銀のしずく ふるふる 序章(1) |
カムイの獣・銀色の狼のシクルゥが、風の中を翔ける。 その背に、ひとりの少女が乗っていた。 自然に切りそろえられた髪がなびく。 冷めた紅い瞳の底には、時折冷たいだけでない潤いが閃いていた。 彼女の名はレラ。 宝刀チチウシを負う、アイヌの戦士。 風が頬の上を翔けて行く。 レラの首に巻かれた飾り布が、後方にはためいている。 風。それは彼女の名の意味するところ。 名前。 レラはふと思う。 ナコルルとも違って、リムルルとも違って、 この名前は父さまがつけてくれたものじゃない。 私が自分でそうつけた。私以外に、この名前を呼ぶ人もない。 もう一人娘がいたら、レラと名づけたい。 レラ(風)は、モシリ(大地)に送られる天の恵みだ。 父さまがそう、ナコルルとリムルルに言ったことがある。 私はそれを覚えていて、自分にそういう名前をつけた。 レラの思念を、風の中から感じられる叫びがさえぎった。 魂の底から突き上げる叫び。 身を切られるような悲痛さが、彼女の肌にも届く。 レラは思う。 それを感じているのは私でなく、この体の本来の持ち主・ナコルルかもしれない。 あの、甘い女の子。 できることなら誰も傷つけたくない、戦いたくないと思っている。 それじゃ、ダメなのよ。 「シクルゥ」 カムイの獣は呼びかけた彼女の意思を感じ、方向を変えた。 沼地の側に、異様に邪悪な気配が感じ取れる。 その方向に進むシクルゥ。 ほどなくレラは目前に、一人の男と一匹の獣を見た。 いや、獣というには異様に巨大であまりに荒々しく、かつ禍々しい気を持つものと男は対峙している。 男は異様に背が高く、荒く伸びた髪は黒い。手に握られているのは、彼の背丈にも負けていないほどの大剣。 彼の息は荒く、その顔は赤い仮面に覆われ、殆ど剥き出しの肌は一面傷に覆われていた。 「ちゃむちゃむ」 レラの耳に男の呼びかけが届く。 男がそう呼びかけたのは、目前の禍々しいモノのようだった。 低く唸ったそれは、容赦なく男目がけて突進する。 「許セ!」 男は大剣を引き寄せ応戦の構えを取る。 次の瞬間、 男の肩から血が噴き出した。 レラの眼には見えていた。 男が一瞬ためらったのが。 彼は目の前のモノを殺すことができなかったのだ。 腰の後ろに結びつけた、チチウシの柄に手をかける。「行くわよ、シクルゥ!」 カムイの狼は、瞬時に禍々しきモノめがけ跳躍した。 「イメル・シキテ!」 煌く雷光の牙が、男の肩に食らいつきなおも牙を立てているモノ目がけ食らいつく。 グガァア! そのモノは男から牙を離し、血まみれの口を怒りにゆがめながらシクルゥと、騎乗するレラに目をつけた。 飛びのいたシクルゥに声を飛ばす。 「行って!」 次の瞬間、突進したシクルゥの上から、レラは弾みをつけて飛びのいた。 禍々しいモノの額の中心に、レラは黒い靄を見た。 自然と共に生きるトゥスメノコ(巫女)であるナコルルと、同じ体に生きるレラ。 彼女がナコルルと共有している、自然と相容れぬ異質なものを見抜く力。 風の刃が、爪を振り下ろすよりも速く獣の懐に入り込み、額の禍のものを薙ぎ払う。 グギャアアア!! 咆哮と共に、黒いものが額から抜け出ていく。 レラは首に巻きつけた飾り布を手早く解いた。 「カムイ・リムセ!」 それは巫女の技の一つ。 まじないをかけた、いわば聖別したとも言える布で禍のものを封じ込める。 ただの布ではなく、その一振りは“神の舞”に等しい力を持つのだ。 黒い気が、神の舞の前に消え失せた。 そのことを感じ取ったレラは振り向く。 