叢雲風華
〜まやーさりーん 壱〜

風が頬をくすぐっていく。

青い草が風になびき、髪とマタンプシ(鉢巻)の垂れ布もはためく。

風が渡る土手の上は心地よかった。

「ら るぅら しちかむ こらる…」

まだ幼い雰囲気を残した、小柄な少女が歌う。

「ららら、らーらーらー、るるるぅー、るーらー」

言葉は消え、調べのみが流れ出た。

呟きと変わらぬほど小さな調べを口にする少女の名は、リムルル。

蝦夷の大地の聖なる集落と言われるカムイコタンに住まう、巫女にして戦士たる乙女ナコルルの妹である。

彼女の呟いた調べは、姉と共に集落にあったときに、姉の歌っていたものだった。

耳にしたのはその時きりだが、何とはなくその調べはリムルルの耳に残っていた。

一度、何気なく聞いてみた事はある。

姉さまが前に歌っていたシノッチャ(歌)はなぁに?

姉は教えてはくれなかった。

ごめんねリムルル、教えるわけにはいかないの。そういう決まりなの。許してね。

教えてくれなくちゃいやだ、今よりも幼かったリムルルはそう駄々をこねて姉を困らせたものだ。

困った表情をしていたナコルルは、代わりにと彼女に物語(ウチャシクマ)をしてくれた。

その物語は、その頃二人の父が手にしていたカムイコタンに伝わる宝刀チチウシに関するものだった。




昔カムイコタンに、一人の娘がいた。

ある時、一人の若者が立ち寄った。

娘は若者と恋に落ちたが、娘の親族はその恋をよく思わなかった。

しかし、若者の器量とたくましさ、娘の純真さはやがて周りの人々の許しを得ていった。

だが、祝福を受けるべき村に悪しきキムンカムイ……凶暴な巨大熊が現れる。

その頃には村人の信頼を得ていた若者は、狩人たちと共に退治に向かうが、

森のはずれの湖の前ではち合わせた熊の力は思惑を上回り、狩人たちはみな斃され若者も深手を負った。

帰る所を、愛する娘を想い魂の底から叫びをあげた若者に応えるかのように、湖から二体の龍が現れた。



「龍?」

瞬くリムルルにナコルルは告げた。

「龍はシカンナカムイ。天(カント)にいる雷のカムイなのよ」



うち一体の龍が若者に問うた。

若者はそれに応え、事切れた。

カムイコタンでは村人たちが、湖より現れた龍の咆哮を聞いた。

彼らは森へと向かい、凶暴な熊の躯と、傍らで絶命した若者と、その手に握られた目にしたこともない宝刀を見た。

村の長は、その宝刀をチチウシと呼んだ。

そして天へ帰った若者には、カムイコタンで最初の戦士の称号が与えられた。




この物語を姉に聞いた時、リムルルは理不尽な想いで胸をいっぱいにして、姉を質問攻めにしたものだった。

どうして? どうして最初の戦士は死ななきゃいけなかったの?

シカンナカムイは最初の戦士になんて言ったの?

好きな人を待っていた恋人は……どうしたの? ちっともお話に出てこないけど、そのあとどうなったの?


