叢雲風華
〜まやーさりーん

天を満たすは暗黒の邪気。

黒雲に埋め尽くされ、大地も闇の中に葬り去られている。

空を切り裂き、雷光に似た、だが遥かに禍々しい光が走り周囲を焦がす。

暗黒がうねり、形を成していく。

(シカンナカムイ!)

驚愕の中で、リムルルは直感した。

姉ナコルルの昔語りの中に現れた竜神、同じ姿形。

だがそれは、神霊と呼ぶにはあまりにも孕む邪気が烈しすぎる。

暗黒の空を、禍々しき咆哮を上げ翔けるその姿が霧散し、闇がその形を変えた。

天も地も、邪気に引き摺られ歪められていく。

そこへ新たに現れた姿を目にして。




「いやぁっ!」

かすれた悲鳴を放ち、リムルルは思わず手を離していた。

彼女が垣間見たあのモノは、

決してこの世にあってはならぬもの。

怯えを宿した少女の視線が、穏やかさと厳しさを同時に宿した老爺の視線とぶつかった。

「あ……」

地に座り込んだまま、リムルルは後ずさる。

(あれが……まさか、さっきのあれが)

声が喉の奥に詰まり、言葉が出てこない。

「何とも、驚嘆すべき力よな」

低く静かな声が、告げた。

「そなたは我が記憶を真観したか」

「しんかん……?」

どくどくと早鐘を打つ胸を押さえながら、

「じゃあ、あれは」

声を絞り出す。

「あれは……もしかして、おじいさんなの?」

「うむ」

あのおぞましき黒き姿が何を表していたのか、今リムルルははっきりと理解した。

ウェンカムイ。

あれは大自然を汚し破壊する敵であり、人々に禍を為す悪しきもの。

倒すべきもの、カムイの巫女となるものの敵。

(このおじいさんは……ウェンカムイだった?)

目の前の、神々を束ねる長老にも思えた威厳ある老爺が、全く逆のウェンカムイである可能性に思い至り、

リムルルは混乱する。

(そのメノコマキリを、誰かに振り下ろす覚悟はある?)

