悲風惨雨〜異説・斬紅郎無双剣〜

杏花雨〜ナコルル〜


「彷徨っている・・・・・・迷っている魂。」

つぶやく娘の、翠の黒髪が風になびく。

冷たく肌を刺し、心をも冷やす風だった。

アイヌのトゥスクル、ナコルルはその場所に立つ。

彼女の腕に止まっているのは鷹のママハハ。

ママハハが守る、ハシナウカムイ(狩猟の守護神)の宝刀・チチウシを持つ彼女は、

この場所を浄化しなくてはならないと強く感じていた。

 

異様な邪気が、その場所を覆い尽している。

これまで見たこともない組まれ方をした、巨石の柱が立ち並んでいた。

それらは周囲にぐるりと並び、一つの円環を形作っている。

柱にはそれぞれ異様な紋様が彫りこまれ、それらはさらに赤い染料で染められていた。

一体何を意味しているのか。おそらくは、何らかの呪術的な意図があるのだろう。

(禍々しい気・・・・・・誰かがウエンカムイを呼び起こそうとしている。)

倒すべきなのか。それとも、ウエンカムイを呼び起こすことの愚かさを、引き起こされる災厄を諭すべきなのか。

「そこですね。出てきなさい。」

穏やかに、娘は邪気の主に告げた。

円環の中央の広場。石畳の地面に、ぼうと浮かび上がる紋様。

八つの角を持つ星を形作っているその上に、色も鮮やかな常世の衣装をまとった姿が浮かび上がる。

 

「汝の業(カルマ)、救いがたし・・・・・・。」

 

ナコルルは目を見張った。

目の前に現れたその男は、確かに滅したはずの、暗黒神の使徒。

 

「天草四郎時貞・・・・・・。あなただったのね?」

ママハハが篭手から飛び立つ。チチウシに手をかける。

「あなたはアヌンコタン(あの世)に召されたはず。なぜ、迷い出てきたのですか。」

暗黒神の使徒であった者の、美々しく紅を引いた唇が僅かに歪んだ。

「人ども・・・・・・いや、我欲の木偶どもに生きる価値はなし! 我の邪魔立てをするものは全て滅する!」

嫌悪の情を剥き出しに叫んだ、天草の手にあるものは宝珠。

ガダマーの宝珠と彼が呼ぶそれは、美しく透き通った翠に輝き、天草の手中に浮かんでいる。

だがその美しさとは裏腹に、暗黒に染まった宝珠は凄まじい邪気を放ち、相対する者を奈落へと叩き込むのだ。

チチウシを鞘より引き抜き、ナコルルは応戦の構えを取った。

「蝦夷の巫女よ、消え去れい! 天照封凰拏(てんしょうふうおうじん)!」

宝珠が紅く妖しく輝き、天草の手元より彼女目掛けて放たれる。

 

その刹那、ナコルルはふと違和感を感じた。

(邪気が以前より弱まっている?)

しかしそれでも、天草は並外れた憎悪と殺気に満ち満ちており、放置していて良い存在ではない。

そう判断したナコルルは、チチウシを手に風の如く突進する。

「アンヌムツベ!」

刹那の隙を見せれば切り裂かれる、シカンナカムイ流刀舞術の極意。

「おおっ・・・・・!」

瞬時に間合いを詰められ、懐に入り込まれた天草の目が驚愕に見開かれる。

常世人の衣服がばらりと切り裂かれ、腕から血が吹き出る。

次の瞬間、チチウシの刃は天草の喉元にあった。

「天草四郎時貞。もうおよしなさい。あなたの恨みはさらなる邪気を呼びます。

それはあなた自身をも破滅に追い込むのですよ。」

「・・・・・・おのれ・・・・・・。」

この世ならぬ妖しい美しさを宿した顔(かんばせ)が憎悪に歪んだ。

その時。声が聞こえた。

「降魔招来・・・・・・」

はっ、とナコルルが注意を向けた時にはもう遅かった。

 

「破ぁぁぁぁぁっ!!」

漆黒の闇に浮かぶ、白き八つの角を持つ紋様。

それが彼女の足元にあった。

そう見えた次の刹那、紋様は暗黒の渦へと変わる。

黒い、禍々しい瘴気が足元より立ち上る。

思わず、ナコルルは喉の奥で悲鳴を飲み込んでいた。

それは人としての彼女の奥底から立ち上る、本能的な恐怖だった。

命あるものが恐れる、果てしなく深い闇。骨まで凍えさせる冷気、生命を侵食しやがて喰らい尽くす死が、

すぐそこに迫っている。

と認識する間もなく、瘴気の渦が彼女を捕らえ、飲み込んだ。

 

刹那。ナコルルの脳裏から、すべてが消失した。

自然を護る巫女の使命、生まれ育ったカムイコタンの景色、愛しい獣たち、育ててくれた祖父母、そして妹リムルル。

本能的な恐怖に囚われた彼女が刹那に縋った、命溢れるこの世界と繋がる唯一の絆。

「ママハハぁぁ・・・・・・!!」

宝刀を守護する、カントコロカムイ(天の神)の化身と言われる鷹の名を、彼女は叫んだ。

巫女の叫び声は、暗黒の渦に飲み込まれ、か細く途切れていった。

 

 

