ゲーム必勝ガイド 1995年8号 株猪髀走[発行より

207年目の「真」サムライ魂

超硬派理論集団 鬼谷会  TEXT by ZED

近況報告:最近は攻略本(屋号名スーパーゲームズワークショップ)以外にも創作系に挑戦、
悪戦苦闘中である。現在は新たな攻略本の制作と「街頭覇王」
の翻訳に取り組む。
オペレーター稼業は残念ながら現在休職中。


1788年に由比正雪が何故登場する?
この時代の日本に無い林檎を右京はどうして持っている?
サムライファン必読、カミソリ大歓迎の文章をここに発表する。これが最後だ!

まずは世界一周といきましょうか。

「今は昔の物語…」と言えば、御存知「真サムライスピリッツ」(以下真侍)のデモ画面や

宣伝ビデオに出てくるナレーションです。

前作の「サムライスピリッツ」(以下旧侍)に引き続き登場したこのゲーム、

必殺技コマンドやボタン同時押しの入力受付が悪いといった欠点が

あまり改善されていないうらみは残るものの、なかなかの人気と言って良いでしょう。

ところがその「人気」というのものがどうもゲームセンターの中だけのものではないらしいのです。

雑誌など見てみるとこのゲームを漫画化したものがいくつかありますし、

竜虎や餓狼の時と同様に単発のテレビアニメにもなりました。

三鷹市のナコルルポスターは本誌5号の必勝スポーツにもあった通りですし、同人誌でこのゲームを

題材にしたものが異常なくらいに多いのは言うまでもない事でしょう。

どうもこれらの人気の原因はこのゲームの”キャラクター”が受けているかららしいのです。

なるほど。確かにこのゲームでは旧・真合わせて19種

(プレイヤーが操作出切る出来ないに関わらず戦う”キャラ”全て)のキャラがおり、

それぞれに色々なストーリーがついています。

実際のゲームにおいてもそういった文芸的設定通りのストーリーが流れました。

タムタムが村の財宝を取り戻すために戦ったり、

1788年という設定だけにシャルロットのエンディングでフランス革命らしい描写があったりと……。

その19種の”キャラクター”が魅力的であり、そのおかげであれだけの人気を得た…。

しかしちょっと待ってください。

このゲームの”キャラクター”は、業界一般で言われている程すごいものなのでしょうか?

