第四章 姫がご機嫌な理由〈ワケ〉
雲のない空は一面が青に染まり、そこから降り注ぐ陽光が影を作る。
風もそよそよと穏やかで、縁側で庭を眺めているだけでも幸せな気分になれそうな日。
鈴姫は一人、自室に篭って、天気とは全く関係ない幸せに浸っていた。
「あった! これよこれ。……初めてのおしのびで勝った簪。ふふふ、やっぱりシンプルで可愛い〜」
真鍮(しんちゅう)に模様を刻んだだけの簪を手に持って、鈴姫はにんまりと口元を緩ませた。
鈴姫の持っている簪は、どれも色使いが鮮やかな上、家紋が刻まれていて、町娘のふりをするのには向かないのだ。
そもそも髪を結わないので、使う機会はないのだが、部屋中に広げられた戦利品の中には、いくつも簪が混じっている。
「こっちの櫛(くし)は、確かひと月前だったかな。梅の花の色合いが良くて買ったのよね。
……そういえば、これを買った帰りに食べたあんみつ、美味しかったなぁ……。ふふふっ、また行こうっと」
次から次に箱を開け、一品ずつ思い出を振り返っては幸せに浸る鈴姫の周りには、思い出し終わった品が山積みになっている。
「……あれ、なんだっけこれ」
数々の箱の中から、見覚えのない箱を開ける。
「あ、これはこの間買ったばかりの帯だわ」
藍鉄(あいてつ)に染められた布に、紅絹(もみ)色の糸で紅葉の刺繍が施されたもので、色合いの対比が美しく、
一目惚れしてしまったものだ。
「そういえば、女将さんから、城下で最近流行してるっていう帯の結び方を教えてもらったのよね。
……よし、やってみよっと」
帯以外の物をそれぞれの箱にしまい、まとめて脇に寄せて場所を作ると、鈴姫は内掛けを脱ぎ、つけていた帯をほどいた。
ついでに着崩れた襦袢(じゅばん)を直そうと、腰紐の結び目を緩めたとき、部屋に近づいてくる足音が聞こえた。
「え……! ちょ、ちょっと……」
走っているのだろう、どたどたと床を踏みつけながらやってくる足音は大きく、そして、思った通り鈴姫の部屋の前で止まる。
「ま、待った……。まだ、ちゃんと着れて……」
「姫、失礼します!」
響く声がビリビリと襖を震わせた。
「ええっ!? 今は、だめだってば!」
「そんなことを言って逃げるおつもりですな。そうはいきません。入りますぞ!」
「ち、違うって……きゃあああっ!」
宣言通りに入ってきた刃兵衛に鈴姫は悲鳴を上げ、胸元を押さえながら背を向ける。
「ちょっと、人の話聞いてよ! そもそも、もう私だって年頃の女なんですからね!
勝手に部屋に入ってくるなんて、失礼よっ!」
刃兵衛に背を向けたまま、顔だけで振り返って怒鳴りつけるが、刃兵衛の顔は鈴姫以上に真っ赤で、
完全に血がのぼりきっているようだった。
鈴姫の訴えもまったく耳に入っていない様子で、あられもない姿に動じないあたり、冷静さを欠いている。
「姫! 昨日はまたお稽古を放り出して、おしのびで城下に行かれましたな!
しかも、町中で柄の悪い男にからまれたと聞きましたぞっ!」
「え!? で、でも、なんともなかったし……」
「なんともなかったがどうしました! 何かあってからでは遅いのですぞっ!!」
怒鳴りつけながら、刃兵衛は胃の辺りをさする。
「アイタタタ……。これほど、城を抜け出してはいけないと、再三申し上げているのに、どうして分からないのですか!」
「う、だから……その……」
刃兵衛の勢いに負け、何も言い返せずに鈴姫はうなだれた。
「それより、人が話しているのに背を見せたまま聞くとは行儀が悪いですぞ!」
「あ! 違うの、これは……」
鈴姫の肩に手をかけて、自分の方に向き直らせようとした刃兵衛の顔が赤から青に変わる。
「ほおおおおおおおお―――?」
「……ぷっ」
おかしな声を上げながら、畳の上を後ろ向きに走る刃兵衛の姿に、自分の状況も忘れて吹き出す。
体が襖にぶつかったことで、少し冷静になったらしく、刃兵衛は体を反転させて部屋を飛び出していった。
「し、失礼しました!」
「まったくよ。もう……」
襖の向こうで土下座でもしていそうな、刃兵衛の声に小声で返し、鈴姫は襦袢を整え、腰紐を結び直す。
「……そうだ、このまま逃げちゃおうかな」
今の出来事のおかげで、刃兵衛は自分の許可がなければ部屋に入ってこないだろう。
まだ着替えていると言ってこっそり隣の部屋から抜け出してしまえば、恐らくこの後に待っているお説教から逃げられるかもしれない。
そう思った矢先、刃兵衛以外の気配を襖の向こうに感じ、鈴姫は体を強ばらせた。
「姫様、失礼いたします」
