叢雲風華
〜まやーさりーん

「ならば、問おう」

リムルルから少女へと視線を移した老爺の声から、怒りを帯びた調子は完全に消え去っていた。

最初に聞いた時と同じ、深さと穏やかさが戻っている。

淑鈴スーリン。お前が儂の元より遁走したのは修行に耐え切れなかった故か」

淑鈴と呼びかけられた少女は俯き、左右に激しく首を振った。

「違うデス。修行、辛かったけど違うデス。淑鈴は、お父さんみたいな立派な武侠になって

悪い奴とたたかって、世の中のためになることをしたいデス」

淑鈴は顔を上げた。

「でも、修行より淑鈴は、お父さんを助けたかったです!」

老爺の凛々しくも厳しい表情には、何の変化も見られなかった。

「お父さん、魔界に行っちゃだめです!」

一歩踏み出し、淑鈴は必死の表情で訴える。



老爺は黙し、険しき顔(かんばせ)のまま淑鈴を見据えている。

二人を見ていたリムルルは、ふと傍らに親しい気配を感じ目を向けた。

すぐ側にシクルゥがいた。

鼻先を老爺の方向へと向けている精悍な獣の傍らに、レラが立っている。

リムルルは、そうっとレラの袖に手をかけ、引きながら声をかけた。

「ねえ、レラさん」

赤い瞳がリムルルを見る。

「レラさんは、あのおじいさんたちのこと知ってるの?」

「ええ」

静かな声が答える。

「あのおじいさんは、ウエンカムイなの?」

袖を握ったまま、リムルルはさらに声を低めレラに囁きかけた。

「あんまり悪いヒトには見えないんだけど……」

「ウエンカムイそのものじゃないわ。その昔、ウエンカムイの憑代だったことがある男」

「ヨリシロ、ってなぁに?」

「昔から、人の形をしたものを作ると悪いものを引き寄せるというでしょう」

「それってニポポ(木の人形)のこと?」

アイヌプリ(アイヌの風習)では本来、ヒトガタ……人形を作ることはあまり歓迎されない。

それは魔やウエンカムイを引き寄せるとされている。

静かな声で、レラは続ける。

「あの男はかつて、自らニポポとなってウエンカムイを宿した」

「じゃあ……おじいさんは、この世界にウエンカムイを引き込んだの?」

「そういうことになるわね」

「レプンモシリの人なの? 慶寅さんたちとは着物が違うみたいだけど」

「あの男はサンタクルよ、リムルル。名前は劉雲飛」

「サンタクル……ってことは、海の向こうの大陸の人なんだね?」

リムルルは瞬き、再び老爺を見た。

カムイコタンの村人たちの話で聞いたことはある。

レプンモシリ(本州)とはまた違った文化と歴史を持つ、海の向こうの大きな国だという。

劉雲飛という老爺は姿形が大きく異なるというわけではないが、和人とはまた異なる存在なのだとリムルルは知った。

「でもレラさんはさっき……おじいさんのこと獲物って言ってたけど」

本気なの? 

リムルルの口から出るはずだった問いは

「あの男はもう人じゃない」

冷たいレラの声に断ち切られた。

「あなたも見たでしょう、リムルル。彼は周囲の風を意のままに操れる。

人であった頃に、カムイにも匹敵しかねないほどの術を身につけていた、ということ。

でもカムイモシリに入ってカムイと等しきものになることも出来ず、ポクナモシリに住まう魔物にもなりきってもいない。

だからといって、もう人に戻ることもできない。言うならば」

感情の全く篭らない声で、レラは言い放つ。

「世界の何処にも行けない存在」

残酷な響きがリムルルの心に刺さった。

「魔となりきったなら、そのときは屠るだけのことよ。なぜならウエンカムイは大自然の敵だから」

リムルルはただ、半ば呆然とレラを見つめるのみだった。



「それはできぬ」

しばしの沈黙の後、雲飛が娘にそう告げた声が届く。

「魔界の入り口を塞ぐことが我が使命。それが我が贖罪、我が為すべきことのすべてだ」

「だったら淑鈴も、お父さんと魔界に行くデスッ!」

「ならぬ」

部外者であるはずのリムルルが思わず身を竦めるほどの、短くも厳しい一声。

子供の訴えはそれのみで断ち切られる。

「それは儂が許さぬ。魔界はお前ごとき未熟者が耐え得る場所ではない」

「淑鈴は、ずっとお父さんと一緒にいるデスっ!」

「よいか、淑鈴」

冷徹ながらも穏やかな雲飛の声が続ける。

「心を鎮め、お前の母を想え。魔界でただ在り続けるだけのモノとするために、

母はお前を現世に送り出したのではない」

雲飛を見つめる子供の目が、涙に潤んだ。

「母の恩に報いるためお前の為すべきことは、現世で生き抜く力を身につける事。

そして儂の最期を見届けて後、現世を生きる事だ」

「お父さん」

涙で震える幼い声が、雲飛に呼びかけた。

「本来ならば、修行に耐え得なかった者を我が門下に留めては置けぬが」

雲飛はそこで言葉を切る。

「お前自身の心に従い決めるが良い。儂の元に戻り修行を続けるか、儂の元より去るかをな」

子供は俯いた。

やがて膝を折り、小さな体が地に伏せ下座する。

「しふ。淑鈴は、しふのもとで武侠の修行をしたいです」

リムルルはその姿を見守っている。

「よかろう」

雲飛が重々しく告げた。

「ならば、参れ」

その声に、平伏していた子供は刹那に立ち上がり、雲飛の元へと走り寄って行く。

子供をその腕に迎え入れた雲飛の周囲で、緩やかに風が吹き起こる。

彼はその厳しい視線を、事態を見守っていた慶寅と夢路へと向けた。

「貴様たちがあくまで魔界の門を目指すならば、それもよかろう。だが」

辺りの草が一斉に、強さを増した風にうねり靡く。

「次にまみえた時は容赦せぬ」

風がさらに勢いを増した。

雲飛に抱えられた子供は、舞い上がる長い髪の間からレラを睨みつける。

「お父さんを傷つけるヤツ、淑鈴、ゼッタイゼッタイ許さないです!」

怒りに満ちた叫び声が発せられた。

「よさぬか。降りかかる禍は己で払う。お前に救われるほど儂は落魄おちぶれておらぬぞ」

風の唸りの中から、雲飛の目が自分を見たようにリムルルは思った。

一陣の立ち舞い上がる風―ホプニ・レラが晴れた時、風を操る老爺とその娘の姿はそこにはなかった。



老爺たちの消えた空を見あげると、リムルルは再びレラに尋ねる。

「あのおじいさんが……雲飛さんがここに来たのって、なんのためだったんだろ?」

「迷ってばかりの惰弱なお嬢さんを探しに来たんでしょうね」

レラは歩み出し、シクルゥがその後に従う。

「彼らのことは放っておきましょう。また私たちの前に現れない限りは関係ないことだから。でも次に現れた時は」

レラは振り返り、リムルルにその紅い瞳を向ける。

「あなたの刀、ハハクルを振るう事になるかもしれない。その覚悟はしておきなさい」

リムルルの心に、小さな痛みが走ったが。

「ん? 夢路、どうかしたか」

慶寅の声で我に返る。

「なんでもありません」

振り向き、リムルルは気付いた。

素気無く答え、目を伏せる寸前た黒河内夢路の紅を帯びた瞳に、刹那宿っていた寂しげな光に。

それはリムルルの心に、後々小さな気がかりを残すこととなった。