つまり小説だの漫画だのといった他ジャンルの創作物における「キャラ描写」と比べても

遜色ないだけの出来であるか、という事です。

とりわけこのゲームでは次代が設定され、実在の人物までも登場させているわけですから、

実際の史実と比較して検証するのが分かり易いでしょう。

果たしてこのゲームの”キャラクター”はどの程度の出来なのか。


このゲームのストーリーでは、旧侍が1788年、真侍では1789年となっています。

この時代は果たしてどのような時代だったのでしょう。

日本では、後に大御所と呼ばれる徳川家斉の治世が始まったばかりでした。

映画「おろしや国酔夢譚」の大黒屋光太夫が当時の蝦夷地(ナコルルの土地)を経て

日本に戻ってきたのはこの4年後になります。

その大黒屋光太夫が漂流仲間と共に10年過ごしたロシアはエカテリーナ女帝の時代にありました。

ゲームではロシアの”キャラクター”は登場しませんでしたけど、

当時の史実を以ってこのゲームのストーリーを検証するのにロシアからの歴史的視点から見ると

楽しくかつ分かりやすいと言えるでしょう。と言うのも、このゲームには「刀を使う米人」としてガルフォードが登場し、

やはりアメリカの”キャラ”としてアースクエイクという”キャラ”も登場するからです。

旧侍の年に合衆国憲法が発効、翌年の真侍の年にはジョージ=ワシントンが大統領に就任しました。

ところがこの少し前、独立戦争で苦戦するワシントンを支援した国の一つが

他ならぬエカテリーナ女帝のロシアだったのです。

この協力を得て東部13州が独立しました。あくまで東部13州です。

つまりガルフォードのサンフランシスコとアースクエイクのテキサスはまだスペイン領でした。

つまり…ガルフォードとアースクエイクは実はスペイン人だった? とも考えられる訳です。

とりあえず「ガル&アーススペイン人説」という物があるという事を覚えておいて下さい。

それと忘れてはならないのはシャルロットの出身国フランスも、

この戦争で”ネイティブアメリカンの虐殺者”ワシントンを支援した国の一つだという事実でしょう。

アメリカ独立戦争当時のフランスはルイ16世とマリー=アントワネットの時代であり、

これらの協力を得て1776年に東部13州が独立したのです。

後にフランス革命でこのブルボン王朝は倒されますけど、当時において貧困にあえぐ民衆からすれば

ブルボン王朝はまさに「世を乱す君主」(旧侍のチラシに載っていたキャプションのひとつ)に他なりませんでした。

しかし、アメリカ独立戦争時の”盟友”ロシアの「世を乱す君主」であったロマノフ家の復活を願う亡命貴族達が

旧ソ連末の混乱期からぞろぞろと現れているように、

フランスでもブルボン王朝復活を望む人達はいるようで、

1993年のルイ16世処刑200周年の記念日にブルボン王朝の復活を望む人達が集まったそうです。

その会場にはクリントン大統領が派遣したフランス大使ウォルター=カーリーがおり、

何事かと驚く記者を前に彼はこう語りました。

「知らないのですか。アメリカは、ルイ16世のお陰で独立戦争に勝つことができたのですよ」

シャルロットのエンディングでは「これはフランス革命である」とは明言していません。

しかし、この時代を考えれば、あのエンディングはフランス革命以外には考えられませんし、

何よりもチラシに載っていたシャルロットのキャプションが「革命の麗人」なのですから、

あれはフランス革命であると考える事にします。

”キャラ”のデザインも明らかに”ベルばらもどき”としか言いようがないものですし。

ちなみにこのシャルロットという”ベルばらもどき”のモデルは、フランス革命直後にその名を馳せた

「暗殺の天使」ことシャルロット=コルディではないかという説もあります。

ただ、実在のシャルロットとゲームのシャルロットでは活躍した年代とその内容が全くと言ってよい程異なるので、

ゲームのシャルロットは”ベルばら”と「暗殺の天使」の折衷ものと考えた方が良いかもしれません。

月形半平太のごとき合成キャラです。

実を言うと当時のフランスではシャルロットという名は珍しくも何ともない名前でもありました。

資料を調べると同じ名前の異人がいくらでも出てくるのですから。つまり、この「シャルロット」という名前は

「太郎さん・花子さん」あるいは英語の教科書における「Mr.JOHN,Mis.MARY」のごとき、

どこにでもある平凡な名前に過ぎないようです。名前で元ネタを特定するのは軽率かもしれません。

ゲームのシャルロットに話を戻せば、ゲーム中のセリフとして「当家の名誉は…」などといった貴族風の言葉が

出てきます。つまり、このシャルロットは貴族であるという文芸的設定として受け取って良いのでしょうか? 

