叢雲風華
〜序〜

この道行かば行け 偽ることなかれ

臆すれば道なし 踏み出せば道になる

RIN 道心

蒼穹を満たし、風が渡る。

風を受けて立ちながら、男は呟く。

「……確かめなけりゃ、ならねェな」

そうしなければ、前には進めない。

己のためにも彼の男のためにも、

決着をつけなければ。

「慶寅様」

低く呟くような、それでいてよく通る声。

彼のよく知った女の声だった。

「どうだった、椿」

声をかけてから振り向くと、

背後のすんなりとした黒髪の女は、静かに首を振っていた。

「動きなし、ってことか」

女が僅かに俯く。

「アイツの方はどうだい?」

「そちらも特には」

「そうか」

「ところで慶寅様。朝顔たちがあの子を持て余しておりますわ」

「ん?」

徳川慶寅は、椿の冷めた穏やかな言葉に瞬いた。

「今度の癇癪はなかなかおさまらなくて」

「……俺のせい、てことかい?」

すっ、と女の白い手が伸びた。

「おっとッ」

その指先が腕の肉を捻ろうとする寸前で、慶寅は腕を引っ込める。

「責任をとってやってくださいませ」

知らぬ顔で椿が告げた。




そして徳川慶寅は、

六人の恋人たちのうち最も年若い……幼子の撫子を連れ、江戸の町を闊歩することとなった。

正確に言うならば、

今日は撫子の言うままに行動することを約束している。

彼女の行きたいところへ行き、したいことに付き合い、食べたいものを共に食べる。

天下を股にかけた御前試合の後、駿府へ顔を出すことがめっきり減った慶寅に対し、

寂しさから癇癪を起こしていた撫子は、今日は嬉しげにはしゃいでいる。

その小柄な姿は、遊蝶華の周りをひらひらと巡る蝶のようだった。

「ん?」

しかし街中で慶寅は、見知った顔を目にして立ち止まる。

座り込んで塀にもたれかかり、俯いている子供。

膝をかかえ、小さな拳で目を擦る髪の長い女児の姿。

「ありゃあ……」

子供がまとうのは大陸の衣裳であった。

大陸より来たる武人……当人は大陸の侠者、武侠と称している……劉雲飛の娘、劉淑鈴。

以前に亜墨利加零代大統領であるアンドリューとの私的な会談の際、出会った少女である。

「よしとらさま」

淑鈴を見やっていた慶寅の袖の端が、くいくいと引っ張られる。

「あそこのむすめをくどく気なんですか?」

拗ねた感情を大きな潤んだ目いっぱいに浮かべ、撫子は彼を見上げていた。

慶寅は、着流しの袖の端をぎゅっと掴んで己を見上げている小さな少女に笑みを向ける。

「しょげてる奴を見たら、元気付けてやりたくなるだけさ」

ますます目を潤ませて慶寅を見つめる少女は、黄色の袖をぎゅっと掴んで引き寄せ、顔を埋めてきた。

「なでしこは、よしとらさまのおんなで、よしとらさまはなでしこのとのがたですよね」

再び慶寅を見上げた円らな瞳からは、涙が溢れ落ちんばかりになっていた。

「おねがいです。うわきはしないでください」

「安心しなって。あの娘にゃ怖あい親父殿がついてて、男がつかねぇよう見張ってるからな。」

慶寅は笑いながら腰を落とし、撫子の頭に手を乗せる。

「それに何より、撫子といっしょの時にそんな野暮な真似はしねぇさ。」

そう撫子に向かい片目を閉じると、涙に溢れた目に少し笑みが広がった。




「よぉ」

座り込んで俯く子供の前に立ち、慶寅は声をかける。

子供は顔をあげない。

「どうしたい? 元気がねぇな。」

うなだれている子供の隣に腰を降ろし、慶寅はやんわりと問いかけた。

ややあって、小さく声が零れ落ちる。

「淑鈴……嫌われちゃったデス。あっちに行けって、言われたデス」

「するってぇと、誰か友だちと喧嘩でもやらかしたのかい?」

子供はふるふると首を振った。

「淑鈴、お友だちになりたかっただけデス。でも嫌われちゃったデス。淑鈴、いけないことしたからなのかなぁ……」

子供の目に涙の粒が滲み出し、丸みを帯びた頬をほろほろと零れ落ちていく。

見やっていた慶寅が、ふっと笑みを浮かべる。

「仕方ねぇさ。悪いことをしなくっても、嫌われちまうことはある」

大きく厚い、逞しい手が、子供の頭にそっと乗せられた。

「辛いことがあったら、遠慮なく泣きな。全部流れるまで泣いといた方がいいぜ。」

髪を撫で下ろす手。

子供の泣き声が止まり、淑鈴はその場から飛び退いた。

慶寅を見る目は大きく見開かれ、驚愕と、心なしか怯えの色がある。

「さわらないでくださイッ!」

子供は大声で叫んだ。

「淑鈴は、おかあさんの娘ダカラっ、ただひとりのあいするひとのためにみさおを守るのデスッ!」

慶寅は目を瞬く。

「ええっと……俺、なんか気に障ることやらかしたかね?」

「ヨシトラさんは、オンナにみさかいのナイ”シキマ(色魔)”のヒトだから、絶対近づくなってお父さん言ってたデス!」

「……おいおい」

瞬いていた慶寅は、子供の言葉にどこか楽しげな苦笑いを浮かべた。

”武侠は罪なき者に手出しはせぬ。だが色魔を誅するとなれば話は別だ”

