた。

場合によっては、この場で戦うことも辞さない覚悟だった。

老爺から感じられる邪気はさほど強大なものではないが、

日輪國から流れてくるそれと全く同質のものだったのだ。

「答えて」

ミナは矢をつがえ、さらにそう問うたのだった。




「些事に関わる刻が惜しいが」

老爺は冷淡な視線を彼に敗れたミナに向けていたが、

「あやつが関係しているのならば、捨て置くわけにもいかぬな。先ほど、仇と申しておったが」

正面へ向き直り、彼女と話す意思のある姿勢を見せた。

「そなたと親しき者が、魔のために命を落としたということか。」

ミナは俯き、そのままうなづく。

「私の村は・・・・・・あやかしに滅ぼされたの。家族はもういないけれど・・・・・・私が生まれ育った村だった。

生き残ったのはこのチャンプルだけ・・・・・・。」

むらの者たちはどのような最期を遂げていた。」

老爺は、射すくめるかの如き視線でミナを見据えている。

だがその冷厳な視線には威圧感はない。

「それは・・・・・・。」

一度目を上げたものの、ミナは再び俯いた。

ずたずたに引き裂かれた無残な姿の家々、そして。

「ミナぁー。」

チャンプルが気遣うように彼女を見上げた。

「ミナぁ〜。ちゃん、いるよ?」

ミナは優しい光を宿した目をチャンプルに向けると、小さな体を抱き上げる。

優しいぬくもりが伝わってきた。



「辛かろうが。」

老爺がぽつりと、穏やかに声をかける。

「家も、人も・・・・・・大きな鋭い爪で引き裂かれていた。」

ミナは目を上げ、老爺を見た。

「あの時は私・・・・・・はっきりと気づかなかったけれど・・・・・・多分、獣の姿をしたあやかしの・・・・・・仕業なのだと、思います。」

老爺はミナから視線を外す。

その目は彼方の空へと。凶兆を示す黒雲に埋め尽くされた空へと、刹那向けられる。

「”闇キ皇”は」

呟かれた言葉に、ミナは耳を集中させた。

「魔の炎に包まれている。その炎は、触れたもの全てを刹那に燃やし尽くす。木々も、鋼も、人もな。」

老爺は、ゆっくりとミナを振り返った。

「そなたの邑の者たちが引き裂かれて死し、炎の跡がなかったと言うならば、魔を滅する娘よ。

闇キ皇はそなたの仇ではない。」

鋭い視線が再びミナを捉える。

「立ち去れい。」

その視線が孕む威厳は、妖滅師であると同時に人と接する事に慣れていない一人の少女でもある

ミナを竦ませるに充分であったが、彼女は老爺の視線に萎縮しなかった。

老爺の呟いた一つの言葉が、

ミナの使命感を目覚めさせたのだった。

「”闇キ皇”・・・・・・まさか・・・・・・そんなこと。」

老爺の視線を正面から受け止め、彼女はチャンプルをそっと地に下ろすと、毅然と立ち上がる。

「あなたは・・・・・・劉雲飛? 」

ミナは妖滅師として、老爺に問うた。

「昔・・・・・・闇キ皇に”まやーさりーん”されたという、唐親国とうおやぐにの武人なの?」

老爺の冷厳な瞳に、僅かに厳めしい色が増した。



琉球王国では古来より、神人(かみんちゅ)と呼ばれる巫女たちによってさまざまな神事が行われていた。

真鏡名ミナは有力な神人の候補者であったが、周囲の人々が恐れるほどの強大な霊力サジを最も有効に活かす道として、

”あやかしを滅する者”・・・・・・すなわち、妖滅師となることを選んだ。

あやかしをその身に引き付けるため、肌を晒した衣装を纏い、

破魔の弓と矢を持ち、霊力を集中させて各地に出没するあやかしのモノを射る。

あやかしの姿を捉えるため、彼女は琉球に伝わる様々な怪異の話を収拾し、また大陸より伝わる書物を紐解きもした。

闇キ皇、そして劉雲飛。

その名は、そのようにしてミナが目にした唐親国の・・・・・・大陸の書物に記されていた。



当時琉球王国は、大陸に対し臣下の礼を取り、朝貢を行っていた。

琉球王国が”唐親国とうおやぐに”と尊称する、大陸を支配している王朝は清だが、

遡ること千年の昔。親国の名の元となった王朝、唐の時代。

節度使安録山の叛乱が沈静され、開元の治を築いた皇帝・玄宗の没落を経て数十年の後。

その事件は起きた。



”闇キ皇”と呼ばれる妖魔が、ある男にとり憑き長安の都に現われ、魔の炎と雷鳴を持って町を焼いたと言う。

被害は絶大であり、唐の王朝はここに絶えるかと思われた。

だが妖魔は、とり憑かれた男もろとも

当事の長安で隆盛を誇った武侠の一派・天仙遁甲の門下たちにより封印された。

妖魔闇キ皇は、彼らの師父である男にとり憑いたのだと言う。

憑かれた男、天仙遁甲を極めた武侠の名は劉雲飛。

何ゆえに、男は妖魔に憑かれたのか。

書物の無機質な、事実を羅列しただけの記述からは、全く読み取ることはできなかった。



もし、今ミナの目前に立つ大陸の衣装をまとう老爺が、その劉雲飛ならば。

闇キ皇と同質の邪気を持つのも当然のこと。彼はその身に、闇キ皇を宿したことのある者だ。

その時点で、もはや人ではない。

一度魔の憑代と化した人間は、ただ人世に在り続ける、それだけでも

あやかしを引き寄せ、新たな禍の源とならぬとも限らない。

(それなら妖滅師として、私はこの老人を滅さなくてはならない。でも・・・・・・。)