確かにフランス革命で革命側についた貴族もいる事はいましたから…。

シャルロットは革命側についた貴族と解釈する事にしましょう。

ロシアに話を戻せば、当時のエカテリーナ女帝には覇を競うライバルが二人いました。

オーストラリア・ハプスブルグ王朝のマリア=テレジア女帝、

そしてもう一人が他ならぬプロシア帝国(プロイセン)のフリードリッヒ大王です。

そう、真侍の新顔であり、本来ならば必勝ガイド最後の扉絵になるはずでありながら

土壇場でその座をナコルルを奪われた(関係者の間では)”悲劇のキャラ”ナインハルト=ズィーガーの

出身地とされている国に他なりません。ただし、ゲームの設定年代にはすでにフリードリッヒ大王は死んでいるので、

ナインハルトの文芸的設定に書かれている「皇帝陛下」やゲーム画面背景にいるそれらしき人物は

フリードリッヒ大王ではなく、その後を受けた”暗君”フリードリッヒ2世という事になります。

当時、この三大国はバルト諸国やポーランドの領地をめぐって殺し合いをしており、

その大国相手に戦った英雄にコシェーシコという人物がいました。

この人物はバルト諸国の一つリトアニアの出身にして、ポーランド独立に生涯をかけた人物です。

日本の読者はほとんど御存知ないでしょうけれど、

この人物はポーランドにおいてはモニュメントが作られる程の国民的英雄であり、

アメリカ独立戦争のおりにはワシントンを勝利に導いた猛将として知られ、

後にはナポレオンもスカウトしようとした世界的勇将でした。

つまり…。時代が時代だけにナインハルトやガルフォード・アースクエイクらがこの実在の英雄と刃を交える、

という事も想像できる…。

とりわけナインハルトとは戦火を交えるだけの十分すぎる理由がある訳ですから、

こういった人物にもっと目を付けてストーリー作りをすべきであったでしょう。

ガルフォード・アースクエイクが「米人」であろうとスペイン人であろうと同様の状況設定は可能なわけですから。

この辺りはもう少し考えて設定作りをすべきであったというべきでしょうか。

一方ロシアは、ヨーロッパと反対側のアジアにおいて日本以外に中国と国境を接しています。

中・露が歴史上において度々紛争を繰り返してきたのは御存知の通りですけど、

その中国の”キャラ”である王虎はどうでしょうか。ストーリーは「中国を統一するための参謀を求める…」?

参謀なら良い人材がいるではありませんか。ポーランドの方に…。

後にナポレオンが欲しがった程の猛将が。ゲームには出てきませんけれど…。

いや、それ以前にこの頃の中国は清王朝によって統一されて百五十年以上が過ぎた太平の時代ですよ。

しかもこの時代は清王朝のみならず、中国史上においても屈指の黄金時代の一つとされる

乾隆帝の時代ではありませんか。その時代に「中国を統一…」どうやって?

まあ、満州族の政権である清王朝を打倒しようとする勢力が漢族の中にありました。

しかしそれがもっと大きな力を持つにはさらに後の時代、阿片戦争や太平天国の時代まで待たねばなりません。

この時代は、異民族の征服王朝と言った所で太平の世でありましたから

そのような勢力は大きくなりようがなかったのです。

実際にはこの手の秘密結社などが清王朝に対して蜂起したという記録はありますけれどこの時代にあったのは

台湾でしたし、それらは当時にあっては所詮「一部のはねあがり者」に過ぎません。

中国の歴史と言うと三国志などの天下取り物語しか思い浮かばない日本人相手には

十分なストーリーかもしれませんが。

あるいは王虎は本当にただの「はねあがり者」に過ぎないのかもしれません。

だとすれば参謀が集まらないのも納得いきますけれど。

かえって王虎の方こそ乾隆時代という太平の「世を乱す君主」なのでは…?



キャラの矛盾点?を指摘してみると…

さて、大体世界を一周してきたところで日本に戻ることにします。

覇王丸や幻十郎などの明らかに史実と関わりないキャラはおいておく事にしましょう。

この時代に右京が、日本にない筈の林檎を持っているのは少々疑問ですが・・・。

気になるのは十兵衛と半蔵です。

この両者は共に戦国時代から江戸初期の人物なのですけれど、

それがなぜこの時代にいるのか全く説明がついていません。

旧侍では最終ボスが天草四郎になっていた事を考えると、

これはおそらく「魔界転生」を意識したものである事は明白です。そこで邪推するならば、

この両者は史実の十兵衛・半蔵の子孫であるという事なのでしょう。

十兵衛の場合は名前ばかりか片目である点まで同じ子孫がこの時代に生まれた、と。

かつての「百万円クイズハンター」の司会者をご覧になれば分かる通り、

柳生一族は現在まで続く家系ですからそういう解釈も成り立ちます。しかし半蔵は無理があるでしょう。

こちら忍者の服部家は史実において、大阪の役の直後に取り潰されているのですから。

あるいはこれもまた子孫としてこじつける事も出来ない事はないのですが…。

実は忍者の服部家は取り潰された後も細々と生き残っていたと。

ただ、ゲームにはそれを示す文芸的設定が付いていないのであくまでこじつけるしかないのですが。



さて、これまで延々と各”キャラ”のストーリーを見てきました。

貴重な誌面をストーリーのあら捜しに費やしてきたのは、通常のいわゆる「謎本」のように

軽快な笑い声を立てるためではなく、

残った4”キャラ”のストーリーに秘められた”地獄”の底へ一歩ずつ降りていくために他なりません。

”地獄”のような歴史的背景が浮かび上がって来る4つの”キャラ”とはタムタム・チャムチャム・

ナコルル、そして天草四郎時貞…。



まずはタムタムとチャムチャムの二つは出身地が「グリーンヘル」となっていましたが、

実際の南米大陸図を見てもそのような地名は見つかりません。

ゲーム上の地図から考えるに、これはおそらく現在のベネズエラの辺りではないかと推測されます。

いずれにせよこの二つはインディオであるという事になりましょう。

しかしながらタムタムはともかく、チャムチャムの方はどう見てもインディオには見えません。

あれではただの原始人ではありませんか。「コテ」の要素を加えた原始人…?

