叢雲風華
〜まやーさりーん〜

目の前に広がっている、穏やかな緑に覆い尽くされた山並み。

草原の只中に、リムルルは立っている。

何かに呼ばれたという気配を感じて、リムルルはここへやって来た。

急がなくてはならない旅の途中なのに、行かなくちゃいけないという思いはどんどん強くなっていく。

「それなら、行きなさい」

袖を引いて、その事を告げるとレラはそう言った。

「あの二人には私から言っておくから。」



吹き付ける風の中、辺りを見回す。

彼女を呼んだのは、一体何なのだろう。

かすかに、鈴を鳴らすような音が響く。

「コンル」

チリチリと、鈴の音色のようなコンルの声。

「そっか……待つしかないんだね」

そう答えて、リムルルは草原の中腰を降ろす。

コンルは傍らの中空に留まった。

(でも、ホントに何を待ったらいいんだろ)

足を投げ出し、空を見上げる。

そしてリムルルは同じ空の下、どこかにいるであろう姉ナコルルに語りかける。

(姉さま)

それは心に秘めた、彼女だけのテシカル(手紙)だった。

アイヌプリ(アイヌの風習)に文字は存在しないが、

カムイコタンの巫術の使い手たちの間にのみ、密かに伝えられてきた文字がある。

完全に習得したわけではないが、幾つかを習い覚えたリムルルは

いつかそれらを使いこなせる日を漠然と思い描きながら、姉に向かって言葉をつづっていた。

(姉さま、リムルルはレラさんとカムイコタンに向かっていたけど、

今はレラさんと、レプンモシリのお侍さんたちといっしょに、

ポクナモシリの入り口に行こうとしています。)

すぅ、とリムルルは深呼吸をする。

風は、温もりと冷たさを同時にリムルルへと運んでくる。

(こわいけど、姉さまみたいな立派な巫女になりたいから、

リムルルは頑張ろうとおもいます。心配しないでください)

風が吹きつけ、渦を巻く。

優しさと冷たさが交じり合う、不思議な風。

それは、ひとつの気配を運んできた。

リムルルははっと眼を見張る。

これまで感じたことのない気配。

それはとても大きい、深くて底の見えない幽谷に孕まれているかのような気。

誰かがいる。

リムルルは立ち上がった。

こんな気を持っている人はそういない、それはリムルルにも理解できた。

ひょっとしたら、人ではない何かかもしれない。

彼女は後ろを振り向く。

走っていって追いついて、レラさんや慶寅さんたちに知らせるべきだろうかという考えがちらりと浮かんだが、

次の刹那に前を向き直し、リムルルは風の吹く源と察した場所目掛けて走り出す。

草を掻き分け、脚が草原を蹴る。

やがてリムルルは見る。

草をなびかせる風の中心に、人の姿があった。





「魔界の入り口ってのは、一概にどこに開くたぁ言えないらしいが、開きやすい場所ってのはある。

霊気を集めやすい山だの、忘れられた大昔の斎場だのが多いらしい」

リムルルが留まった草原からそう離れていない林の中に誂えられていた、丸太を組んだのみの簡素な休息所。

座り込んでそう語る慶寅の言葉を受けているのは二人。刀を持ち黙して目を伏せている黒河内夢路と、

丸太の柱にもたれ、冷めた目で遠くを見やっているレラ。

どちらもことさら、慶寅の言葉に関心などないように見える。

しかし、二人が耳を傾けていないことなどあり得なかった。

レラがぽつりと言った。

「あなたは、この件についてどう考えているの」

「どう考える、ってのは?」

片膝を立て座していた慶寅は、悠々と問い返す。

「我旺の気配がポクナモシリの入り口にあることについて、よ」

「さぁてな。それだけじゃ正直わからねぇよ。何とも判断できねぇだろ? 

