第三章 江戸の町に響く笛の音
鈴姫が彼と出会ったのは、桜が散り始め、薄曇りの淡い光が葉桜を彩る穏やかな日のことだった。
江戸に入って数日、人の集まりそうな場所で仇の情報を集めてみたのだが、どれも肩すかしばかりで鈴姫はすっかり気落ちしていた。
たまにはぼんやりした一日を過ごしてみようかと、川沿いに植えられた桜の木にバスタードソードを立てかけ、流れていく桜の花びらを眺める。
「やあ、お姉さん、人捜しをしてるんだって?」
突然、背後から馴れ馴れしい口調で話しかけられ、鈴姫は懐から鉄芯入りの横笛を取り出した。
自分にかかっている賞金を目当てにした輩か、そうでなければ好奇心旺盛な、軽薄な輩か。いずれにしろ、一発、鉄槌を食らわせてやらなければ。
「………なんの用?」
低い声で答えながら、振り向きざまに相手を睨みつける。
おかしな素振りがあれば、即座に対応できるよう後手に横笛を構える。
だが、そこに立っていたのは、鈴姫より幼い、十一、二歳くらいの少年だった。
「やだなぁ。そんなに怖い顔しないでおくれよ。オイラは別に怪しい者じゃないよ。ただ、このところ人を捜してる綺麗な人がいるって聞いて、
もしかしたらお役に立てるんじゃないかと思ってさ」
「綺麗ってそんな照れる……じゃなかった。それって、アンタが何か知ってるってこと?」
「うん。だから、オイラの話聞いてくれる?」
振り向くなり、いきなり脅してしまったせいで、少年は怯えた目をして鈴姫を伺っている。
咳払いを一つして、鈴姫はとびきりの笑顔を作った。
「ええ、お願いするわ」
「あ、あのね。この近くに、便利な店があるんだ。見た目はただの茶屋なんだけどさ」
鈴姫の態度が軟化すると、少年は嬉しそうに話し始めた。
「江戸中の消息通が集まる店って言われていて、きっと、お姉さんの捜してる情報も見つかるよ」
「そこに案内してくれるっていうの?」
「うん、こっちだよ。ついてきて!」
「はいはい」
ぴょこぴょこと跳ねながら走っていく少年の後を、鈴姫は小さく笑いながら追った。
言われたとおり、その店は先ほどの場所からごく近い場所に建っていた。建ってはいたが……。
「…………誰もいないじゃない」
期待していた消息通の客とやらが、一人もいない。店の中にいるのは鈴姫と、ここまで案内してくれた少年と気の弱そうな店主だけだ。
「おかしいなあ。この間は、たくさん人がいたのに」
「嘘じゃないでしょうね」
「ほ、ほんとだよう……」
「その子の言うことは本当ですよ、お嬢さん」
「え?」
二人の間に割って入ったのは、この店の主人だった。彼は見事な八の字の眉を寄せながら言った。
「ついこの間までは、色々な方面に顔の利くお客さんたちが来ていたのですが、なぜか急に人が立ち寄らなくなってねぇ。
店がまた以前のように賑わえば、自然と情報も集まると思うんですが」
「ねえ、お姉さん。だったらオイラたちでこの店に人を呼んであげればいいんじゃないかな」
鈴姫にはこの店が再び繁盛するのを待つ時間はない。長い間同じ場所に留まれば、そのぶん賞金目当ての連中に見つかりやすくなってしまう。
少年の言うとおり、自分の力でこの店に客を呼ぶというのはいい案かもしれないが……。
「ふむ……」
だからと言って、何ができるだろうかと店内を見渡したとき、鈴姫の目に留まったものがあった。
この店の品書きである。
「……さくらもち。桜餅を置いてるの!?」
「は、はぁ。ありますが」
「食べるっ。今すぐ食べる! 一つちょうだい。考えるのはその後っ!」
「はい。では、すぐに……」
鈴姫の勢いに気圧されながら、店主はこくこくと頷いて奥に入っていった。
「お姉さん、ここの桜餅は天下一品だよ」
「天下一品!? うふふふふふ、それは楽しみね」
鈴姫は不気味な笑いを浮かべながら適当な席に腰を降ろした。少年もその向かいに座る。
「そういえば、オイラ名前を教えてなかったね。オイラは太助っていうんだ。よろしくね、お嬢さん」
「アタシは鈴姫よ。よろしく太助」
「お待たせしました。当店自慢の桜餅です」
「え……? これが桜餅?」
目の前に置かれた桜餅は、いつも食べているものとは見た目がまったく違うものだった。
確かに色は桜色だし、桜の葉で包んであるが、まんじゅうのような外見ではなく、薄い生地で餡が巻かれていて、餅という印象がない。
「まあまあ、とにかく食べてごらんよ」
「う、うん……。はむ……」
促されるまま、初めて目にした桜餅を口に運ぶ。
「ん……。おいしい!」
普段食べていたものとは味も違うが、この桜餅もとても美味しい。
あっという間に二つを平らげ、最後の一つに手を伸ばしたとき、懐に差した笛が目についた。
「…………これだわ!」