いかにゲームにおける商業上の戦略があるとは言え、あれはあんまりなデザインですよ。

ファンのニーズを考えると、そうも言ってられない商業上の理由もあるやもしれませんが。

それはそうと、ゲーム上の設定年代における南米とその先住民達の状況はどのようであったのでしょう。

コロンブスの新大陸到達以来、ヨーロッパ人の侵略を受けて来た事実については言うまでもない事です。

南米ではスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリスなどによってほとんどが植民地とされて

先住民達は奴隷同然の暮らしを強いられていました。

これらの国々では現在においてもスペイン語などが公用語とされていますけれど、

これらは全てかつての支配国であった国々の原語がそのまま残ったものです。

例えば、今や世界中からサッカーを志す人間たちが集まって来るブラジルはポルトガル語が公用語なのは

御存知の通りでしょう。タムタムの出身地と推測されるベネズエラはスペイン語が公用語、

つまりこの時代のタムタムの生まれ故郷はスペイン人の圧政下にあったのです。

このゲームにはスペイン人は登場しない…いえ、先ほど仮説を述べましたね。

「ガル&アース・スペイン人説」を。

ゲームではタムタムの村の財宝を盗んだのは天草四郎という事になっていますが、

これはあんまりと言えばあんまりな設定です。多少なりともまともに歴史を知っている人間であれば、

天草四郎がそのような事をする人物などとは想像も出来ない事でしょう。天草に関する考察は後述するとして、

史実に基づいて考えればタムタムの村にある財宝を奪うのはヨーロッパ人にした方がはるかに

説得力があるのではないでしょうか。ガルフォードやアースクエイクはその設定としてぴったりの役どころですよ。

いかにガルフォードが正義の味方を気取った所で「白人の正義」が

インディオなどの先住民にとってどのようなものかは言うまでもないと思います。

アースクエイクの場合はもちろん見事な適役と言えるでしょう。大体、旧侍のガルフォードのエンディングなど、

その「タムタムの村の財宝」を壊してしまうではありませんか。「こんなものがあるから人は狂ってしまうんだ」…?

きれい言をいうのは勝手ですが、それを壊されたらベネズエラのインディオ達は生きる道を絶たれますよ。

全く大した”世界観”ではありませんか。

インディオ達がのたれ死にする事こそガルフォードの「(白人の)正義」らしいですね。

さらに付け加えるならば、ベネズエラの隣にあるガイアナ(旧オランダ領ギニアと旧フランス領ギニア)は

シャルロットのフランスが植民地の権利を握っていたことも指摘しておきましょう。

フランスでは革命によって自由な社会が誕生したと言われてますけれど、その支配下にあった植民地は

決して自由にはならなかったのです。フランスの持っていた植民地の利権は革命家達に引き継がれ、

なおも多くの人々が苦しめられたという事実は歴史家の多くが見落としている事実と言って良いでしょう。

それを動かしていたのは革命の前にも後においても貴族達が中心でありました。

彼らの贅沢な暮らしを支えていたのが植民地利権だったのです。

彼ら貴族が本国のフランスでいかにブルボン王朝という「世を乱す君主」を倒して

「自由目指して立ち上がった獅子」を気取った所で、

植民地の世界では自分自身が「世の乱す君主」なのでは説得力がありません。

これらのヨーロッパ人がタムタムの村の財宝を盗んだ事にした方がはるかに説得力があったのではないですか?