何故か、レラの冷厳な声が耳に届いたように思った。

ひやりとした、コンルと似た刃の感触が心に落ちる。

「おじいさんは、カムイエムシじゃなくってウエンカムイ……だったんだ?」

リムルルを見据えていた老爺が目を伏せる。

「然り。儂はかつて世に禍を為した、許されざる者よ」

リムルルは思わず、腰のハハクルの柄に手をかけていた。

今ひとたび、冷たい氷の如き刃の感触が心を這い登っていく。

ざわり、と。

そんなリムルルの背後から、

「よぉ。また会ったな、爺さん」

悠々と響く、男の声。

リムルルの体を覆う緊張がふっと弾け、彼女を呪縛していた氷の感触は飛び散った。

振り向きリムルルは、そこに歩み寄ってくる旅の同行者二人の姿を認めた。

悠々とした立ち姿を崩さぬ徳川慶寅が、老爺に向かいにっと笑った。

「今日は嬢ちゃんは一緒じゃないのかい」

老爺は無言で立ち上がり、慶寅に眼を据えている。

「彼方が、戻られているということは」

黒河内夢路が、そこで言葉を切った。その目の色が沈み込み、悲しい光が過ぎっていく。

「我旺様も、やはり……」

「また、魔界の邪気に誘われし者が増えたか」

老爺が小さく呟き、その目に険しい光が増す。

わけがわからぬままに、リムルルは彼らを交互に見やる。

「貴様たちはこれ以上関わるな」

射るように二人を見据えていた老爺の声が、僅かな険しさを増す。

「即刻立ち去れ」

その口調はあくまで穏やかだったが、声は厳然と響いた。

「何故だい?」

微かに笑みながら、慶寅は老爺に問う。

「人間(じんかん)の者が妄りに異界に踏み込んではならぬ」

老爺の声が、さらに冷たさと厳しさを増した。

「救われることなき鬼と化すことが貴様たちの望みか」

「……”キ”?」

首をかしげるリムルル。

「強いて言やぁ黄泉が原の乱からこっち、宙ぶらりんのまんまな事態をきっちり片付けることが当面の望みなんでね」

慶寅ののんびりとした調子の声に、間髪要れず老爺が言い放つ。

「我が使命は開かれようとしている魔界の門を封じ、それに関わろうとする者を排除することだ」

「へぇ。そりゃまた、穏やかじゃねぇな。」

顎に指を当て、慶寅は楽しげな目で老爺を見、笑った。

「今一度言おう。魔界に関わりを持たんとする者は儂が排除する。世に未練があるならば、貴様たちはすぐさま立ち去れ」

「アンタ、黄泉が原の時からそうだったよな」

笑んでいた慶寅が、その時老爺の眼を正面から見据えた。

「なんだってそう、全部自分一人でしょいこもうとするんだい?」

厳しく結ばれていた表情が、僅かに動いたのをリムルルは見た。

「何故、同じ言葉を」

ほんの微かな呟きが耳に届く。

「けどな、爺さん。はいそうですかと引き下がるわけにゃいかねぇんだ」

「それだけは、不本意ながらそちらの御仁と私の意志は一致します」

瞳から悲しい光を消し去り、夢路が言った。

真摯な調子の篭った声である。

「私もまた、この度の件がどのような形に終わろうと、決着をつけなくてはなりません。ご老人。道を譲ってはいただけませぬか」

「聞けぬな。貴様たちは此処で、我が武侠の剣の前に果てることを選ぶか」

「いけねぇな、爺さん。」

慶寅が片目を伏せる。

「アンタ、まだ小せぇ嬢ちゃんを一人残してくつもりかい?」

「なに」

声が更に低まり、老爺が眼を細めた。

「アンタの道はアンタが決める。そりゃあそれでいいんだが、子供が振り回されるってぇのは気の毒だな」

眼を細めたまま、老爺は慶寅を見据えている。

「嬢ちゃんのことを考えて、ここは譲る気にゃならないのかい」

「貴様にはわかるまいよ」

静かに老爺が告げた。

「あれも幼子と謂えど武侠の道を往く事を決意した者。義に生きるため、他の全てを投げ打つ覚悟は固めていよう」

「どうも押し付けがましいねぇ、そりゃ。単にアンタが娘にそうあってほしいってだけじゃないか?」

「若僧が知った口をきくでない」

老爺が右手を構えた。

人差し指と中指がぴたりとつけられ、真っ直ぐに立てられる。

「フンッ!」

突如リムルルの髪が舞い上がり、マタンプシがはためいた。

強烈な風が湧き上がり渦を巻く。その中心に老爺がいる。

「ちっ」

慶寅も夢路も、それぞれ腕と袖で顔を庇った。

猛烈に吹き付ける風が二人の足を止め、行く手を阻む。

「風を防がねば儂は倒せぬよ」

風巻の中で低く、舞い上がる白髪の中から老爺が呟く。

「仕方ねぇ」

慶寅が、不敵に笑んだ。

椿の名を持つ刀の柄に手を掛ける。

「悪いが手加減できねぇんでね、爺さん」

左足が踏み出された。

「未練を残すのも良くねぇな。嬢ちゃんのこたァ、引き受けてやってもいいぜ?」

老爺の静謐な眼に、それまでまるで伺えなかった何かの感情が閃き横切ったのを見たように、リムルルは思った。

「貴様」

雲飛の声に鋭さが漲る。

白刃が閃き、風の源に向けてもうひとつの刀風が沸き起こった。

「シュラアァッ!」

刀を抜き取り発せられた叫び声と、獣の如き光を宿した瞳。

(ええっ!)