「その娘さんは」

憂いをその澄んだ目に宿して、姉のナコルルは答えた。

「チチウシを持ち出して姿を消したの。それからは誰も彼女を見ていないんだって……」



ナコルルは語った。

そこから後は、また別のウチャシクマになると。

それは悲しい恋の歌(ヤイカテカラ)。

愛する人に先立たれた娘の、悲しみと絶望と、答えの還らない問いを問う叫び。

娘は若者が死した湖までやって来た。

そして、宝刀を遣わした龍に問うた。

二体の龍は再び現れ、いま一体の龍が娘に問うた。

娘は答え、そして。



季節は巡り、カムイコタンに再び危機の訪れた時、

一羽の鷹が空より飛翔し、カムイコタンに舞い降りた。

その鷹は、爪に一振りの宝刀を掴んでいた。

これが、チチウシの守護鳥のはじまりである。

由来のウチャシクマに基づき、悪の神である熊殺しの宝刀とも呼ばれるチチウシ。




「でもね、リムルル。チチウシにはもうひとつのウチャシクマがあるのよ」

「え?」

シカンナカムイは、恋人たちに何を言ったの? そう尋ねようとしていたリムルルに、ナコルルが告げたその言葉。

チチウシのもうひとつの伝説。それは天の神・カントコロカムイが、地のハシナウカムイ(狩猟の神)に送り、

ハシナウカムイが認めた勇者に贈るという簡素なものだった。

「どうしてチチウシにはふたつもウチャシクマがあるの?」

「うーん」

ナコルルは小首をかしげた。

「私もね、昔父さまに聞いたことがあるわ。どうして宝刀チチウシに、ふたつの別なウチャシクマがあるのか」

「父さまは、なんて言ってたの?」

リムルルは身を乗り出し、姉の答えを促す。

「わからない、って。」

「……それだけ?」

リムルルは不満げな顔を隠さずに姉を見た。

「本当のことは誰にもわからない。龍のウチャシクマが本当かもしれない、カントコロカムイのウチャシクマが本当かもしれない。

もしかしたら、ふたつとも違っていて、本当の事は他にあるのかもしれない。

ひとつだけ本当と言えるのは、チチウシはカムイコタンのラメトクの持つ宝刀であるということ。

異なるカムイが遣わしたと言い伝えられるほど、大切なものだということよ」




はぐらさかれたようにしか、当時のリムルルには思えなかった。

今もその思いは変わっていない。

ただ、その時は父が所有しているものであった宝刀チチウシ。

シカンナカムイが送ったもの。

カントコロカムイが送ったもの。

ただひとりの、カムイコタンの戦士が携える宝刀。

それは今、ナコルル姉さまが持っている……。

瞼の裏に姉の姿が見えた。

凛然と風雪を見据えて立つ、その手に握られたチチウシ。

(あれ?)