「南米一の戦士」が植民地における「世を乱す君主」を打ち破って財宝を取り戻す…。

それが立場的に近いアイヌや島原のキリシタンと殺し合いをしたのでは、

これら”キャラ”の目的から考えても何もならないではありませんか。

さて、当時の日本においても南米と同様に土地を奪われ、奴隷同然の暮らしを強いられていた人々がいました。

そう、「北の誇り高き人々」アイヌです。

その「アイヌの戦士」として描かれているナコルルの異様な人気について詳しく述べるまでもないでしょう。

言うまでもなく同人誌(18禁も含む)としての人気も。


この”キャラ”は作り出されるにあたって「雪に包まれた自然のようなイメージ」「媚びない」といった点に

注意したとされています(必勝ガイドの1号にちゃんとそう書いてある!)が、

そのような「良心」に応える者がゲーム業界にどれだけいるでしょう?

チャムチャムほどではないにせよ、あまりアイヌには見えないデザインが全てを物語っていると言えます。

この”キャラ”のストーリーは「自然界の異変の原因を探る」という事になっていました。

確かに当時のアイヌモシリ(北海道)において自然が破壊されていたのは事実です。

歴史書など調べてみるとそういった記述にぶつかります。

しかし、その原因は侵略者である和人達が強行した水産物の乱獲や砂金の採取が原因であり、

その元締は松前藩や幕府でありました。

それがゲームでは「復活した天草四郎」に全ての罪が被せられ、

あげくの果てにはエンディングで「あなたは自然を傷つけすぎた」などと言うのです。

天草四郎がどのような人物であったのか、

和人達がアイヌに対してどれだけひどい事をやってきたのかを全く無視した描写です。

さらに致命的なのはこの当時起こったアイヌの蜂起がゲームでは全く描かれていない事でしょう。

真侍の年にアイヌ最後の民族蜂起と言われる「クナシリ・メナシの乱」が起こっています。

これは国後島とその対岸のメナシ地方のアイヌが蜂起したもので、

かつてのコシャマインやシャクシャイン蜂起程の規模ではなかったものの、

アイヌ最後の民族蜂起として、又追い詰められて逆境にある人々が取った生きる為の最後の手段でもありました。

そういう意味では同時代のフランス革命と同じ性質のものです。

ところがゲームではフランス革命(らしきもの)は描かれているのに、

クナシリ・メナシの乱については一言も言及されていません。

フランスの民衆がブルボン王朝という「世を乱す君主」に対して戦いを挑んだ姿が容認されるべきものであるならば、

クナシリ・メナシの乱もまた和人という「世を乱す君主」に対して戦った姿として容認されるべき姿です。

これは一体どうした事でしょう。

真侍のエンディングを見た方ならお分かりとは思いますが、化け物に取りつかれた森を救うために彼女が取った

行動は、ちょうど1789年の「クナシリ・メナシの乱」にあい通じる部分があります。

この戦いでアイヌ民族は膨大な量の犠牲者を出したと伝えられますが、

この要素をストーリーに絡ませたならば、設定年代の1788年〜1789年という要素も深いものになった事でしょう。



最後の”キャラ”になります。

旧侍のボスである天草四郎時貞とはいかなる人物であったのでしょうか。

天草四郎が活躍した島原の乱が起こったのは1637年であり、

ゲームの設定では約150年ぶりに甦ってきたという事になるわけです。

地獄から甦ってきたという説明がある分、十兵衛や半蔵に比べれば恵まれた設定がついてますけれど、

ストーリーの扱いを見るとこれはかなりひどい役所を与えられていると言わざるを得ません。

そもそも天草の活躍した「島原の凶事」の真相は何だったのでしょう。

サムライスピリッツに限らず、日本の漫画や小説において

天草はひどい扱いを受けている事が多いのですが…。

島原の乱が起こった当時、この土地を支配していたのは松倉重政という殿様でしたけれど、

これは暴君を絵に描いたような人物で、キリシタンに対する残忍きわまりない弾圧はもちろん、

当時凶作にあえぐ民衆から情け容赦なく年貢を取り立てたのです。

その実態たるや、改宗しないキリシタンを雲仙岳の火口に投げ込んだり、

農民から来年蒔く種籾まで収奪したというすさまじいものでした。

これはもう恐ろしい「世を乱す君主」としか言いようがないでしょう。

このような圧政・苛政・暴政の下にあったからこそ島原の民衆は原城に立て篭もったのです。

