第五章 闘いの決意
「ふえ〜。大きいわねぇ」
呟きながら見上げた鳥居は、鈴姫が今まで見た中で一番大きい。天降にももちろん神社はあったが、まったく規模が違う。
この神宮は、武門の神、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を祀(まつ)っており、いつかは参詣(さんけい)したいと思っていた場所だ。
石造りの鳥居をくぐると、すぐ右手に今度は赤い鳥居が見えた。
「あれが本殿かしら?」
人の集まり具合からして間違いなさそうだ。参拝者の列に加わろうとしたところで、若い女性の二人組とすれ違った。
「やっぱり、ここのお団子は最高ねぇ〜。もうお腹いっぱい食べちゃったわ。しかし、なんだってあんなに美味しいのかしら」
「そりゃあ、お水が違うのよ。だって、あの霊泉(れいせん)を使ってるんでしょ?」
「いやいや、それだけじゃないわよー、だってあの絶妙な噛みごたえはわざわざ……」
二人連れは団子談義をしながら、早足で去っていってしまったが、この近くに美味い団子屋があるとわかっただけでも十分だ。
確か、彼女たちは大鳥居を抜け、本殿を通り過ぎた先からやってきた。つまり、大鳥居から奥へ向かえば、そのうち着くだろう。
「よーし、行ってみよう〜」
言うが早いか、鈴姫は並びかけていた参拝者の列からするりと抜け出ると、美味い団子屋にもしかしたら
あるかもしれない桜餅を目指して、奥の道を進んだ。
「ありゃ……。どっちだろ」
どうせ一本道か、道が分かれているにしてもきっと道標でもあるだろうと踏んでいたのだが、予想が見事に外れてしまった。
丁字路(ていじろ)の突き当りの地面に突き刺さった角材らしき物があるが、これが道標だったのだろう。
台風か罰当たり者の仕業か、足首くらいの高さで折れていて、そこから先は見当たらない。
「う〜。参ったなぁ……ん?」
まったく違う道の十字路を突っ切ったあとで、ようやく鈴姫の足が止まった。
やはり、道を間違えたのだと、踵(きびす)を返そうとしたその時、背後に不思議な気配を感じて鈴姫は振り返った。
「……あれ?」
しかし、そこにあるのは、なぜか囲いに覆われた小さな石だった。
もしかしたら、また追っ手だろうか。
鈴姫は一抹の不安を感じながら、今度こそ参拝をすべく、道を引き返した。
半刻ほど後、参拝を終えた鈴姫は先ほどの石のところへ向かっていた。
追っ手のことが気がかりだったのではなく、石そのものが気になって仕方がなかったのだ。
「……あれ?」
そこには一人、先客がいた。鈴姫より小柄な老人であった。
「―――――っ!?」
老人と目が合った瞬間、鈴姫は後ろに飛び退きながら懐の鉄芯入りの笛に手を伸ばした。
「おやおや、物騒だのう」
温厚そうな声で笑った老人に、鈴姫は小さくかぶりを振った。
(こんな老人を相手に、アタシは何を……ううん、アタシは間違ってない)
本能が告げている。彼の気配は只人(ただびと)のそれではない。
「あ、あなたは一体……?」
絞り出した声は、掠れていた。
「ふむ。そうだのう。古武術を極めし者、とでも言っておこうかの。もちろん、信じるも信じぬもおぬしの勝手だがね」
「古武術を……?」
鈴姫はほんのわずかな時間、逡巡する様子を見せたが、すぐに意を決すと、その老人の前に膝を折った。
「アタシ……いえ、どうか私(わたくし)に奥義をお授け下さい!」
「……ふむ。まあ、今ならば暇だしのう。奥義なんて大それたもんはないが、ひとつ付き合うてやるか」
「あ、ありがとうございます!」
「よしよし。それじゃあ、ついてこい」
そう言って老人が鈴姫を連れて行った場所は、社務所の裏口だった。
「まずはこの中から、巫女装束一式を借りてきて着るのじゃ」
「ええ……!? それって、ドロボーじゃ」
「借りると言っただろう。それに、儂が許したと言えば、誰も怒るまいて。ほれ、その大荷物はこっちに預けていきなされ」
妙に自信たっぷりな老人に、鈴姫は半信半疑で従った。
「次はこちらじゃ」
「は、はい……」
よほど苦労したのか、鈴姫は着替え終わった段階でだいぶくたびれている様子だが、しっかりと老人の後に続く。
どうやって歩いているのやら、彼は滑るような早さでどんどん進んで行くので、鈴姫はそれを小走りで追いかけた。
軽く息が上がる距離を行った先にあったのは、小さな社だった。
「今度は、この社の拭き掃除をしてもらう。誰にも見つからないようにな。見つかったらそこで特訓は仕舞いじゃ」
言いながら老人は鈴姫に、雑巾と桶を手渡した。
なぜに見つかってはいけないのかとか、奥義の取得に雑巾がけが必要なのかとか、聞きたいことはあったが、
鈴姫はその言葉を飲み込んで黙って、二つを受け取った。
鈴姫が人目がないのを確認しながら、社に入ると、老人は近くの木の枝に飛び乗り、そこにちょこんと座った。
(――普通の老人が、あんなこと出来るわけないわよねぇ……。うちのじいなら出来るかもしれないけど)