案の定、その気配の主は部屋の中に入ってくるようだった。しかも、声からしてほぼ確実に女性であり、着替え中だから入ってくるな、
というのも通用しなさそうだ。
「……はーい。どうぞ」
観念して入室を許可すると、若い女中が少し困った顔をしながらおずおずと入ってきた。
「刃兵衛様から、鈴姫様のお召し物を直して差し上げるよう申し受けまして……」
「お願いするわ」
投げやりに言って任せると、彼女は見事な手際で鈴姫の着付けを終えた。帯は丁度足元に置いたままになっていた新品だ。
女中は鈴姫から離れて、全身を見回すと小さく頷いてその場で膝をついた。
「それでは、わたくしはこれで……」
「あ、うん。ありがとう」
丁寧に座礼をし、女中が部屋を出て行く。入れ替わりに、どうにか少し落ち着いた様子の刃兵衛が戻ってきて、鈴姫はげんなりした顔で横を向いた。
そんな鈴姫の態度に、刃兵衛は眉を寄せて、また腹をさする。
「さて、姫。もうお分かりでしょうが、今日は色々とお話せねばなりません」
「……はい」
鈴姫の声は、迷惑至極といった雰囲気で、あまり真面目に話を聞くつもりはないようだ。
咳払いを一つして、刃兵衛は鈴姫を見据えた。
「いいですか。まず、おしのびは絶対に駄目です」
「ええーっ!」
「駄目ですっ! お一人で勝手に出かけて、何かあったら困るのは姫だけではないのですぞ!」
「そんなの、アタシ、強いから大丈夫よ」
「茶屋の団子に毒が入っていたらどうします。湯屋に閉じ込められたら?」
「む、むぅー……」
上目遣いに刃兵衛を見つめる鈴姫は、反論の言葉を思いつかず、唸りながら顎を尖らせた。
「それから! お強いのは大変結構なことですが、武芸以外のお稽古ごとにも力を入れてください。
和歌に茶道、華道、書道……、お勉強の時間になるとふいと居なくなってそうではないですか。まったく……元気なのはよろしいですが、
もう少し淑やかに女性らしくなっていただかねば」
刃兵衛が必死にまくし立てるほど、鈴姫の眉間のしわが増えていくが、延々と語る刃兵衛に気づく様子はない。
「姫のお目付け役を仰せつかった時には、娘がもう一人出来たようで嬉しくて仕方がなかったのに、あれから積み重なってきたのは気苦労ばかりで……
ううっ……」
こうなってきては、もはや説教ではなく愚痴である。
しかし、話しながら腹をさすり、目に涙まで浮かべる刃兵衛の姿に、鈴姫はさすがに申し訳ない気持ちになる。
「苦労をかけてばっかりなのは、悪いと思うけど……」
「では、ワタシの話を分かってくださいましたな?」
「勉強はもうちょっと頑張る」
「おしのびは!」
「……」
刃兵衛には悪いが、そこは譲れない。嘘で頷くこともせず、鈴姫は黙り込んだ。
「……はぁあ。分かりました。今日はここまでにしましょう」
大きなため息と共にがっくりと肩を落とした刃兵衛は、部屋を出て行く。その後姿はいつもより小さく見えた。
「……ふう」
鈴姫も小さくため息をついて、部屋を出る。剣術の稽古でもして、気を紛らわすつもりだった。
「あら、アナタ……」
部屋の前に立っていたのは、先ほど着物を直してくれた若い女中だった。
「あ、あの……姫様にお願いがあって……」
「お願い?」
「その、刃兵衛様をあまり困らせないでほしいんです」
「へ?」
「刃兵衛様があれこれ言うのは、姫様が大切だから心配で仕方ないんです。最近、痛みを鎮めるお薬の量も増えてきたようで……。
だから、お願いです。これ以上刃兵衛様が困るようなことは、なさらないでください!」
「う、うん……。努力する」
今にも泣き出しそうなほど必死な女中に、驚いた表情のまま鈴姫が頷く。
その返事に女中は安堵の笑みを浮かべる。
「……よかったぁ〜」
「じゃあ、アタシは行くわね」
「は、はい! お引留めして申し訳ありませんでした」
女中の一礼に、軽く会釈を返すと、鈴姫は軽い足取りで廊下を進んでいく。
「そっか〜、大切か〜。ふふふっ」
嬉しそうに呟きながら歩いていく鈴姫に、女中は青ざめた。あの様子では、心配とか心痛の話はどこかへ行ってしまっている。
このままでは自分のお願いが完全に逆効果になる。
「ひ、姫様……!」
もう一度、呼び止めようとしたが、鈴姫は小刻みに跳ねながら廊下の角を曲がってしまった。
「ど、どうしよう。……刃兵衛様、ごめんなさい」
女中はその場で崩れ落ち、更に心労を増やしてしまった自分の不甲斐なさを悔いる。
刃兵衛や彼女の思いが鈴姫に届く日は、まだ来そうになかった―――。