そしてその指導者である天草四郎時貞の登場は歴史の必然であり、虐げられた民衆の側に立って戦った彼は

真侍のストーリー以前、つまり生前からすでに「人として目覚め」た行動をしていました。

ちなみに島原の乱を単なるキリシタンの暴動とは考えないで下さい。

すでに述べた通り、「世を乱す君主」松倉重政のために島原の民衆全てが苦しめられており、

この反乱には仏教徒の参加者も多くいたという記録が残っています。

このように貧しい民衆の為に戦った天の四郎こと天草四郎時貞が

歴史を題材にした創作モノの中でひどい扱いを受ける事が多いのは、

彼が正面きって幕府の体制に刃向かった人間だからです。


このような人間を江戸時代において賛美する事は到底許される事ではありませんでした。

つまりそれが現在まで続いている訳です。

幕末のように天皇やそれを担ぎ出した取り巻き連中が幕府を倒そうとするのは構わないけれど、

得体の知れないキリシタンや餓死寸前の土民達が支配者たる幕府に逆らうのは許さないと言う事なのでしょうか。

このゲームのストーリーもその流れを引き継いでいる訳で目新しい所は何もありません。

こんな天草を「妖人化」した物語は今まで無数に創作されてきたのです。

大体、天の四郎が「ヤソ教の妖術を使う」などと言われてきたのは

彼を「キリシタンの妖人」「世を乱す君主」に仕立て上げる事が目的だった事は今となっては明白でしょう。

根本が江戸時代から全く変化していない、このゲームの”世界観”とやらは実に良く出来ているではありませんか。

「天草四郎が復活」するにしても、それがなぜ1788年でなければならないのか? 

それらしい理由もゲームの設定にはありません。

大体、今―1994年現在の島原がどんな状態か見て下さい。

雲仙・普賢岳の噴火で現地の人達は今も生活が破壊されたまま、

さらにかつての水俣病はこの一帯にも多くの犠牲者を出しており、

彼らは皆かつての島原のキリシタンや圧政に苦しめられた民衆の子孫達です。

現在の「島原の凶事」を考えれば、天草四郎時貞が復活するに相応しい時代というのは

まさに今しかないのですから。ゲームにおいてこれらの歴史が活かされているのかと言えば…(以下略)。



侍魂はフィクションとして成り立つのか?

さて、ここまでは各キャラと、それに付属する時代考証を検証するという形で文章を書いてきました。

少々キツい言いまわしもありましたが、ここから更に踏み込んで考えてみたいと思います。

まずゲーム自体に1788〜1789年という設定年代がつけられながら、

フランス革命以外の歴史的事実が全くうまくからまっていません。

アメリカの独立戦争やポーランドの英雄コシューシコ、南米の植民地におけるインディオ達の闘争、

アイヌ民族のクナシリ・メナシの乱、老中松平定信の寛政改革などがこの時代にありました。

それら全てとまではいかなくてもいくつかを効果的に各”キャラ”のストーリーに絡ませれば

もっと重厚なストーリーになったでしょう。ところがゲームを見る限りでは、

まるでこの時代にはフランス革命以外には何も大きな出来事がなかったかのようです。

これでは時代を設定した意味が全くなくなってしまうではありませんか。

さらに問題なのは各”キャラクター”が本当に「キャラクター」として描かれているかどうか、という基本的な問題です。

はっきり言ってしまえば今のビデオゲームで本当に「キャラ」と呼べるだけのものが登場したためしはありません。

我々は普段、ゲームをプレイする時に操作する表示物(侍で言えば覇王丸などの)を

何気なしにただ”キャラクター”と呼んでいますが、

果たしてこれは本当に「キャラクター」と呼ぶに相応しいだけのものを(作り手から)与えられているのでしょうか?

なるほど、確かに今のビデオゲームには「ストーリー」などと言う文芸的設定がこじつけられ、

我々がプレイ時に操作する表示物つまり「駒」はそれに準じたデザインがなされ、

その「駒」はあたかも小説や漫画のように「ストーリーの中に生きるキャラクター」としての役割を

与えられているかに見えます。

しかしながら、「ストーリーの中を生きる」というのはただ単にキャラの絵が描かれてその名前がつけられてだけで

終わるものではありません。大事なのはそのキャラの人物像が描かれる事です。この登場人物の性格は?

生まれは? どんな生活をしているか? 仕事は? 思想は? どんな人生を今まで歩んできたのか?