その前に、確かめなければならないことがある。

「あなたが、唐親国の武人であった劉雲飛なら……千年前封印された者が、なぜ今になって大和人の国に。」

ほとんど呟きのように、ミナは老爺に問うた。

「闇キ皇が、この倭国に憑いた故だ。」

「どうして」

訝しげに、ミナは眉をひそめる。

「あの頃の儂に匹敵する憑代を得たのであろう。」

「日輪から感じられる邪気は・・・・・・かつてあなたに憑いた、闇キ皇だと言うの?」

「然り。」

ミナは、ちらりと視線を移し。

地に横たわる己の弓を見る。

そして今一度、魔に憑かれた過去を持つ老爺・・・・・・劉雲飛を見据える。

「あなたは何故、闇キ皇の元へ向かうの」

雲飛は、挑みかかるようなミナの視線を受け止め、真っ直ぐに視線を送り返す。彼女の瞳に。

「かつて我が手の元で、散っていった者たちへの償いの為だ。」

静かに、重々しく、誓いのように言葉が呟かれた。

「あやつを屠ることでしか、我が罪は償えぬ。」



その言葉に導かれ。

初めて、闇キ皇にまつわる事件を伝えてきた書物の文面が、ミナの脳裏に甦る。

劉雲飛は闇キ皇に憑かれ、”妻を殺め、師を殺め、長安を焼いた”と。

僅か一文ではあったが、

千年の遥かな過去、最も身近な人々を手始めに行われたその残酷な殺戮は、おそらく彼の本意ではなかっただろうと、

その時ミナは心の片隅で、ちらりと思いを馳せたのだった。



「それが償いになるの」

小さな呟きが、ミナの唇から低く零れる。

「一度魔を宿して、汚染された憑代が再び魔に相対し、取り込まれることになったら・・・・・・また嘆く人が増え、あやかしが増える。」

劉雲飛は佇み、険しい表情を崩さず、無言のままミナの言葉を受け止めていた。

「ミナー・・・・・・?」

チャンプルが、ミナの気の変化を察したのか、気遣わしげに彼女の腰布を引く。

「おいで、チャンプル」

優しく声をかけるとミナは両手を伸べ、飛びついてきたチャンプルを抱き上げた。

しかし彼女はその目の片隅に、唐親国の老爺を冷徹に捕らえて離さない。

チャンプルを抱いて、何気ない風を装い立ち上がり、

地に落ちた弓、鎮聖八浄へと近づいていく。

そして弓に手の届く位置に立ち、屈み込んでチャンプルを抱き下ろした。

微笑みかけて、頭をそっと撫でる。

「いい子ね。ねんねしなさい。」

チャンプルは、その場にすとんと腰を落として寝転んだ。

もぞもぞと周囲に散らばる僅かな枯葉をかき集め、その中に潜り込む。

チャンプルは、ぼうっとしたり昼寝をしたりすることが好きだった。

共に昼寝をするのが、ミナにとって最も安らぐ時の過ごし方のひとつだった。

ミナを信頼しきっているチャンプルは、

寝なさい、と声をかけられるだけでそうした。

寝たふりをするだけのことも多かったが、

それよりも、そのまま本当に寝入ってしまうことが多かった。

「にーぶい〜〜・・・・・・。」

小さな呟きをミナは聞く。この様子だと、すぐさま寝入るだろう。

チャンプルには見せたくないと、ミナは思っていた。

見るからに人ではないあやかし、チャンプルも好きではないマジムン(魔物)ならばともかく、

人の姿そのままの劉雲飛を射抜くところを、

チャンプルに見せ付けて怖がらせたくないと、

ミナはそう思っていた。



「私が滅するから」

呟きつつ、聖なる力を宿す神弓である、鎮聖八浄をミナは手に取る。

素早く立ち上がった彼女の構えた弓、

番えられたやじりが、目の前の老爺を正確に捉えた。



「闇キ皇は、妖滅師として私が滅するから。あなたは逝くべきところへと、逝って。」

雲飛は動じた様子を全く見せずに、鏃と、その向こうのミナの顔を見据えている。

「さよなら」

人殺しだ

頭の片隅でそんな声がした。

違う

ミナはその声を否定する。

この老人は、かつて人であっても今は違う。

禍を招くあやかし。

あやかしを滅するのが私の役目。

迷いは消えた。

ミナの指から弦が離れると同時に鏃が空を切り裂き、

確実に、雲飛の身体を射抜いた筈だった。

※まやーさりーん:魔にとり憑かれる

※にーぶい:琉球語で「ねむい」