月天心 |
「承知しておるよ」 背後で、唐親国の老爺の静かな呟きが響く。 「儂がこの世にあってはならぬモノだということは。」 ミナの琥珀の肌の首筋に、雲飛の老いた指がかかっていた。 「だが、今ここでは死ねぬ」 目を見張ったミナの背筋に冷たい緊張が走る。 「己の犯した過ちを、正すことも果たせずおめおめと逝ったとあっては、儂は九泉の下で妻に会わす顔がない。」 己の命が雲飛の手中に握られたことを、ミナは肌身に思い知らされていた。 迂闊だった。この唐親国の老爺は、ミナの放つ矢よりも早く動き、身を反らした。 矢をかわし、踏み出した次の刹那、跳躍で彼女の背後を取ったのだ。 その動きは、正に一陣の風であった。 「一度だけ問う。このまま退いてはくれぬか。」 穏やかな口調ではあったが、拒絶は認められぬことをミナは悟っていた。 この状態ならその気にさえなれば、雲飛はミナに如何なる危害でも加えることができる。 実際にそれを為せる力。 劉雲飛の腕にその力が確かに宿っている事が、 ミナの肌に直に伝わってきた。 「……わかったわ」 「その弓を置けい」 淡々とした声のとおりに、ミナは鎮聖八浄を下ろし、手を放す。 弓は、再び地に落ちた。 「すまぬな」 静かな呟きと同時に、ミナの首筋を押さえた指先が動き、首の後ろの中央がぐいと押し込まれる。 同時に、ミナの全身が硬直した。 「な、ん」 それ以上、声を出すことさえ出来ず、 ミナはなす術もなく、その場に崩れ落ちる。 「六刻ほどで、自ずと動けるようになろう。」 地に倒れたミナは、愕然とした色をその目に浮かべたままで、 穏やかに告げる劉雲飛の声を聞いていた。 肉体の全てが、重く地に沈み込む岩石と化したようだった。 指先を動かすことすら、叶わない。 大陸の武侠にとって重要な心得のひとつに、全身の経穴、すなわち気の通じるとされる人体の壷を把握し操る、というものがある。 経穴を刺激することによって相手の動きを封じることを点穴と呼び、その場所によっては相手を死に至らしめることも可能とされている。 主に、毒や内力による損傷に対する治療として使われるが、戦いの手段としても有効である。 だが一流の武侠の間では、点穴を戦いに用いる事は暗黙のうちに禁じられていた。 「失礼仕る」 その声と共に劉雲飛はミナの前に跪き、屈み込んでうつ伏せの彼女の身体を裏返す。 そして、彼女の肩と膝の下にそれぞれ手を差し入れてきた。 ミナの全身に怖気が走った。 老爺は、ミナの身体を抱えあげる。 「さ……わら……な……い……で……」 ミナはやっとの思いで、擦れた声を搾り出す。 「私に……ちか……づか……ないでっ……」 身体さえ自由なら、当然されるがままになどならない。全身を使って老爺の手を払いのけていただろう。 口惜しさが、動きを封じられたミナの全身を焼く。 彼女を見下ろしていた雲飛が冷然と告げた。 「六刻の間に、獣や悪意ある者が通りがからぬとも限るまい。それでも構わぬなら望みどおりにするが」 ミナは声を飲み込んだ。 萎びていながら不思議に潤いを保つ老人の、しかし男である特徴がはっきりと残る手。 それが肌に直接感じ取れる。 おぞましき感覚が肌を焼き尽くす如く広がり、身体中に染みこんで行く。ミナは目をきつく閉じた。 (嫌い……嫌い……大ッ嫌いッ……!) 只管に心の中で、そう叫び続ける。 「案ずるな」 ミナの耳に大陸の老爺の、深みのある落ち着いた声が落ちかかる。 「そなたには何もせぬよ。そのような邪念に捕らわれている 何の感情も籠もらぬ視線が、ミナに落とされた。 「儂は妻以外を女と思っておらぬ。」 雲飛は踵を返し、 ミナを隠せる場所を目で探りつつ歩む。 からり、からりと音がした。 ミナが腰の後ろに結わえ付けた矢筒が傾き、そこから矢が一本、そしてまた一本と、零れ落ちていく音だった。 「ぬ〜?」 ミナの耳に、なじみのある声が届いた。 チャンプルが起き上がり、目をこすっている。 「ミナぁ」 いつものように、ミナの名を呼んで笑ったチャンプルは、目にした光景に驚いてちいさな身体を硬直させた。 「……あきさみよ〜!」 ミナが知らぬ男の腕に抱えられ、連れ去られようとしている。 「ミナー、ミナー!」 転がるように、チャンプルのちいさな身体が駆け出した。 