リムルルは瞬く。

姉の背に流れる、絹糸の流れのような黒き髪が見えなくなった。

こちらを見ている赤い瞳。

彼女が口を開いた。

「風邪をひくわよ、リムルル」




「ひゃっ!」

思わず驚きの声が飛び出す。

「ぼうっとしていないの。気をつけなさい」

素っ気ない声が言った。

「……レラさん」

風に長い首巻きをなびかせて、赤い瞳の女がリムルルを見ていた。

「びっくりしたぁ」

リムルルはにっこりと笑った。

赤い瞳の女、レラは僅かにその瞳をそらせた。

「のんきにうたた寝してる場合じゃないでしょう? まだカムイコタンは遠いわ」

「はぁい、ごめんなさい」

リムルルははにかみながら、ぺろりと舌を出す。

ふいっとレラが向こうを向いた刹那、その頬に赤みがさしたようにも見えた。

「よいしょ」

リムルルは立ち上がり、歩き始めたレラの後について歩き出す。

そうして、このひとは不思議な人だとリムルルは思う。

口のきき方が少しきつく、態度はそっけないが

彼女といるととても暖かい。

レラといると感じられるぬくもりと安心感は、姉のナコルルのそれとよく似ている。

どういう人なのかな? レラさんて。

どこかのコタンの人かもしれないけれど、どこなのかなぁ。想像できない。




リムルルは、こっそりとはじめての一人旅でレプンモシリを訪れていた。

宝刀チチウシを携えカムイコタンを旅立った姉のナコルルを探すためと、彼女自身の”しゅぎょうのたび”のためだった。

つい最近、彼女は氷の精霊”コンル”とウトクイェコロペに……つまり、友だちになった。

コンルはリムルルに、何かを凍らせリムルルの役に立つように、力を貸してくれる。

もっと仲良くなって心を通わせて、コンルの力を借りて、もっといろいろなことができるようにならなくてはいけない。

姉さまのような立派な巫女になるために。

リムルルの腰には、鞘に収められたメノコマキリのハハクルがあった。

精霊と心を通わせるというトゥス(巫女の術)を習得した記念に、彼女のためにカムイコタンで作られたものだった。



そんな彼女が出会ったのがレラと名乗る娘だった。

見た所、姉と同じ年ごろだろうか。

「ひとりでこんな所をうろつくなんて、無用心ね」

そう話しかけてきた彼女の傍らには大柄な狼がいた。

「わぁ……大きな狼! こんにちは」

動物好きのリムルルは、まずその狼に笑いかけていた。

狼も親しげに鼻を鳴らし、近づいてきたリムルルに鼻面をこすりつけてくる。

「シクルゥ」

その呼びかけにリムルルは彼女の方を見て、気付く。

「あ、ごめんなさい。お姉さんの狼なんだね。でも名前が」

「名前が、どうしたの」

「カムイコタンにいる子と同じなの。どうしてかなぁ?」

カムイコタンを出る前、コンルを友としたのと相前後して

リムルルは流氷の流れ着く海辺で狼の仔を拾い上げた。

見たこともない色合いの狼の仔を、リムルルはシクルゥと名づけてチセに連れ帰った。

姉が帰った暁には、新しい家族として紹介するつもりだった。

名前の意味は特にない。

なんとはなく、狼を見ているうちに脳裏に浮かんだ名前だった。

「この子は私が生まれたときから側にいるトゥレンカムイ」

「お姉さんの守り神なの?」

「あなたのシクルゥも、あなたのトゥレンカムイになるかもしれないわね」

「お姉さんも巫女なの?」

「コタンで祭事を行うことはないけれど」

そう呟いた娘に、立ち上がったリムルルはぺこりとお辞儀する。

「はじめまして、リムルルって言います! お姉さんのお名前は?」

「レラ」

赤い瞳を持った、どこか影を感じさせる娘は風とリムルルに名乗った。




レラはリムルルから、カムイコタンを出て過ぎた月日を聞いて

彼女を故郷まで送る事を申し出た。

「修行の旅が悪いとは言わないけど、あなたの年なら家でまず覚えるべきことがたくさんあるでしょう」

その言葉に、故郷と祖父母を思い出したリムルルは、レラの言葉に従うことに決めた。

仔狼のシクルゥも一番の成長期のはず。大分大きくなったかもしれない。




「シクルゥ」

レラは、狼に呼びかけた。

狼は軽やかにレラの元へ駆け寄り、何事かを囁きかけるかのようにレラに鼻面を寄せる。

レラがかすかに眉をしかめた。

「レラさん、どうしたの?」

無邪気に尋ねたリムルルに、レラはちらりと目を向ける。そして小さく、

「放っておきましょう。わざわざ関わりあう意味はないし」

そう呟いた。

「なぁになぁに?」

リムルルはレラの顔を覗き込む。

「……なんでもないから。行くわよリムルル」

「え〜、レラさん何か隠してるぅ!」

「余計なことに係わり合いになろうとしない方がいいわよ」

言い捨て歩こうとするレラの後ろから、小走りに近づいたリムルルは彼女の腕をつかんでしがみついた。

「ねぇ、なんなの? レラさん、教えてってばぁ」

心なしかレラの体に微かな震えが走ったようだったが、リムルルはそれに気付かない。

「困ったわね……」

レラは小さく呟いた。

「あれ?」

人の気配にリムルルは顔を上げる。

彼女らを見下ろす位置になる小高い土手の上に、一人の男がいた。

まず目に付くのは、端正な顔に覆いかぶさらんばかりに反り返る大きな髷だった。

(すっごい髪型)

瞬いたリムルルは、男の姿をさらにじっくりと見ていく。

(うわー。すごく強そうだなぁ、体がモリモリしてて。すごく長い刀を持ってる。

レプンモシリのお侍さんて、刀を何本も持ってるのかな?)