…等、物語でどんな行動をするかという元になる人物像が全くありません。

小説や漫画でもこんなキャラは単なる「通行人」の役しか成しません。

ゲームの場合は「主役」でありながら「通行人」程度の人物像しか与えられておらず、

せいぜい「自然の声が聞ける」だの「木登りが趣味」などという設定をつけるのが関の山ではありませんか。

この程度ではとても「キャラクター」と呼ぶに値するだけの人物像が与えられたとは言えません。

つまりゲームにおいて我々が普段”キャラクター”と呼んでいる表示物は

真の意味で「キャラクター」と呼べるようには作られていないのです。

ましてやゲームに、あるいはゲームキャラに「世界観がある」など論外ですよ。

「世界観」というのは世界の見方・見解という意味です。

例えば「日本の敗戦によって神道を中心とする世界観は否定された」などというように。

ゲームの基板がそういった風に世界を見てるとでも言うのでしょうか? 

覇王丸やナコルルがAIを持っていて、それで様々な世界観を抱いているとでも?

業界誌などを読んでみると「餓狼・竜虎などで独特の世界観を作ってきたSNK…」

などという文が堂々と出てきますが、悪ふざけにもほどがあるでしょう。

いかなるチョーチン記事でもそのような内容の記事ではかえってメーカーの方が迷惑すると思うのですが…。

それに対してメーカー側が文句を言わないのも問題があります。

(参考までに。メーカーが雑誌などのメディアに発表する広告に世界観などという単語はまず使われていません。
お暇な方は探して見て下さい)


結局、設定された年代を生かし切れていないストーリー、

人物像のない…いわば中身のないぬけがらに過ぎぬ”キャラクター”達、

どれを取ってもこのゲームの文芸的評価は評価に値する程のものではありません。

ではサムライスピリッツという「今は昔の物語」が業界で受けている原因は何なのでしょう。

ストーリーや”キャラ”の出来ではない事がはっきりしているとなると…ゲーム性?

いや、これよりもすぐれたゲーム性を持つゲームはいくらでもあります。

特に同種の対戦格闘の中でも特別に優れているとは言えません。

とりわけ、体力差をつけて逃げ回られたら手も足も出ない、という欠点

(対人戦時のみ。対コンピューター戦はそれだけでは勝てない)が他の格闘ゲーム以上に大きいのですから。

となると残るは他の要素しかありません。すなわち、”キャラ”の外見的デザイン…。

ちょっと待った。

先ほど書きました、「文芸的表現」という一文ですが、ゲームにおけるストーリー・キャラ設定の難しさが、

この侍と真侍では如実に表れている「好例」といっていいでしょう。

ビデオゲームは今や不特定多数の人にプレイされ、またそれ以上の人の目にさらされる物となりました。

個人のイデオロギーは当然個人の自由となるわけですから触れはしませんが、

ここまで文章で触れてきたストーリー上の矛盾点に疑問を持つかもしれない人も存在するわけです。

ゲーム(ここでは侍・真侍)のストーリーがフィクション、もしくは創作という物であるのは百も承知です。

ただ、実際の史実・年代・キャラクター設定などを引用するとなると、

こうした「ツッコミの要素」が生じてしまうのもストーリーの完成度において問題となるわけです。

これが今のビデオゲームにおける「物語」や「お話」の限界点なのでしょうか。

仮にも「物語」と言うからにはしっかりと作って欲しいものです。

キャラクターの外見だけにとらわれず、中身をもっとしっかり作るべきでしょう。

ゲームでそれをやるのは不可能?

ならば最初からそんな文芸的設定を作るべきではないのです。

”キャラ”の外見を良くするという「ファンへの媚び」をする事が、ゲームにとってどれだけ重要な事なのか?

