叢雲風華
〜まやーさりーん 参〜
 
(カムイには、失礼のないようにしなきゃ!)

風に負けないよう、”レラカムイ”に向かって大声を張り上げ次の刹那に、

リムルルは姉ナコルルの言葉を思い起こし、頭を下げた。

再び目を上げて、リムルルは瞬く。

(あれ?)

そこに”レラカムイ”の姿はない。

目に映ったのは、朱の着物をまとい、長い髪を後ろで纏め上げ、

刀に身を預け、俯いている人物だった。

まるで杖に縋りついているかのように、その者は刀に縋っているように見える。

見覚えのある姿。

(たしか、ガオウって人の従者だってレラさんが言ってた……夢路さん?)

どうして? 今目の前にいたのは、レラカムイだったはずなのに。

混乱するリムルルの耳に飛び込んできた声。

「夢路殿」

夢路の前に、膝をついた人物がいる。

細く青味がかった長髪の、やはり刀の鞘を下げた男性のようである。

「顔を上げられよ……。きっと師は……お父上は、

幽冥世(かくりよ)であなたを見守っておられます……」

穏やかな声が、そう告げた。

(かくりよ……って、何? この人は誰? 夢路さんの知ってる人?

私、いま一体何を見てるの?)

頭の中を疑問で一杯にし、思わず頭へ両手を当てたリムルルの耳に、柔らかな声が届いた。

(リムルル)

「姉さまっ!?」

その目に映る、姉の見慣れた優しい笑顔。

「姉さま、還ってきたんだね!」

はしゃいだ声を上げたリムルルはしかし、ふと気付く。

姉の綺麗な瞳に、一抹の寂しさが映りこんでいることを。

(リムルル、ごめんなさい。どうか悲しまないでね)

すまなさそうに、ナコルルはそう言った。

「姉さま?」

(一緒に笑うことはもうできないけれど、私はいつも側にいるから)

「姉さま……どうしたの、何を言ってるの?」

寂しげな、儚げなナコルルが、リムルルの目を見つめて微笑む。

(私はいつも風の中にいるから……だからリムルル、みんなとがんばって……)

リムルルは目を見開いた。

姉さまが行ってしまう。

手の届かない遠いところへ……父さまみたいに……。

「いやだあっ、ねえさまぁ!」




叫んだリムルルは、その腕に強い力を感じた。

刹那リムルルの体に宿った思い出が蘇る。

今はいない父の腕に支えられて、その肩に座した遠い日を。


リムルルの両腕を抑えたのは、彼女が”レラカムイ”と見た老爺であった。

その穏やかな目で、リムルルを見据えている。

「案ずるな」

「あ……」

低く穏やかな声はリムルルに、自分のあるところを思い起こさせた。

座り込んだのはトィトィ(土、大地)の上、

身に吹き付けるてくるのはレプンモシリの風、

ここは、命の満ちる世界であることを。

心が体から遊離していたかのような頼りない感覚が鎮まり、リムルルは大きく息をついた。

その様子をじっと見つめていた老爺が口を開く。

「そなたは、良き氣に守られておるな。」

静かな、深みを持つ低い声が告げる。

「私……いま、ここと違う景色と、レラカムイじゃない人を見てました」

黒河内夢路と、声をかけていた誰か。男の人だった、ということだけははっきりしている。

「それと、姉さまも……。」

どこかに行ってしまう、幻の姉の姿。

心に落ちた不吉な影を振り払うように、リムルルはぶんぶんと、左右に大きく首を振る。

「ひょっとして、レラカムイが見せたものですか?」

リムルルは真摯な瞳を老爺に向け、老爺は穏やかにリムルルを見返した。

「いいや」

そう答えて僅かに首を振った老爺は、じっとリムルルを見据える。

「そなたは此処とは異なる風景、異なる者たちを見ていたか」

老爺の口周りと顎は、見事なまでの白い鬚に覆われていた。

それを、老爺はすっと撫で下ろす。

「ふむ……。それもまた、巫祝の資質ゆえかのぅ?」

「ふしゅく?」

理解できない言葉に首をかしげる。

「あのー、それっていったい、どういう意味ですか?」

再び、リムルルは不安に囚われたが。

(あ。もしかして姉さまが言ってた巫女の力……”うぇいんかる”のことかな?)

そう閃いたとき、老爺の発した言葉が耳に届いた。

「お主は細やかな心の持ち主なのであろうな。

故に、異なる世界に纏わる氣を敏感に感じ取れるのであろう」

「ことなる世界?……んーと、つまり私は、

今どこかで起こってることを見たわけじゃないってことですか? レラカムイ」

「そうかもしれぬな」

首をかしげながら問い掛けるリムルルを見ていた老爺の唇に、ふっと僅かな笑みが浮かぶ。

「娘御。思い違いをしておるようだが、儂はれらかむいと言う名ではない」

「え?」

リムルルは瞬き、老爺を見返した。

「じゃあレラカムイには、他にお名前があるんですか?」

「名か」

穏やかに老爺は呟く。

「儂は既に名を捨てた者。我が名など、そなたに何の益ももたらさぬよ」

「ええー……。」

老爺の言葉の意味するところが理解できず、リムルルは眉を寄せ内心で考える。

(これって、教えてやらないよっていうイジワル? それともカムイの試練なのかなぁ?)

カムイの試練なのだとしたら?

首が大きく傾げられて、リムルルはますます考え込んだ。何も浮かんでこない。

(うーん……姉さまだったら、どうするだろ?)

目を閉じ腕を組んで、リムルルはさらに考え込む。

(姉さまだったらー。)

「リムルル、自然の声を聞くのに大切なことはね。」

姉の声が耳に蘇ってきた。

「直に、自然と触れ合うことよ」

姉の言葉をさらに、記憶から手繰り寄せる。

「リムルル、挨拶をするときはイランカラプテ……

”あなたの心に、そっと触れさせてください”って言うでしょう?」

「うん」

「心に触れるには、心の入っている体の一部に触れさせてもらうこと」

「風や光は直に肌や髪に触れてくれるし、

木々にも動物たちにも手を伸ばして触れることができるでしょう?

そこから、心と心を触れ合わせていくの」

(わかったよ、姉さま!イランカラプテすればいいんだね!)

リムルルは目を開く。

きらきらと輝いた目が、老爺を見る。

「む?」

リムルルの変化に、老爺は僅かに怪訝そうな表情を浮かべた。

「レラカムイ、イランカラプテさせてください!」

言うなり、リムルルは手甲に覆われた老爺の両手を取る。

老爺の目に満ちた穏やかさは変わらない。だが、リムルルの唐突な行動はその目を瞬かせた。

(カムイの心に触れている)

瞳を閉じ、触れた両手に意識を集中させるリムルル。

閉じた目蓋の裏の闇に、やがて光が閃いた。