「駄目だねぇ・・・・・・四郎。まだ力が戻っていない。あの花のような娘さんに、あっという間に迫られるだなんて。」

くすくすと、軽く含み笑う声がする。

「・・・・・・おのれ・・・・・・。」

膝を折った天草の唇から零れる、悔しげなかすれ声。

「一度話したことだけど・・・・・・。早急に実行した方がよさそうだね、四郎。 “鬼”を喰らう件。」

天草は目を上げた。

「おそらく、この石二つを追って直に“羽ある蛇”の戦士も現れるだろうし。」

天草の目前に、常世の衣装をまとった者が立っていた。

蒼に照り輝き、金色に縁取られる衣装。

黄金の髪と瞳を持つ顔(かんばせ)が、天草に微笑みかけている。

「誰にも邪魔されぬよう、強くなっておかなきゃねぇ。」

そう語る者の顔を見上げる天草の足元の地面から、宝珠が浮き上がってきた。

さながら、水面を突き抜けるが如く。

金の色に透き通っているが、中央には紅い輝きのある宝珠。

それが中空に浮き上がり、天草の目前に立つ、もう一人の天草の掌の上で止まる。

「あの娘さんの魂はここだよ、四郎。」

言葉に呼応するかのように、宝珠の中心が刹那輝き、また澱む。

「・・・・・・何故に封じ込める? ラクシャーサ。」

「使い道がありそうなんだ。四郎にもじき教えてあげるよ。」

「では、あの蝦夷の巫女が・・・・・・。」

天草の呟きに、
ラクシャーサ・・・・・・羅刹、と呼ばれし者は楽しげに微笑んだ。

 

 

どこまでも黒く、黒く、どこまでも澱みきっている、塗りつぶされた闇の中を

緑の黒髪の娘が堕ちてゆく。

その顔は雪のように、紙のように白く、生気を完全に失って。

 

「姉さまぁぁ!!」

少女は、声を限りに叫んだ。

矢のように跳ね起きたリムルルは、息を弾ませつつ周囲を見渡す。

見慣れたチセ(家)の中。

胸の激しい動悸は納まらない。

(あれは夢じゃない・・・・・・姉さまが、姉さまが・・・・・・。)

彼女にとって、世界で最も大切な存在である、姉ナコルルが消えてしまう。

起き上がったリムルルは薄暗いチセの中で、手早く身支度を整える。

マタンプシ(刺繍付きの鉢巻き)を締め、腰袋を提げ、彼女のために鍛え上げられたメノコマキリ・ハハクルを収める。

リムルルは、慣れ親しんだチセを飛び出した。

「シクルゥ! シクルゥ!」

彼女に付き従う蒼銀色の狼が駆け寄ってくる。

「お願い、急いで! 行かなくちゃ、早く姉さまのところへ!」

只ならぬ様子に狼は、従順に少女を背に乗せる。

風の如く、夜のアイヌモシリの大地を駆け出すシクルゥ。

その背で少女は、必死に祈りを捧げていた。

お願いです。

姉さまを助けて!

お願いします、カムイウタリ!

 

 

長崎・出島に停泊している一艘の船。

本来、日ノ本の国に入ることを許されない者が乗船していた。

二人・・・・・・正確には、三人。

「オニ?」

流れる金髪が美しい、凛とした顔立ちの女性が、聞き慣れぬ言葉に微かに眉をひそめる。

「そう呼ばれる大男が、近頃この島国を跋扈しているというんだ。」

若い男が彼女に答える。

服装からして貴族のようだ。

事実、男と女性は自由主義者のフランス貴族だった。

「ふぅむ。」

「その者は凄腕の剣士で、かつて誰彼かまわず殺戮を重ねていたが、

最近は同じく剣を持ったこの国の支配者階級・サムライしか相手にしていないらしい。

そのような手合いを野放しにしておくとは、この島国の程度も知れようというものだよ、シャルロット。」

甲板の手すりにもたれ掛かった男は、大仰な動作で頭に手をやり、ため息をついてみせる。

「殺戮者、オニ、か。先のアマクサの件のような邪気がまた関係しているのか・・・・・・?」

彼女、フランス貴族のシャルロット・クリスティーヌ・デ・コルデはちらりと、甲板の隅に目をやった。

白い布を頭から被り、やはり布を全体にきつく巻きつけた大きく長い物体を肌身離さず持っている巨体の者。

シャルロットが偶然巡り会った、見知った者。

(彼はただ、“取り戻すべきものがある”としか言わないが。)

「ところでシャルロット・・・・・・。」

男は心持ち声を潜める。

「一体何なのだい、あのアルルカン(道化)は? まさか知り合いか?」

「それほど知ってもいないが、先に私がこの国に降りた際出会った異国の戦士だ、ミッシェル。」

「この世界には、あんな仮面喜劇のような姿で戦う者がいるというのかい?」

「私も彼を知るまでは思いもしなかったよ。」

白い布に覆われた下の顔。

彼の素顔をシャルロットは知らない。

真っ赤な、高い鼻と鋭い牙を持つ大きな口を持つ仮面。

彼のものの国の風習では、目的を遂げるまで外すことは許されないのだと言う。

異国の戦士、タムタム。

一度も顔を上げることなく、彼は布に包まれた愛剣のみを握り締めていた。

 

 

(たむたむハ、教エ守レナカッタ。アノ勇者トノ約束ヲ。黒イ神・・・・・・・我ガ神けつぁるくぁとるノ敵、コノ地ニ降リ立ッタ。

コレ以上ノ災イ、何トシテモ防ガネバ。)

愛剣・ヘンゲハンゲザンゲを握り締める手に力が籠もる。

その時声が聞こえた。

耳からでなく、彼の精神に直に。

(タムタム)

決して忘れるはずのない声。

目を見張り、仮面の戦士は顔を上げた。


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