「チャン……プル……」 「と〜、と〜!」 チャンプルの甲高い声に雲飛が立ちどまり、振り向く。 「ミナぁー! ミナをかえせー!」 必死に駈けてきたチャンプルが、老爺に追いつき小さな体でその脚にしがみつく。 「たっくるさりんど〜〜〜!!」 チャンプルの小さな握り拳が、老爺の足に連打される。 「案ずるな。この者の身を隠すだけのことだ」 雲飛はそう足元の小動物に語りかけたが、 「ガァルルッ……!!」 突如、チャンプルは唸った。 ミナは驚愕する。 ここまでチャンプルが怒ったのを、これまで共にいて目にした覚えがなかった。 (チャンプル……) 唯一の友と呼べる小さなチャンプルの怒りに、ミナは胸を熱くしたが、 次の刹那目に入ったチャンプルの表情に愕然となった。 殺気と言っていいほどの激烈な感情に、チャンプルの愛らしい表情は歪められていた。 「ガァオォ!」 チャンプルが歯を剥き出し、危険を察した雲飛は脚を素早く引く。 「これは」 チャンプルを見下ろす雲飛の目が、険しさを増した。 「……獣の姿をしたあやかしの仕業、か」 彼が、そう低く呟いたのをミナは聞く。 その身体を緩やかに取り巻き、舞っていた微風が突如強まる。 同時にミナの耳は貝殻の中に広がるような、渦巻く音に包まれた。 雲飛は、腕に彼女を抱えたまま跳躍したのである。 ミナの背で結び上げられた髪が舞い上がり、 静まった時には雲飛は、一飛びに離れた岩陰に降り立っていた。 「闇キ皇の邪気に影響されるのは、自然や人のみと限らぬな」 ミナに聞かせるともなく呟き、雲飛は彼女をそこに抱え下ろす。 「まっ……!」 雲飛の意図がよく掴めぬまま、擦れた声でミナは老爺を呼び止めようとしたが、 再び柳葉刀を手にした雲飛は、岩にもたせかけたミナを見ようともせず飛び立つ。 「ミナァ……ミナぁ!」 泣き声にも似たチャンプルの呼び声が届く。 その声は、壊滅した故郷の村(シマ)で彷徨っていたチャンプルの姿を思い起こさせた。 ただミナを呼び、心細げに泣いていた小さな姿。 幾つもの思いが、ミナの心に渦を作る。 泣いていたチャンプル。 村の壊滅を目の当たりにし、辛い思いをしただろう、チャンプル。 今しがた、見たことのない凶悪な表情で怒ったチャンプル。 雲飛の言葉。 邪気に影響された。 それならたった今、あのやんちゃで朗らかで、可愛らしいチャンプルを激変させたのは、 あの 「ちゃん……ぷるぅっ……」 ミナはたったひとつの愛しい存在に向かって、声を絞り出した。 彼女は叫び声をあげたつもりだったが、 実際に喉から出たのは擦れた呟きのみだった。 雲飛は、泣くチャンプルの前に降り立つ。 風は冷たさを増し、幟のように、だが鎧のように彼の周りで渦を巻く。 「霊獣よ。あの娘の故郷を滅ぼしたのは主か?」 そう冷厳と問いかけた雲飛の声は、岩陰のミナには届いていない。 「ミナー! ミナを返せ、返せぇ……!」 チャンプルは円らな目からぽろぽろと涙を零しながら、目の前の老爺をなじる。 「そうであるなら」 雲飛の低い声がさらに告げる。 「主はあの娘と共にあってはならぬ」 チャンプルの身体がびくっと震える。 雲飛の手が広げられ、構えを作る。 同時にチャンプルは聞き取っていた。 耳に直接届いたはずのない、擦れた声を。 いちばんだいすきな声を。 「ミナー!」 叫んだチャンプルは走り出す。 雲飛がその掌から発した、渦巻く内勁の風は地を穿った。 「ミナー、ミナー!」 チャンプルの必死の呼び声が、だんだん近づいてくる。 それを耳にしたミナは、安心させるために笑顔を作ろうとした。 彼女の表情も、今は思うようにはならなかった。 「ミナー!」 チャンプルが飛びついてきた。泣き声が間近に響き、チャンプルの涙の粒が、そのぬくもりが肌に直に感じ取れる。 この世で唯一の、安らぎを与えてくれるぬくもり。 「ちゃん、ぷる」 その小さな体を、腕で抱きたかった。 涙を拭い、手で触れて慰めてあげたかった。 それが叶わぬままにミナは、 老爺の……近づいて来る劉雲飛の足音を聞く。 このやすらぎを壊す存在。 世に禍を呼ぶ 「チャン、プル」 ミナはあらん限りの力を込めて、告げた。 「ここを、押して……!」 チャンプルが円らな目を瞬き、困った表情を見せる。 