それが奴の生きてる気配なのかそうでねぇのか、ってこともな。……思い出させちまったか」

声を低めて慶寅は夢路に眼を向ける。

「お気づかいは無用です」

静かな声が慶寅に応える。

「感じられたのは我旺の気のみ。だがある坊さんの話によると、

並の人間の魂が魔界に入ったら、そこの瘴気に汚染されてそれっきりだそうだ。

つまり、誰彼の魂と区別することは不可能になるらしい」

「さっきの魔界の入り口うんぬんも、そのオンカミクルの入れ知恵?」

「まぁな。昔は魔物退治の剣客として名を馳せた、っていう飛騨の寺の住職だ」

「そのオンカミクルに同行を頼むつもりはなかったの」

レラが素気無く口にする。

「ねぇよ? 別に、祓いに行くことが目的ってワケじゃねぇ。

事の次第を確かめて、決着をつけるだけのことさ。

俺としちゃほっとくわけにゃいかねぇし、たぶんお前さんもそうだろ?」

そう言って、慶寅は僅かに夢路を見やる。

夢路は変わらず目を伏せたまま、静なる姿で座していた。

「魔界について何の知識もない部外者が、無謀なことをするものね」

「無謀かい? 仕方ねぇさ。そう思わねぇ性分に生まれついちまったもんでね」

慶寅は笑みを浮かべた。

「ところで、あの子を一人にしといていいのかい?」

レラは冷めた紅い瞳のまま答える。

「あなたにはわからないでしょうけれど、カムイの巫女にはカムイそのもの、つまり大自然に触れることが必要なの。

心配はいらないと思う……シクルゥが見ているし」

そう言ったレラと、夢路が同時に眼を上げる。

遠吠えが、三人の耳に届く。

「狼殿が。どうやら何事かが起きたようです」

夢路が言い、慶寅が立ち上がった。

その頃には、レラは休息所を走り出ていた。




リムルルの元へ向かうべく駆け出していたレラは、突然の衝撃にうめく。

彼女の首を取り巻く飾り布が、突如締められる。

襲撃、という事態が刹那に脳裏に浮かび、レラは拳を握りピンと張った飾り布を打ち払う。

ふっと首を締め付けていた感覚が緩和され、布は再び風にはためいた。

「悪戯がすぎるわよ!」

振り向き、語尾を強めてレラは言い放つ。

そこは、彼女が駆け抜けようとしていた林の中ではなかった。

あたり一面が靄に包まれた場所。靴底に感じる地の感触も違う。

この場所に、彼女を引き込んだ者の気配。

感じ取れる場所に、レラは目を据える。

「本当にわがままな子ね」



気配がやがて形を作り、膝を抱えてうずくまる子供の形を取った。

大陸の衣装と長い銀色の髪。

その丸みを帯びた手は、まだ空中に取り残されたままである。

取り残された手を頬にやると、涙を拭い取る。

子供は泣いていた。

拭い去ったあとからまた涙が零れ落ち、しゃくりあげながらレラを見ている。

「あなたの相手はしていられないわ。リムルルに何か起きたかもしれないの」

ぴしゃりと言い捨てたレラを見つめながら、

「レラお姉さん」

涙声で子供……劉雲飛の娘、淑鈴(スーリン)は言う。

「お父さんをたすけて」

レラの赤い瞳が子供を見返す。

「レラお姉さんは、巫女さまデスよね。

お父さんを助けてクダサイ。お父さんが悪いモノになっちゃう」

レラは子供を見つめる。

「どういうこと」

「お父さんが、悪いモノになっちゃう」

子供はしゃくりあげながら繰り返した。

言葉は涙の前に掻き消され、聞き取れない。

レラは察する。

「我旺の従者が言った、何かが起きたというのは……あのサンタクル(大陸人・中国人)が来たということかしら」

この子供に聞いても埒は明かないが、遥か昔ウエンカムイに憑かれ、償いのために現世に舞い戻ったあの老人が

何らかの禍となろうとしている、ということなのだろうか。

「禍、か」

あの老爺の身はポクナモシリに汚染され、その時点で現世を汚染する邪気の発生源となり得る危険性を秘めている。

だがその精神は、償いを望み魔界と現世の繋がりを断ち切るためにのみ世にあり続けることを決意した、

まったき人のもの。

しかし。

その娘の尋常ならざる様子は、その均衡が崩れ去ったかもしれないという可能性をレラに思い起こさせる。

レラは子供に歩み寄った。

「泣いているだけじゃ、何もわからないわ。立ちなさい!」

子供は、俯いたまま立ち上がった。

「この妙な場所はあなたの仕業? アチャを助けてと言うなら、早く元いた場所に戻すことね」

レラはそう子供をうながし、ふぅと微かなため息をつく。

”カムイにもっとも近づいた人”ゆえか、アイヌ(人)が及びもつかぬ事を仕出かすのが厄介だ。




風が渦を巻いている。その中心にある者の姿。

リムルルはそれまでに眼にしたことのない光景に、大きく眼を見開く。

舞い上がる、吹雪のような色の長い髪。

(浮かんでる!)

地を離れ、中空に浮かび上がっているその者は老人であった。

リムルルが見たこともない衣装を身にまとい、

首の周囲に紅い布を巻いている。

吹き上がる白い流れの中から、険しい眼光がリムルルを見た。


刹那身が縮んだが、

厳しい眼光はとても澄んでいる。

(このひとは……もしかして?)

リムルルは思い起こした。レラカムイ(風の神)、と呼ばれる存在を。

そして姉ナコルルが聞かせてくれたカムイユカラ(神謡)のひとつを。

カムイは神の乗り物カムイシンタ(ゆりかご)に乗り、また風に乗り、

カムイモシリ(神の國)からアイヌモシリへとやって来るという。

その中でも、レラカムイは旅の上手なカムイ。

世界のいかなるところでも、レラカムイの渡れぬ場所はない。


風が舞い上がっていく。

草草がなびき、ざわめく。

その中心に立つ老爺の覇気と威厳を孕んだ姿は、さながらカムイエカシ(神々の長老)のようにリムルルには思えた。

「あのぉ!」

自分を見つめている老爺に向かい、リムルルは思い切って、大きく声を張り上げる。

「おじいさんは、もしかしてレラカムイですか?」

老爺は一度瞬いた。

風が穏やかに吹き払われ、老爺は地に降り立つ。

「そなたは……。その姿、倭国の北方の巫女か」

「わこく?」

リムルルは小首を傾げたが。

「私は、アイヌの巫女の妹です! リムルルって言います!」

そう、声を張り上げた。