桃源之紅霞 〜The sunset of Shangri-La〜 序 |
全てを無に帰せ。 闇の中で、声がする。 全てを無に帰せ。 無機質な声が、閉じた瞳の裏側の闇に、 脳裏に昏々と響く。 その声を聞くもの、二人。 その声を耳にする、女が二人。 一人は、光の中で煌く蒼い海を、今は闇に沈む黒い海を臨む、 城塞に設えられた自室で、月の光に照らし出されて。 あなたは誰なのですか・・・・・・。 闇の中で、鈴音に似た声が小さく呟く。 女の紅い瞳が月の光に煌き、 髪を飾る純白の羽根と漆黒の羽根が、微かに揺れる。 いま一人は、隠された港に打ち捨てられたように停泊する船の中で。 至る所に転がる屍を見下ろしつつ、その声を聞いている。 屍は全て男で、中には侍装束の者も混じっていた。 彼らは全て、身体に鋭利な刀傷を残していた。 剣で、しかもほぼ一太刀で斬殺されたのだ。 月明かりに照らし出される壁の血糊。 それを見やる女は感じとっていた。 下手人の残した僅かな気配を。 気配の主は、女が二十年間求め続けた仇にして、滅すべき敵。 貴様は私が殺す。 石の如く冷たい声で呟き、 腰の鞘に手をかけ、それを握り締めた女は踵を返す。 船から足を踏み出し、凛とした外気に触れる。 長い銀の髪が、夜の潮風にそよいだ。 ふっ、と。 吉野凛花は目覚めた。 夜闇に包まれた、暁村で彼女が住まう小屋の中。 窓枠に映える月の光に照らされながら。 目が冴えたのか、と、頭の片隅で考える。 夢を見ていたような気がした。 どんな夢だったのかは、 既に靄に閉ざされたように不明瞭だったが、 何かが起こると告げられたような感覚だけが残っていた。 何だろう。 でも、何かが変わるような気がする。 この離天京で? そんな予感がする。 凛花は布団を引き上げた。 ほどいた髪が、さらりと顔に落ちかかる。 あたしも、 いつまでもこのままじゃいられない。 だが今は、闇に溶け込み眠りにつく時。 少女は再び、その大きな澄んだ瞳を閉じた。 |