慶寅が本気だと悟り、うずくまっていたリムルルは目を見張る。

風を引き裂き振り下ろされる刃。

それが引き裂いたのは、はためく紫紺の外套だった。

押しとどめるかのように、裂かれた外套は巨大な刀にまとわりつく。

裂かれた外套を、舞い躍らせていた風が止んだ。

老爺が後方へ飛び、操られていた風は刹那に治まったのである。

「ん」

気配を察した慶寅が、獣の光を残した目をやる。

風にはためく長き飾り布。それを首の周囲に巻きつけた少女。背後に従う巨狼。

紅く冷めた瞳があった。

「レラさん!」

「リムルル、そこをどきなさい」

冷静な声にリムルルは瞬く。

次の刹那に、紅い瞳は慶寅を見据える。

「その男に手を出さないでくれる?」

そう告げながら凛と立つ、紫黒の衣装の少女がその手に握るのは宝刀チチウシ。

白刃が突き出され、手が添えられる。

すでに臨戦態勢だった。

「そいつは私の獲物だから」

紅い瞳が牙を宿す。

足が大地を蹴り、一陣の風が舞った。




「やああァーっ!」

リムルルの耳をつんざくように、子供の甲高い悲鳴があがった。

耳をふさぐ間もなく、リムルルの目に飛び出した小柄な姿が飛び込んでくる。

その子供は、刃を手に老爺に飛び掛ったレラを追おうとしていた。

「あ、ちょっとッ!」

何故か慌てふためき、リムルルは咄嗟に飛び出すと子供を抱きかかえ押しとどめていた。

「おとうさあんっ!」

叫ぶ子供の目から、新しく涙が溢れ出る。

その声を切り裂くように打ち合わされる鋼の音。

宝刀チチウシの刃を迎え撃つは、老爺の手にある刀。

(わ、大きい)

老爺の獲物である、リムルルが目にしたこともない白刃をはっきりと見定める間も与えられず

刀風が巻き起こり、激しく打ち鳴らされる。

(……すごい!)

レラの繰り出すチチウシの刃の鋭さ。

迎え撃つ老爺の刀の、流れる風の如き動き。

ぶつかり合う鋼と、鋼の如き両者の視線。

「タァッ!」

一声、老爺が足を蹴り上げその勢いで跳躍した。

鋭い蹴りがレラを打とうとする。

レラの体が宙を舞った。退いた彼女は再びチチウシを構える。

リムルルは、目を見張った。

(レラさんの動き……これって、姉さまとおんなじ?)

すなわち、ナコルルが習得しリムルルが教わった、シカンナカムイ流刀舞術の動き。

二人の戦いに、特にレラの覚えのある動きに見入っていたリムルルの腕を突き放すようにして、子供が走り出た。

「あ!」

瞬きの間に子供は、老爺とレラの間に走りこむ。

「レラさんのばかぁっ!」

甲高い叫び声が響いた。

「お父さんを助けてって言ったのにッ! どうしてお父さんに斬りかかるデスかっ!」

怒りを宿し涙をにじませた目に睨みつけられつつも、レラの視線はまったく動じない。

「私はウエンカムイに組するものに手を差し伸べないから」

素っ気無い声に、子供が再び怒りを爆発させようとしたとき。

「未熟者が!」

低く鋭く、老爺の怒号が飛んだ。辺りの大気は刹那に凍りつく。

怒りに震えていた少女は竦みあがり、おそるおそる背後を振り返った。

冷厳な瞳から発せられる、射るが如き視線。

「戦いを目にしてまだ泣き叫ぶことしかできぬか。お前はこれまで、儂の元で何を修行していたか!」

さらに浴びせられる怒号に、少女の目にみるみる怯えが広がっていく。

「おとうさ……」

「お前はこの数日儂の元を無断で離れた。それは修行に耐え切れぬが故か。」

冷たく険しい声色で続く詰問が、容赦なく少女の声を断ち切った。

「ならばそのような軟弱者に、天仙遁甲を継ぐ資格はない。もはや弟子とも娘とも思わぬ。何処へなりと好きに去れい」

「おじいさん、待って!」

叫ぶように呼びかけたリムルルに、老爺の厳かな目が向けられる。

刹那、言葉は途切れた。

(負けないもんっ)

ぐっと目に力を込めて、リムルルは再び老爺を見すえる。



”無断で姿を消した”、老爺が少女に向けて放ったその言葉は、リムルルの心に波紋を引き起こしていた。

お父さんと少女が呼んだ事は、この二人が親子だということを示している。

リムルルもまた、この度の”しゅぎょうのたび”に出てくるとき、

故郷カムイコタンのエカシ(祖父)とフチ(祖母)に黙って出てきてしまったのだった。

その時は、別にたいしたこととも彼女は思わなかった。

しかし今の老爺の言葉は、故郷のエカシに重なって聞こえた。

その事情を知らぬはずの老爺の眼が、自分を責めているようにも感じられる。

「あの、それには理由があるんじゃないかって思うんです! きいてあげてくれませんか?」

太刀を下ろした慶寅、チチウシを手にしたレラ、事態を見守る夢路、

そして老爺の目がリムルルの上に注がれた。