第二章 内緒のしあわせ
「姫ーー! どこにおられるのですかー! 姫ーーっ!!」
広い城内すべてに響き渡るような大声をあげながら、ものすごい早足で廊下を歩いているのは、
天降(あもり)藩主の養女、鈴姫のお目付け役にして、”西国の生ける武神”との異名を持つ菅又刃兵衛である。
「鈴姫様ぁーーーー!」
古稀の祝いを終えたとは思えぬ足腰は、若い頃からほとんど衰えておらず、鈴姫を捜し始めてからもう一刻は経つというのに、
疲れる様子はない。
一緒に城内を回っていた家臣たちはとうに疲れ果て、もはや刃兵衛について来れている者は一人もいないのだが、
彼らを置いていった本人はそれどころではないらしく、ひたすら鈴姫を呼びながら城内を突き進んでいく。
「姫はおられぬか!」
「きゃあ!?」
ビリビリと戸が揺れるほど張り上げた声に、女中の一人が悲鳴をあげる。
刃兵衛がためらいもなく開けたのは、普段であれば近寄ることのない厨房の戸である。
涙目の新入りに抱きつかれながら、古参の女中が溜息をついた。
「……またですか? こちらにはお見えになってませんよ」
「う、むむ……。そうか……」
この厨房が最後の心当たりだったのだろう。見ているのが気の毒なほど肩を落として、刃兵衛が呻く。
「そうか、また、外に抜け出してしまわれたか……。……そうか」
血の繋がらぬ養女だとしても、主君の大切な姫君である。お目付け役に任ぜられてから、ずっと、一生懸命に尽くしてきたつもりだった。
しかし、年を取ったせいで甘やかしすぎたのだろうか。いつの間にやら、すっかりおてんばに育ってしまった。特に最近はちょいと目を離した隙に、
城を脱走するようになった。しかも、誰にも見つかることなく見事にいなくなってしまうのだから厄介この上ない。
身を守る術を身につけているとはいえ、うら若き乙女である。刃兵衛は思い詰めたような顔をして、城門の方へ駆けていった。
「そのうち心労で倒れてしまわれないかねぇ……」
ぽつりと古参の女中が呟いたが、愛用の槍を握りしめた刃兵衛の姿はもう小さくなっていた。
そんな刃兵衛の心配をよそに、おしのびを満喫中の鈴姫は、鼻歌を歌いながら茶屋へ向かっていた。
おしのび中は地味な着物に身を包み、町娘になりきっているのだが、時々すれ違う人が驚いた顔で鈴姫を見る。
「おい……、あれって……」
「しっ、黙ってておやり。ほら、楽しそうじゃあないか」
と、そんな会話が繰り広げられているのだが、当の本人は気付かない。振り返りもせず、にぎやかな町の大通りを上機嫌で進み、
最近馴染みになった茶屋に入った。
「こんにちは〜! また来ちゃった」
「あ、姫さ……お鈴さん、いらっしゃい」
元気な鈴姫の声に、ちょうどチッかうにいた店主が振り向いて会釈をした。
「今、お福も来ますので。今日も桜餅でよろしいですか?」
「うん。大盛りでね!」
「大盛りはないんですけどね……」
呟きながら店主が奥に戻るのと入れ違いに、一四、五歳の少女が出てくる。
「お福ちゃん! また来ちゃったよー」
「いらっしゃい、お鈴ちゃん」
お福はこの店の看板娘で、本来であればゆっくりしている暇などないのだが、”お鈴ちゃん”が来たときだけは特別に彼女の相手をすることになっている。
無論、正体が分かっているからこその配慮なのだが、世間知らずの鈴姫はそういうものだと思い込んでいるらしい。当たり前のようにお福を正面の席に促す。
「じゃあ、ちょっとだけね」
「うんうん」
普段、城中で同世代の少女と話す機会の少ない鈴姫にとって、他愛もない話こそが楽しいのだ。
「お待たせしました。桜餅の大盛り、です」
「わあい、待ってました! はむ……。ふはぁ〜」
目をきらきらと輝かせて、さっそく1つ頬張り、至福のため息をつく。
「本当に好きねぇ」
幸せそうな鈴姫の顔を見ながらお福が微笑んだ。
「ほうだっ、……もぐもぐ。はっきね、薬屋に寄ったらさ、そこの若旦那が格好よくて……」
「もう、お鈴ちゃんたら。桜餅取ったりしないし、話もゆっくり聞いてあげるから、落ち着いて」
「うん、……(ごっくん)。この先の角にある店なんだけど、知ってる?」
