銀のしずく ふるふる 第一章 〜羅刹丸〜


アイヌのトゥスクル(巫女)レラと、ケツァルクァトルの戦士であるタムタムが出逢い、

旅路を共にし始めてから、数日が過ぎた。

「コノ国、暖カイ。トテモ心地ヨイ。」

柔らかく頬を撫でる春の微風に、タムタムは目を細める。

「そうね。」レラが答える。

しかし彼女は感じ取っていた。

この微風の中に僅かずつではあるが、怯えと苦しみの気が混じり始めていることを。

(タムタムが言っていた、パクナモシリに足を踏み入れた男の話。真実なことがはっきりしたわ・・・・・・。)

レラの心には感じ取れる。

草が、木々が、風が、大地が怯えていることが。

この命溢れる世界に流れ込み始めた、異質な気のために。

 

「れら。オマエハ、何ノタメニ戦ッテイルノダ?」

突如タムタムが投げかけた質問に、レラは現実に呼び戻される。

「いきなり何?」

「たむたむノ村デハ、戦イハ男ノ役目。女ガ刀ヲ持ツコト、マズナイ。

ソノ昔、たむたむノ国ニえすぱーにゃ(スペイン)ノ侵略者ガヤッテ来タ時ハ、女モ武器ヲ取リ戦ッタト聞クガ。」

「侵略者・・・・・・。」

丁度シサム(和人)が、我が物顔にアイヌモシリを踏みつけ、私物化していったように、だろうか。

「私の故郷も似たようなものね。狩や戦いは男の仕事。女の仕事は食べられる草や実を取ることと、家の中を整えること。

ラメトクと呼ばれるのは例外なく男。カムイコタンでは、私の父様がそう。」

父を思ったか、レラの瞳がふと中空を見やった。

「この宝刀チチウシも、本来父様の持ち物だった。というより、代々のラメトク(勇者)が振るうものなの。」

レラは腰の刀袋に納められたメノコマキリに手を触れる。

「・・・・・・シカシ、勇者ガ振ルウニハ小サイ。」

「あなたのは大きすぎると思うけれど。でも間違ってないわね。これはメノコマキリだから。」

「ナンダ?」

「女の小刀。私たちの間では、男が妻にしたい女に送る、生活のためのもの。

本来戦いに使うものじゃない。でもこのチチウシは特別。

カントコロカムイ・・・・・・天の神が、ハシナウカムイ、つまり狩りの女神に送ったものだと言われているわ。」

「ソレヲ、人ノ男ガ持ッテイルノカ?」

「ラメトクのエムシ(太刀)は別にあるのよ。これは男のラメトクにとって、お守りのようなものね。

ハシナウカムイは、カントコロカムイの眷属である鷹にチチウシを持たせ、認めたラメトクに送るの。

すると彼は、大自然の加護を受けられる。」

「ソウカ。」

「ラメトクが死した時、鷹はチチウシを故郷に持ち帰る。

そして新たなるラメトクが、チチウシを引き継ぐことになっているわ。」

「スルト、れらノ父ハ・・・・・・。」タムタムは言葉を濁した。

「それを確かめるために、私は旅をしている。」

「万一ノ時ハ・・・・・・れらガ新タナ勇者トナルノカ?」

「正確には、ナコルルがね。」

タムタムは小首をかしげる。

「なこるる? 誰ダ? れらノ姉妹カ?」

「姉妹・・・・・・そんなようなものかしら。」

ぽつりと、聞き取れるか否かの小声でレラはつぶやいた。

「気がついたときには、一緒だったから。いつも一緒だった。」

 

私はいつも、ナコルルの目を通して世界を見ていた。

いつからのことだったのだろう。

私が、ナコルルを、そしてリムルルをいつも見ている私自身を意識したのは。

 

「アイヌモシリを踏みつけるシャモ!」

そう叫ぶ、彼女のすぐ後ろで、一人のポンメノコ(少女)が泣きそうな表情で佇んでいた。

肩までの髪に、大人しげな瞳のポンメノコが、涙声で彼女を呼んでいる。

周りの大人たちが何事が叫びつつ、彼女を黙らせようとしているのがわかる。

あの時?

私が“ナコルルと分かれた”のは、あの時だったのだろうか。

 

 

「れら?」

呼びかけに、レラは目を上げる。

「私が戦うのは、そうしないと失われてしまうものを守るため。」

瞳に紅い色が閃いた。

「邪魔するものは、すべて排除するわ。」

呟いた紫黒の衣服の少女を、異国の戦士である少年はじっと見詰めていた。

 

 

しばらく、二人は歩き続けた。

「この先に宿場があるはず。今日はそこで休みましょう。シクルゥ。」

主人の声を受けたカムイの狼が尾を振る。次の瞬間、解け入るようにシクルゥの姿は見えなくなった。

「姿、隠シタカ。」タムタムは、驚いた様子もなく言う。

「獣連れじゃ、宿屋には泊まれないから。」

同じ、守護の霊獣を持つ者同士。余計な説明をしなくて済むのは助かる、とレラは思った。

憑き神が実体を持ち、あらゆる者の目に映るようになる時は、術者からその力を吸収している。

普段、憑き神に力をもらっているのだから、必要とする時こちらの力を分け与えるのも自然なことだった。

 