天降に置いてきた刃兵衛を思い出しつつ、鈴姫はそっと音が立たないように社の戸を閉め、雑巾がけに取り掛かった。
今は旅の身の上とは言え、姫として育ってきた鈴姫は掃除などまともにしたことがない。
女中たちがやっていたのを思い出しながら、雑巾を固く絞り、床を磨いていく。
雑巾がけを終えて社から出ると、老人が竹箒を持って立っていた。
「今度は掃き掃除じゃ。ここの砂利の上に落ちた枯れ葉だけを、集めてみるがいい。
砂利を動かしてはいかんぞ。枯れ葉だけじゃ」
「そ、そんな無茶な……」
雑巾がけと同じく、箒もまともに扱ったことがない。せいぜい、幼少の時分に振り回して遊んだくらいだ。
「……いえ、やります」
そのあともなぜか目隠しをしたまま障子にハタキをかけさせられ、へとへとになった頃には、日が西に傾きかけていた。
人通りのない広場で、鈴姫は着崩れた巫女装束のまま、へたりとその場に座り込んだ。
「はあはあ……、つ、疲れた……」
「うむ。所々危なっかしいところもあったが、なんとか終えたの。それでは一丁、手合わせでもしてみようかね」
「……え?」
老人は鈴姫のバスタードソードをいとも簡単に投げて寄こした。驚きながらもそれを受け取り、ゆっくりと布を解く。
「本気で来て構わんよ。絶対に当たらんからの」
「で、でも、あなたは素手なのに……」
「大丈夫だと言うとろう」
「……分かりました!」
この人が大丈夫と言うなら、本当にそうなのだろう。
息を整える鈴姫の眼光が鋭くなるのを、老人は嬉しそうな顔で見つめた。
「いつでも来い」
「……………………」
鈴姫は無言で剣を構えて答えた。チリチリと首筋に焼けるような感覚がある。
長い間、相手の出方を探っていたが、突然吹いた強い風を合図に鈴姫が先に動いた。
大きく剣を振り下ろし、即座に身を返して二打目を打ち込んだが、老人は反対側へ転回してそれを避ける。
バスタードソードを再び構えるまでの隙を突いて、老人が懐に飛び込んでくる。
笛で応戦するのも間に合わず、持ち上げかけていた剣を落としてそれを軸に体を捻った。
早い蹴りは鈴姫の頬を掠め、白い肌にうっすらと赤い筋を作る。
流れ落ちてくる血を拭いもせず、鈴姫は剣を引き抜き、その勢いのまま、回転して間合いを詰めたが、
今度は上に逃げられた。
頭を狙って落ちてくるかかとを、しゃがみ込んで剣で受ける。
足が剣に当たる瞬間に、剣を払い上げる。着地を阻止されて、老人は後に飛んだ。
すかさず手首を返して、剣を横に滑らせた。
空中で体を丸めてそれを躱(かわ)されたが、間髪入れずに笛で着地する足元を狙う。
「―――っ!?」
「おお、危ない。当たってしまうところじゃった」
老人は笑いながら、鈴姫の笛の先端につま先だけで乗っていた。
鈴姫は愕(おどろ)いて、言葉がでない。
「にしても、やはり筋がいいのう」
「……え?」
「どうじゃ、ほんの少しの特訓じゃったが、身軽になったじゃろ」
笛の上から退きながら、老人がもう一度ニカッと笑った。
「言われてみれば……、いつもより体が自然に動いたような」
「うむ。力任せでは剣は振れぬよ。もっと繊細なところまで心を配ることじゃな」
「はい」
「それから、……その剣は大事にするように」
「もちろんです」
「では、これで、儂の修行は終わりじゃ」
「……はい! ありがとうございましたっ!」
鈴姫が深々と頭を下げ、次に頭を上げたときそこに老人の姿はなかった。
「あれ……?」
きょろきょろと辺りを見回す鈴姫のところに、まるで老人と入れ替わるようにして、宮司らしき人物が近寄ってきた。
「どうしましたか?」
金の髪や、なぜか巫女装束を着ている鈴姫の姿には触れず、彼は穏やかな声で尋ねてきた。
「あ、あの、それが……」
鈴姫が今までの出来事を正直にかつかいつまんで話すと、彼は疑う様子も見せずにこう答えた。
「それはきっと、武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)様ですよ」
「え……! えええええ!?」
当然ながら、鈴姫はひどく驚いて、口をぱくぱくとさせながら、神主の顔を見つめる。
「間違いないと思いますよ。私の勘、ですけれどね」
宮司の言葉が信じられないのではなく、自分の身に起きたことが信じられない。
「では、私はもう行きますが、その装束は返しておいてくださいね」
「あっ、……は、はい」
鈴姫は顔を真っ赤にしてうつむきながら、小さな声で答えた。
宮司の背中を見送ると、鈴姫は握っていたバスタードソードを目の高さまで持ち上げた。
父の形見である大切な、剣。
女の身である自分には、重いものだけれど、それでも、この剣と共に闘っていく。
やがて、沈みかけていた太陽が姿を隠すと、鈴姫はゆっくりと腰を下ろし、木々の向こうに見えた本殿にもう一度深く頭を下げた。
小さな胸に、大きな決意を秘めて――。