 「キャラクター」として完成させるにあたって大事な事なのか?考え直すべきでしょう。

今や対戦格闘ゲームに登場する”キャラ”の外見やそれに付属している声は格好良さを通り越して醜悪です。

そしてそれを無邪気に喜ぶファン達がそういったものに喝采を送って助長させ、

地に足の付かないゲームのストーリーや”キャラ”をメーカーに作り出させる悪循環を生み出しました。

ところがそのミーハーなファン達の間で起こった

ある”隠れた大ブーム”の中に一つの面白い可能性が隠されていたのです。



その程度で喜んでいちゃ、駄目だよ。

今やゲームのストーリーを漫画化するのは同人・商業出版を問わず珍しいものではなくなりました。

隠されていた面白い可能性とはそういった漫画でゲームのストーリーを補うという事に他なりません。

ゲームで完全な「キャラクター」に出来ずとも、漫画で面白い物語を作り出す事によって

それを補う事が出来るかもしれない。本質的に見てゲームにストーリーが必要か、という疑問を

ここでは別として「不幸な生まれ方をしたストーリーや”キャラ”を完全なものに造形する」という観点からすれば

これは有効かつ面白い事でしょう。いや、別に彼らのゲーム漫画がそれを実践したという事ではありませんよ。

彼らの描く漫画は所詮、

ゲームに付属している「地に足の付かないストーリーや”キャラ”に忠実な絵を描いただけですから。

では何がそれを実践していたか、と言うとそれは意外にも香港の海賊版漫画―

それも侍にとっては、”商売敵”の筋にあたるストUのそれでありました。そのタイトルは「街頭覇王」と言い、

かつてゲーメストなどでも紹介された事があるので御存知の方も多いと思います。

筆者は現在この作品の翻訳に着手しており、その過程で気づいたことですけど、

この漫画は出てくる主要キャラの人物像が明確に描かれていました。筆者は今まで、

ここまで「物語」と「キャラクター」の人物像を確立させるのに徹したゲーム漫画というのを見た事がありません。

詳しい内容は完成した訳本をご覧いただきたいと思いますけど、

こういった存在に気付けばまだゲームのストーリーや”キャラ”にも(やり方次第では)まだ救いがあるという事を

痛感させられるでしょう。

ミーハ―なファンに媚びるだけが能ではないという事を業界関係者はこの作品の物語に学ぶべきです。

いや、実を言うとこの漫画は最初のストUが市場に出た直後という時期に、

おそるべき速さで”企画モノ”として出版されたのですから、

その戦略だけは日本の業界が手本にした可能性はあるでしょう。

いずれにせよ、この本はゲームファンの間では密かにブームとなって、

中には直に香港や台湾まで出かけてこの本を買いに出掛けた人もいました。

そしてこれが広く読まれるようになれば、ゲーム漫画に携わる人達の意識も変わるかもしれない…。

ところが結果はご覧の通りです。それはなぜか? 

それは中身が翻訳されなかった為に内容を理解出来なかったというほとんど冗談のようなオチだったのです。



さて、以上旧・真サムライスピリッツの総合設定に関して批判ともツッコミともつかぬ文章を

書き連ねてきた訳ですが、拙文にも問題点は山ほどあります。

ゲームにおける「外観」が、漫画やアニメ、小説のそれと違うのは明白ですし、多種多様な見方が出来ると

言うのは百も承知です。キャラを愛好する「見方」もあれば、実際の史実と絡めて検証する「見方」もあるわけです。

こういった文章が無意味になってしまうのも、ゲームという遊戯が持つ凄い部分ではないでしょうか?

ゲームのストーリーや”キャラ”というのはそれ単体では「物語」としての力を持ちません。

作られる時にそのような事が意識されないからです。

結果、この不幸なストーリーや”キャラ”に救いを与えるにはゲーム以外の手段を以ってするしかありません。

ゲームの”キャラ”が好き、というのは二つのパターンが考えられます。

一つは飽くまでその”キャラ”が持つゲーム上の能力がプレイする時に扱い易いからというもの。

つまりプレイという実践的な理由から生じたものです。

もう一つが今まで述べたような「外見」が好みであるというタイプでしょう。

ゲームはプレイする事にその真価がある、というゲーム本来の”使用方法”に従って考えれば

前者の方こそ本来あるべき姿です。比べて後者は”邪道”でしかないでしょう。

いや、”邪道”でも良い。外見が好きなだけでも良い。

本当にその”キャラ”が好きと言うならばそれらを本当の「キャラクター」にする事を追求してください。

メーカーの金儲け目的だけでは終わらせない、真に「キャラクター」と呼べるだけの肉付けをしてやろう、

あるいはそれを求めてやろうと。
その為のヒントはすでにいくつか現れています。

後は「ゲーム性等関係なし。キャラしか見ないゲーマー」達が

真にその”キャラ”を愛しているかどうかにかかっているでしょう。

   

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