役目を終えたシクルゥが見下ろしている、仰向けに倒れ動かない男。そして先ほどまで、異形の獣であったモノ。 レラはそのものに近づいていく。 念のため、チチウシにかけた手はそのままだ。 それは、人であって人でない姿だった。 ざんばらに伸びている・・・・・・とレラには見える長い髪の間から、 倒れているその異形のものの体つきは、幼く柔らかい、まだ発育途中の少女のものだったが、 臀部からやはり獣の尻尾が見えていた。 (この子は人じゃない。でも、今は邪気を感じない。 異形の少女が完全に意識を失っていることを見て取り、レラは男に目を移す。 シクルゥが鼻を鳴らした。 (このままだと死ぬわね・・・・・・。) レラは男の傍らにひざまずく。 彼から流れ出た血は、地面を黒く染めている。 呼吸が浅く、弱くなっていく。 なす術はなかった。 倒さなければ、倒されるのは自分と理解していたにも関わらず。 男の、仮面に覆われた顔面を見据えながら、レラはぽつりと呟いた。 「あなたは自分自身に勝てなかったのよ・・・・・・。」 その時、背後でうごめく気配を感じる。瞬時にチチウシに手をかけ、振り向く。 異形の少女が起き上がっていた。 大きな瞳が見開かれ、ただ一点、倒れる男に注がれている。 「タム兄ちゃン」 少女は野生の獣そのままに、瞬時に4つ足で走り寄ってきた。 「兄ちゃン! 兄ちゃン!」 「揺さぶらないで!」 レラは鋭く声を発し、男に縋りついた少女を制止する。 「傷口が広がるわ。」 跳ね除けられて、一瞬意識が空白になったらしい少女は、 レラを認識した瞬間、大きな瞳に怒りをみなぎらせた。 「お前か! お前がタム兄ちゃンを!」 言葉を聞き、レラは察する。 異形の少女は、自分が兄である男を襲ったことを全く覚えていない。 一瞬目を伏せて、レラは静かに告げた。 「あなたのユポ(兄)は、自分に勝てなかっただけよ。」 少女は、喉から怒りと悲しみの悲鳴を爆発させた。 レラに向かって振り下ろされた手、それはかよわい幼子のものではなく、野獣の爪を持っていた。 身をかわし、レラは異形の少女に掴みかかる。 レラ・キシマ・テク。風をつかむ手と称される、シカンナカムイ流刀舞術の組技。 足を払い、少女の体を回転させて地に叩きつける。 「いい加減になさい! 私を傷つけてもあなたのユポは助からない。」 「うっ・・・・・・うっ・・・・・・。」 受身を取れず、痛みに動きを封じられた少女の口から嗚咽がほとばしる。 「ボクは“ハグワル”なのに・・・・・・。」 異形の少女は、レラには理解できない言葉を口にした。 「タム兄ちゃン、ボクが護らなくちゃいけなかったのに。」 しゃくりあげながら、獣の耳と尾を持つ異形の少女は身を起こす。 彼女の獣のものと等しい手に、レラが見たこともないものが握られていた。 黄色い色の、三日月のごとく弧を描いている、小さな弓のようなもの。 身にまとう毛皮のどこかに、隠し持っていたらしい。 「神様。ケツアルコアトルの神様。なんでも願いの叶うバナナン。 異形の少女はレラの目前でまばゆい光に包まれ、レラは、人のものでない声を聞いた。 “勇者は痛みを負った。救いたいと願うなら、お前もまた痛みを負わねばならぬ。” 光の世界の中で、少女は声に対しこくりとうなずく。 “勇者の傷は深い。深き冥界・ミナトルを支配する死の神、ユム・シミルが彼に目をつけた。 お前はハグワルとして、勇者を護らねばならぬ。そのためお前は、人としての姿を捨てねばならぬ。“ 「うン。わかった。でもケツアルコアトルの神様。