鈴姫と太助は、昼時を過ぎた大通りへやってきていた。
「ふふふ♪ 張り切っていくわよ!」
「うん。オイラも頑張るよ」
太助が頷くと、鈴姫は目を閉じて深呼吸を繰り返した。
「…………では……」
真剣な顔で横笛を構え、鈴姫は大きく息を吸った。
一つめの音が通りに響くと、何人かが足を止めた。音の出所を見つけようと、あたりがざわめく。
それもすぐに静まり、鈴姫の周りには人々の輪ができていた。
澄んだ音が遠くまで響き、次から次へと人が集まってくる。
観客たちは鈴姫の細い指が奏でる笛の音に酔いしれ、その世界に浸っていく。
曲の終りの一際高い音を吹くと同時に、通りを風が駆け抜けた。ふわりと金色の髪が舞う。
薄く空を覆っていた雲が流れ、現れた太陽の光にきらきらと輝く。
演奏が終わり、鈴姫が瞳を開けたとき、大通りはしんと静まり返っていた。
「……綺麗な音」
若い女性がうっとりとしたまま、小さく手を打ち合わせると、周りの人々も呼応して拍手を送る。
「若いのに見事な腕だ」
「不思議な外見をしてるけれど、本当に素敵だわ」
口々に賞賛され、鈴姫は頬を染めて照れ笑いを浮かべた。そこへ太助の声が割り込む。
「はいはい! 聴いてくれた皆さんには、美味しい桜餅をお配りしますよ! もちろんタダで!」
「おお、くれくれ!」
「甘い物好き〜」
現金な聴衆は、タダでという言葉に反応して太助の方に群がってしまった。
鈴姫の笛で人を集め、店の名物である桜餅を宣伝する、そういう作戦だったのでこれでいいはずなのだが、
なんとなく釈然としない。
「お味はどうだい?」
「美味しいー。でも、これ本当に桜餅?」
「そうです。今までにない桜餅でございます」
「笛も見事だったが、この桜餅も見事だねぇ」
「そうでしょう。もっと食べたければ、店はすぐそこ。この大通りを右に行きまして……」
「むー……」
大勢に囲まれながら、てきぱきと店の宣伝をする太助が面白くなくて、鈴姫はくちびるを尖らせた。
「先に戻る!」
「うん、任せてお姉さん!」
無邪気な笑顔で答えられ、鈴姫は不機嫌な顔のまま、通りを後にした。
数日後、宣伝の効果を確かめに鈴姫は茶屋へと足を運んだ。
「お、おおー! 大盛況じゃない」
店内に人が収まりきらず、店の外にまで溢れている。ずらりと並んだ客たちは皆、桜餅について話している。
自分も並ぶべきかと思ったが、宣伝の協力者なのだから、優先されてもいいだろうと、列を割って店内に入った。
演奏を聴いていた客が多いのか、すんなりと通らせてもらえた。
「あ、お姉さん」
「太助も来てたの」
「え? う、うん! すごいよね、大成功だよ。お店も桜餅も、あっという間に有名になっちゃった」
「そうみたいね。それで消息通っていう人たちはどこに?」
「え? ええと……」
「ま、いいわ。適当に聞いてみるから」
口ごもった太助を置いて、そばにいた男や雑談に花を咲かせている娘たち、ぼんやりと茶をすする老夫婦にも聞いてみたが、
誰一人として仇の消息どころか、消息通のことも知らないという。
「……ちょっと、太助。どういうことよ。誰も何にも知らないただの客じゃない!」
「えっと、これはその……」
そろそろと後ずさる太助の胸ぐらを掴み、軽く引き寄せると、突然店主が割って入ってきた。
「す、すみません! 私が悪いんです! 太助を殴らないでください!」
「…………へ?」
「実はその、太助は私の息子なんです」
「……………………ええ?」
いまいち状況の飲み込めないままの鈴姫に、店主は続ける。
「新しい桜餅には自信があったのですが、客が来てくれないことにはどうしようもなくて。ほとほと困り果てていたときに、あなたが
町で聞き込みををしているのを知りまして……」
「……それで、息子を使って、アタシで客寄せしようってことになったのね」
きっと、初めの予定では笛ではなく、外見で人を集めるつもりだったのだろう。あまり、気分のいい話ではない。
「じゃあ、消息通が集まるのは、嘘ってこと?」
「は……はい……」
「はあ……」
期待していた分、なんとも言えない虚しさが押し寄せてきて、鈴姫は深いため息をついた。
「……ま、でも、仕方ないわね。店が潰れて桜餅がなくなってたら哀しいし、許してあげる」
「よかったー。さすがお姉さん、懐が広いね!」
調子よく言って、逃げようとした太助だが、あっさりと鈴姫に襟を掴まれてしまう。
鈴姫は二人に満面の笑みを向けた。
「もちろん、お礼はたっぷりしてくれるのよね?」
「は、はははは……」
「アタシ、ここの桜餅すっごく気に入ったのよね」
その日、店を訪れた客たちは、品切れという文字とともに店主と太助に平謝りされ、何も食べられずに帰ることになるのだった―――。