立ち並ぶ家々と、その中央を走る通りが見えてきた。

二人はどちらからともなく、足を止める。

通りのあちこちに、二度と動くことがないと遠目にもわかる肉の塊が転がっている。

むせ返るような血の臭気が鼻をつく。

「アレハ・・・・・・。」言ったきり、タムタムは言葉を切った。

「シクルゥ。」

厳しさを増したレラの声に応じ、身を現世より隠していたカムイの狼が姿を現す。

チチウシを腰袋から抜き放ったレラはシクルゥを従え、小走りに駆け出した。

険しい表情となったタムタムが、すぐ後に続く。

 

見渡す限り、転がっているのはかつて人であった肉の残骸。

ある者は胴体を寸断され、ある者は頭蓋を断ち割られている。

眼球をくり抜かれ、黒々とした穴を血に染めている遺体があった。

胴を開かれ、腸(はらわた)を引きずり出された遺体があった。

口や舌、鼻孔や耳を引き裂かれた者もいた。

切り離された首や手足、指が点々と散らばり、

流された大量の血と、ぶちまけられた臓物から発せられる胸の悪くなる臭気が、

この宿場町の至る所にむっと立ち込めている。

 

「ラムピリカ(正しい心)の持ち主のすることじゃない。」

レラが呟いた。

「切り刻むことを心から楽しんでる。そうとしか思えないわね。」

 

レラの隣に立つ少年。海の向こうから来た、勇者である少年は、

爪が掌を食い破るほどに拳を握り締め、心を焼く激情のままに歯を食いしばってている。

「黒イ神・・・・・・心臓ヲムサボリ食ラウモノ・・・・・・!」

切り刻まれた遺体の幾つかは、肋骨を開かれていた。

血まみれの肉の中に、納まっていたであろう心の臓が見当たらない。

下手人は、殺した相手の幾人かから心臓を奪っていったのだ。

 

シクルゥが、牙と敵意を剥き出しに唸った。

 

 

信じられないほどのどす黒い気配。

息が詰まり、胸が圧迫される。

本能の底に眠る恐怖の思い。

それを呼び起こし、引き摺り出す気配だ。

この気配は、本来現世にあるものではない。

触れることはすなわち死。

接することはすなわち腐敗。

命あるものの、禁忌にして罠。

これは魔界の気配。

この世にあってはならぬものの気配だ。

 

振り向いたレラは、ありえないものの姿を見た。

青黒い肌をした、大柄な男。結び上げたざんばらの髪。擦り切れた黒灰色の着物。

男の全身から、底知れぬ黒い気配が立ち上っている。

それは人の姿を取った、ウエンカムイシネレプ(怪物)そのものだった。

真っ赤な目をぎょろりと剥き出し、レラとタムタムを目に留めた男は嗤(わら)う。

「ほう・・・・・・また小便臭ぇ奴がのこのこ現れたな・・・・・・。女と獣連れか。」

男が右手に下げているのは、全き紅の、いや、血の色をした鋼。

その刀身は、漬け込んだかのように赤黒い粘液をまとわりつかせている。

この宿場のいたるところに転がる肉塊は、それによって切り刻まれたものだということは明らかだった。

男は右手をぶん、と振った。

刀身にへばりついた人の体液が飛び散る。

見ると、男は左手に何かを鷲づかみにしていた。

「そっちのでけぇの。立派な得物を持ってるじゃねぇか。」

と、大剣ヘンゲハンゲザンゲを負うタムタムの方に顎をしゃくる。

「ここの奴らよりかぁ、殺し甲斐がありそうだなぁ?」

くくくく、と喉で嗤いを響かせながら、男は左拳を握り締める。

ぐちゅり、と身の毛のよだつ音がした。

男の握られた指の間から飛び散り、流れ落ちる鮮血。

「いいねぇ・・・・・・この手ごたえ。てめぇらの心臓はどうだ? 若造のはつやがあって、脈の打ち方もいい。

握り潰すのが楽しみだなぁ!」

血まみれの左手が振り上げられ、べちゃりと肉の残骸が地に落ちた音が響く。

タムタムが怒号を上げた。

 

「闇ヨリイデシ黒キ魔物・・・・・・! 神、オマエ赦サナイ! たむたむモ赦サナイ!!」

少年の全身から、凄まじいまでの闘気が立ち昇る。

 

「こいつぁ楽しめそうじゃねぇか? ひぃひぃ泣いて逃げ回るだけの小便野郎どもは斬り飽きてたんでなぁ。」

男は片手で刀身を構える。

「簡単に死ぬんじゃねぇぞ。手足が落ちても精々悪足掻きして、俺を楽しませろよなぁ!」

そう言って哄笑を響かせる、悪しき魔物の男を、冷めた瞳で見ていたレラが風に乗せるように呟く。

「シクルゥ。闘るわよ。」

耳を立てたカムイの狼は感じ取っていた。

穏やかな言葉の中に、主人が常にない怒りを隠していることを。


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