あの折の、大陸の老爺の言葉と険しく睨みつけた鋭い眼光が脳裏を過ぎる。

(素直に娘に手を出すなって言やぁ済むんじゃねえか? 爺さん)

心に呟き慶寅は淑鈴に言った。

「またえらい言われようだねェ。」

「ぶれいものっ!!」

幼い甲高い声と同時に、淑鈴の頬に衝撃が落ちる。

「いたっ」

頬を押さえた淑鈴は、目の前に一人の少女の睨みつける顔を見た。

「慶寅さまは、しょうぐんけのおよつぎなのよっ! おてうちにされたいのっ!」

「よしな、撫子」

撫子は、いまだ目の前の大陸の衣装をまとう子供をきつく睨みつけている。

「この子は外国(とつくに)から来た子だからな。この国の礼儀はまだあまり知らねぇと思って、許してやりな」

「……うえぇ〜。痛いデス〜。」

茫然と撫子を見ていた淑鈴が涙声を出した。

「泣かねぇ泣かねぇ。」

慶寅は子供に笑いかけ、いまだ膨れ面の撫子に語りかける。

「撫子も、俺に免じて勘弁してやってくれ。な?」

「よしとらさまがいわれるなら……なでしこは、別にいいです。」

笑顔で撫子に頷いた慶寅は、淑鈴に向き直る。

「こんなとこで立ち話もなんだ。一緒に茶屋でも行かねぇかい?」

「……やデス。」

淑鈴が、慶寅と撫子を交互に見つつ一歩さがった。

「安心していいって。あんたがイヤならもう指一本触れねぇよ。

相手の気持ちを考えねぇで、自分のことだけ押し付けるのは粋じゃねぇ。」

「イキ?」

淑鈴が小首を傾げ、目をぱちぱちと瞬く。

「ん? どう言やぁいいかな。例えば花があるだろ? 花にはいろんなものがある。みんな形が違う、色も香りも違うよな。」

「はいデス。」

「どれかたった一つだけ、ただそれだけが好きで、

だからそれしか大切にしねえってのは、良さそうに見えて危ねぇことなんだ。凄く、な。

俺はどんな花も、その花そのものとして大切にしたい。粋ってのはまぁ、そういうモンだと思ってもらやぁいいさ。」

「そデスか〜。淑鈴、なんだかよくわかんないデスけど、ヨシトラさんがシキマじゃないならいいデス。」

「まだいうのっ!」

撫子の鋭い声に、淑鈴が頭を袖で覆って縮こまる。

「撫子」

穏やかな呼びかけで、慶寅は少女を制した。

「お前も花だ。撫子以外の何でもねぇ、たったひとつの可憐な花さ」

慶寅の言葉に、側にいた撫子に笑みが浮かぶ。

嬉しさと、誇らしさの混じった輝く笑顔。

少女はそのまま、慶寅の身体に頭をくっつけた。

そんな撫子の頭を撫で下ろしつつ、

「で、それはあんたも一緒さ。お嬢ちゃん」

慶寅は、そう淑鈴に笑いかけてみせる。

撫子の、慶寅にしがみついた手に力が籠もった。

「いやです! よしとらさま。うわきはしないでください」

二人を見ていた淑鈴が、慶寅に向けて人差し指を突き出す。

「ウワキしてオンナをなかすおとこは、サイテーなんデスよー。」

「こりゃ手厳しいねェ。」

「ヨシトラさん、覚えとくといいデスよー。オンナはねー」

得意げな顔つきで、淑鈴は身を反らせた。

「自分だけをあいしてくれるひとのためなら、何でもするものなのデス!」

「わかった。よぉく覚えとくぜ?」

「じゃあ淑鈴は、お父さんのところへ帰るデスー。」

言葉と共に笑った淑鈴は、二人の脇を走り抜け、その姿はあっという間に見えなくなった。



「あいさつもしないなんて、あのものはどこまでもぶれいです!」

撫子が慶寅に膨れた表情を向ける。

「構わねぇさ。帰るときには笑ってたんだしな。もうそろそろ行くかい?」

「はい、よしとらさま!」

撫子の顔に、再び笑顔が咲いたそのとき。


「でぇじ」

小さな呟きを聞いたように思い、撫子は瞬きながら振り向く。

「よしとらさま」

「ん? どうしたい」

「いま、なにかきこえませんでしたか?」

立ち止まった慶寅は、撫子の言葉に耳を澄ます。

何ら不安を含まない町のざわめきだけが、その耳に届く。

「俺には聞こえなかったけどな」

そう言いつつその表情が、少し険しさを増す。

「誰かいるのかい?」

目で周囲を探りながら、慶寅は呼びかける。

その片手は撫子の肩を抱き寄せ、

もう一方の手は腰に差し込まれた七本の刀、その一本の柄にかけられていた。

人々はそんな慶寅に少々怪訝な視線を向けつつ、通り過ぎていく。

慶寅を見上げた撫子の目には、すまなさそうな光があった。

「なでしこが、かんちがいしましたか?」

「まぁ、何もねぇんならそれにこしたことぁないな。」

慶寅は刀にかけた手を放し、撫子に笑いかけた。




二人の姿が消えて後。

物陰でぽつりと呟きが響いた。

「やーみてると、でぇじわじわじーするやっさ……」

可愛らしい声音にまるで似合わぬ暗いものを孕んだその声を、

耳にした者は誰もなかった。


第一部へ


剣サムSSトップ 小説トップ サイトトップ