「私の、首……の……後ろ!」 大陸の書物に触れる機会が多かったとはいえ、 点穴という武侠の技をミナが熟知しているわけではなかった。 ただ、身体の自由を取り戻すためには雲飛の指が押し込んだ所を再び押すことが有効であると、彼女は直感したのだった。 それは正解だった。 ミナの目の端に映った劉雲飛が、その表情に僅かな驚きを宿したことが、それを物語っていた。 チャンプルが半分体当たりのように飛びつき、ミナの首の後ろを指で押し込んだ。 全身を覆い尽くしていた緊張が、その刹那に弾け飛ぶ。 そうと察した瞬間、ミナは素早く身を起こし、飛び退き雲飛から離れた。 「チャンプル!」 彼女は再び叫び、地に落ちている己の弓を指差す。 「あれ、とって!」 真剣なチャンプルは大きくうなづき、転がるように突進し出した。 「娘」 険しい表情で呟いた雲飛は、走り出し彼の脇を通り過ぎたチャンプルを止めるべく身を翻そうとする。 「ええいっ!」 一声叫び、ミナは蹴りを老爺の身体に見舞った。 雲飛が咄嗟に避け、飛び退く。 「娘! 手間をかけさせるでない」 声音に強く、厳しい色が入り込む。 「ミナー!」 チャンプルの声。 目をやるとチャンプルがその両手に、ミナの弓である鎮聖八浄を持ち差し上げて、こちらに駈けて来ようとするのが見えた。 「たぁっ!」 ミナは足に力を込め、跳躍した。 内力の修行を重ねた武侠のそれには及ばぬかもしれぬが、 あやかしを滅して琉球の国土を駆け巡って来た彼女の跳躍力も、ひとかたならぬものだった。 舞い降りた彼女の側に、弓を抱えたチャンプルが走り寄る。 「ありがと」 チャンプルを振り向きそう告げて、ミナは彼女に向き合った雲飛を見据え、立ち上がる。 地に受け取った鎮聖八浄を突き立て、 「えぇいッ!!」 弓の撓りに身を預け、高く舞い上がった。 「何っ?」 雲飛の目に、二度目の驚きが浮かぶ。 「とうっ!」 舞い降りたミナの腰布が翻り、雲飛の視界を刹那覆い隠す。 「ぐはっ」 体重をかけた蹴りを浴びた雲飛がよろめき、初めて苦悶の声を漏らした。 体勢を立て直した雲飛は苦しげな様子ながら、弓を手に飛び退いたミナを目に据え、微かな笑みを浮かべる。 「やるなっ」 ミナは弓を引き絞り、腰の後ろの矢筒に残っていた矢を素早く番えた。 「えぇいっ!」 彼女は 雲飛が目を見張る。 ミナが、雲飛を真っ直ぐ指差す。 彼女が 霊力の導きのままに雲飛へと落下した。 避けるべく動いた老爺の足元を、 ミナは弓をしならせ襲う。 「チャンプル、矢を!」 ミナの矢筒から零れ落ちた矢を拾い集めていたチャンプルがその叫びに駆け寄り、背伸びして矢筒に何本もの矢を投げ入れた。 立ち上がったミナは数本の矢を同時に手に取る。 「地弓心!」 その叫びと共に、ミナは霊力を篭めた矢を続けざまに放った。 霊力のために青く光って見える矢が雲飛に襲い掛かる。 柳葉刀の一閃が数本を叩き落すが、 数本は老爺の肌や着物を掠り、傷を残した。 「傷つけず済まそうとは……儂も甘かったな」 雲飛が低く呟く。 見事な髭に縁取られた唇には、苦く笑みが浮かんでいる。 「まだ……終われぬよ」 これまで感情を窺わせなかった声に、初めて想いが篭められた。 「そなたに何と言われようとも、儂は己の為すべきことを果たす。必ず成し遂げる。それだけのことよ」 その手にした柳葉刀の刃を、己の正面に立てた雲飛をとりまく風が変化した事を、ミナは感じ取る。 彼女は既に次の矢を、雲飛に向けて引き絞っていた。 「故に容赦はせぬ。恨むならば己自身にせよ」 雲飛の目に宿った鋭い光が冷たさを増し、白く光沢を帯びた髪が、首をとりまく紅い三角巾がふわりと舞い上がる。 ミナが 彼を中心に湧き上がる風はミナの耳にも入り込み、ごうごうと唸る。 風は射抜けぬと老爺は言った。 それでも、 私は風をも射抜いてみせる。 風を操る老爺へ |
琉球言葉解説 他 | |
ぬー | 何? |
あきさみよー | また「あきじゃびよー。」まさか? うそ? のような意味。 |
とー | ストップ。止まれ。そこまで。 |
たっくるさりんどー | ぶん殴るぞ |
タンメー | 老人、特に老爺のこと。一説には(老婆に比べて)「短命」が由来とも。 |
神の力を宿した事物。 goo辞書より |