ボクの体・・・・・・タム兄ちゃンのホントの妹はどうなるの?」 “勇者の妹は、我が力にて故郷に送り返す。” 異形の少女が微かに笑みを浮かべた次の瞬間、彼女の姿は陽炎のように揺らめき、 光は、地に倒れた男の傷口に吸い込まれるように溶け入る。 レラが、少女のいたところに再び目を移すと、 娘はゆらりと後方に倒れる。受け止めるように差し込んだ強い光に娘の姿が包まれ、 たった今、目の前で繰り広げられた不可思議な出来事について、少なくともひとつのことをレラは理解した。 彼らは、レラの知らぬカムイに奉ろう者たちだ。 クォウ、とシクルゥが鳴き、レラの手に鼻を摺り寄せた。 シクルゥの頭を撫でつつ、異形の少女とその神に生命を救われた男に目を落とす。 その時。カタカタ、カタカタと、からくりのような音が微かに聞こえた。 男の顔を覆う赤い仮面。 高い鼻と、いくつもの鋭い牙を有する大きな口。 閉じられていたそれが、カッと開いた。 同時に、横たわった男の体がビクビクと激しく跳ねる。 カタカタ、カタカタという物質の立てる音が、笑い声のようにレラの耳に響き出す。 いや。今や明らかに。 仮面が笑っている。 男の体が、折れ曲がらんばかりに跳ね上がり、幾度も痙攣する。 喰っている。 レラは直感的に悟った。 この仮面は、男の体に戻った精気を喰らっている。 彼には抗い抜く気力が残されていない。 仮面に食い殺される。 思った瞬間、レラは腰の刀袋からチチウシを抜き取った。 仮面の額に向かい、チチウシの刃を振り下ろす。 ガツ!と鈍い音が響き、仮面の奥からくわっと見開かれた目玉が浮き上がる。 仮面が牙を剥いた野獣と化し、レラに襲い掛かろうとしたその瞬間、 シクルゥが走り寄り、仮面に突進した。 弾き飛ばされた仮面が、地面に落ち、カタカタと回転して消えた。 どこへともなく、消え失せてしまったのだ。 ふう、と軽く息をつき、レラは呼吸を整える。 「ありがとう、シクルゥ。」 チチウシを仕舞ったレラは再び、男を見下ろし目を見張った。 大剣を振るい、異形の少女に兄と呼ばれ、少女が神と呼んだ存在に勇者と言われた男はそこにいなかった。 人離れして大柄だった体が、今はレラより頭ひとつほど高いくらいの背丈になってしまっている。 異様に腰の細かった逆三角形の体型も、ごく普通の男のものと化していた。 黒髪に覆われた彼の顔。 「・・・・・・ピリカオッカイ(美男子)と言えなくもないけど。」レラはひとりごちる。 「でもあなた、ちょっと愉快すぎるわね。」 シクルゥが鼻を鳴らした。 ひんやりと、冷気が剥き出しの肌に心地よく触れる。 ぼんやりと思い出す。ここは密林の中にある故郷の村でなく、異国の地。 神の戦士として、使命を果たさなくてはならない。 その思いが、脳裏に微かに甦り、次第に強まっていく。 彼の目蓋が開いた。 誰か、人の姿が見える。 ほっそりと丸みを帯びた形。女か。 女の背後に、明るく柔らかな光。 目が慣れてきた。 夜の澄んだ空気の中、満月を背後に年若い少女が立っていた。 髪は黒い。しかし村の女たちと違って短い。 見慣れぬ紋様のついた帽子と、やはり紋様のついた衣装を身にまとっている。 一人、少女は立っている。 いや、傍らには獣がいる。ウティウ(コヨーテ)だろうか? どこか寂しげな瞳。だが獣を従えた少女は、か弱さなど微塵も感じさせない。 凛とした姿。澄み切った瞳。 「・・・・・・いしゅ・ういね?・・・・・・」彼は呟く。 三日月に腰掛け、うさぎを抱きかかえた姿で描かれるマヤの若き月の女神。その姿を、彼は少女に見た。 |