黄の着流しをまとった男の腰には、リムルルが初めて見る巨大な太刀を含めて七本もの刀が差し込まれていた。

男がふっと笑みを浮かべる。

「よぉ、久しぶりだな。そっちの子は?」

その男の問いかけにも冷めた表情を動かさずに、レラはリムルルの前に腕を延べていた。

「こんにちはぁ」

レラの腕の後ろから、リムルルはその男に頭を下げ挨拶する。

「おぅ、よろしくな。俺は徳川慶寅だ」

そう名乗った男はリムルルに向かい片目を閉じてみせる。

「レプンモシリ(本州)のお侍さんですか?」

「まぁそんなもんだな。お嬢ちゃんは蝦夷から来たのかい?」

「はい、カムイコタンから来ました。リムルルっていいます」

「ひょっとして、そっちのお嬢さんとは同郷かい?」

「馴れ馴れしく首を突っ込んでこないで」

レラが冷たく言い放った。

「こりゃ手厳しいね。別にその子を口説こうってつもりはねぇんだが」

「語るに落ちてるわね。そのつもりがなければそもそも口に出さないでしょう」

「ん?」

慶寅がレラを見てわずかに肩を竦めた。

「そりゃあ考えすぎってもんだ。男が女を見るときに、色の道しか頭にねぇって決め付けんのも野暮なもんだぜ?」

そう笑いかける慶寅に向けるレラの視線はますます、取り付く島もない冷たさを増す。

「用がないならもう行って。居座るつもりならこっちが他へ行くから」

レラはリムルルを促し背を向けるが、

「あれ? その人は……」

リムルルの声に足を止め、振り向く。

慶寅の背後に、朱の着物をまとい長髪を結い上げ、刀をその手に下げた者の姿があった。

思慮深げな円らな瞳、隠せず滲み出る憂愁の色。

「兇國日輪守我旺の従者ね」

「え」

リムルルはそう言ったレラを見る。

「元、従者だ。我旺はもういねぇ。」

先ほどより強い調子の慶寅の声。

「私には関係ないことだけれど、徳川のトノのあなたと彼がつるんで何をしでかすつもりなの?」

「俺ぁ、娘さんにきつい事ぁ言わねぇのが信条なんだがね」

慶寅はレラに目を据えた。

「あんたが今言ったろ。関係ないことだ、口を出さないでもらえねぇか。」

「そうしたいところだけど、我旺はポクナモシリ(冥界)に通じた男よ。

その影響が周囲に及び、またウエンカムイの足がかりにされる可能性も高い。

それなら放っておくわけにはいかないわね」

「いまさら弁解はいたしません」

我旺の元従者……黒河内夢路がそう口を開いた。

「私は我旺様の志を知った上で、最期までお供することを誓いました。

あの方の志そのものに間違いはなかった。ですが正しくもなかったのです。

我旺様の罪は、加担した私も共に負うべきものです」

リムルルは夢路の言葉に聞き入る。

事情はよく呑み込めないが、夢路の静かな声が辛そうに響いてきたのだった。

慰めるようにも聞こえる慶寅の声。

「我旺にとり憑いた魔物は、もうこの世にゃいねえんだろ。我旺と、あの爺さんが責任持って連れて行った」

それが僅かに低められた。

「はずだったからな」

「そうじゃない、ということね」

「これからこいつとそれを確かめに行く。報告があったんでね。魔界の入り口ってとこに」

レラが赤い瞳をひそめる。

「我旺の気配が現れた、ってな。」

「関係ない、と言っていられなくなったわね」

「レラさん……」

胸騒ぎを覚えたリムルルは、彼女の背後からそっと声をかけてみる。

「ポクナモシリの気配……それじゃ、悪いものが世界に溢れてしまうの?」

レラは振り向かなかった。

「リムルル」

静かな声が告げる。

「あなたには立ち向かう覚悟はある?」

リムルルは刹那息を止めた。

「カムイの巫女として歩む道を選ぶならば、ポクナモシリの進出を止めるべく動かなくてはならない。

それも巫女の使命のひとつよ。ひいては大自然を守ることに繋がるから」

レラが振り向き、赤く澄んだ瞳がリムルルを見た。

「そのメノコマキリを、誰かに振り下ろす覚悟はある?」

リムルルの心が冷えた。

これまで彼女が、明確に意識しなかったこと。

「その覚悟ができないなら、あなたはカムイコタンに戻ってナコルルの帰りを待った方がいい」

素っ気無い声が耳に届く。

「私は送ってあげられないけれど、シクルゥがアイヌモシリまであなたを連れて行くから」

「……レラさん!」

強い意志の込められた声にレラは口を閉じる。

「わたしは……カムイの巫女になるために、コンルと友達になってチチウシを授けてもらいました!」

リムルルは強き思いを、レラに向かって叩きつけるかのように告げる。

「だから、カムイコタンに逃げ帰るのはいやですっ!」

「そう」

レラが刹那目を伏せた。

その赤い目が再び現れ彼女は言った。

「私としては、あなたにまだ戦って欲しくない気持ちはあるの。

でもあなた自身に覚悟ができてるなら、いい機会かもしれないわね」

レラは徳川慶寅を見据えた。

「ポクナモシリの入り口とやらはどの辺りなの?」

慶寅の顔にふいと笑みが浮かぶ。

「俺と夢路の後についてくればいいさ。旅は道連れ、世は情け、ってな。」

「そのような長閑な旅とは程遠いものではないのですか」

黒河内夢路の声に険しい色が混じる。

「こちらの方々に多少の心得があろうとも、どのような危険が伴うとも知れない道行きを安易に進めるなど」

「黄泉が原じゃ、剣士として申し分のない腕を見せてもらってる。」

慶寅が夢路の懸念の言葉を遮った。

「二人とも巫の道に通じてるからな。俺たちのわからん事でも助けになってくれるかもしれんし、何より」

夢路を見て、慶寅は笑いかけつつ片方の目を再び閉じてみせる。

「本人の決めた道に、他人が横から野暮な口出しは無用だぜ?」

夢路は微かに顔をしかめ、慶寅から目をそらした。