「知ってるわよ、有名だもの。しかも彼、すごく優しいのよ」
「ほんとに!……その人強い?」
「え……、強くはないと思うけど……。見ての通り優男って感じの人じゃないかなあ」
「なあんだ。じゃあ駄目だわ」
大げさに肩をすくめて、2つめの桜餅に手を伸ばしかけたとき、ぴたりと鈴姫の動作が止まった。
「ん? どうしたの?」
「……声がする」
「声って、誰の……って、えぇ!?」
「ごめん、お福ちゃん、ちょっと貸して!」
言い終わった頃には、鈴姫はお福の前掛けを奪い取っていた。焦りながら紐を結ぼうとするが、不慣れでなかなかうまくいかない。
「ど、どうする気?」
「ほら、いつもお世話になってるから、たまにはお手伝いしようかなって!」
「このあたりで金色の髪の娘を見なかったか!?」
「わあ! そこまで来た!」
鈴姫を慌てさせた声の主は、もちろん刃兵衛である。大きな声が隣の店から響く。
「あーん、紐がうまく結べないー」
「紐とかの問題じゃないのよ! 私がなんとかするから隠れてて!」
「え? ええー!?」
「早く!」
「……ふぎゅう」
なぜか鈴姫よりも焦った様子のお福に、予想外の強い力で店の奥に押し込まれる。積んであった袋に顔を埋めて、鈴姫が呻いた。
「ごほん。こちらに金色の髪の娘が来なかったか?」
「うひ……!」
身を隠した直後に刃兵衛の声がして、鈴姫は身をすくませた。
「隣の主がこっちの店に入ったと言うのでな」
「げっ……」
目撃証言があるのなら、刃兵衛は店を探して回るかもしれない。そう思ったら、思わず声が漏れていた。
「はて、今、奥から聞き慣れた声がしたような……」
「あら、きっと蛙ですよ。縁起のよい珍しい模様だというので、奥で最近飼い始めたのです」
澄ました様子で答えたお福から、含みのある視線を送られて鈴姫は一瞬たじろぎながらも、それに従う。
「ゲコゲコ……、ゲコゲコ」
まさか、姫として育ってきた自分が蛙の鳴き真似をする羽目になろうとは。自業自得とはいえ悲しい。
「覗いては行かれましたけど、そのままお城の方へ向かわれましたよ」
「そ、そうか!」
先ほどまで暗かった刃兵衛の声が、急に明るくなった。
「今日はご自分からお帰りになられたか!」
刃兵衛は大きく頷いて身を翻すと、天降城に向かって駆けていった。あっという間に走り去っていった刃兵衛を見送り、
お福や客たちが安堵の息を漏らす。
「ふー……。お鈴ちゃん、もう大丈夫よ」
「ありがとう、助かったよぉ〜。でも、お店の娘のふりをすれば、ごまかせたと思うんだけどなあ」
「あはは……、そうかな」
「あれ? そう言えば、なんでアタシがじいに追われてるって分かったの?」
「え!?」
「……ま、いっか。これでゆっくり桜餅が食べられるしね♪」
「あ! 待って、もう一度中に!」
「へ?」
上機嫌で桜餅の元へ戻ろうとした鈴姫を、まだ外にいたお福が手で止めた。よく分からないまま、言われたとおりに引っ込むと、
そこには城へ帰ったはずの刃兵衛が立っていた。
「いや、きちんと礼をするのを忘れておった」
鈴姫が自分から帰ったと思っている刃兵衛は、普段からは想像できないくらいの笑顔を浮かべている。
「ま、まあ……。お気になさらないでください」
「協力に感謝する。ええと……」
「ほんとうに結構ですよ。今日はお急ぎのご様子ですけれど、また、お団子でも食べに来てください」
言いながら懐に手を伸ばすのを、お福が笑顔でやんわりと制止した。
「そうか、分かった。それと、すまぬが水を一杯もらえるか。薬を飲まねば」
「はい、お待ちくださいね。……わ!」
薬と聞いて、心配になった鈴姫が奥から顔を覗かせていて、お福が驚いて小さく悲鳴をあげた。
それに釣られて、刃兵衛がそちらを見る。
「ん? はて、今、金の髪が見えたような……」
「う……馬でございます! 近所に頼まれていて、今日だけ子馬を預かっているのです」
「ええ!? ひ、ひひぃーーん!」
「ほら、馬でございましょう」
「……ふむ、変わった鳴き声の馬じゃのう」
馬の物真似をする鈴姫の脇をすり抜けて、お福が刃兵衛の元に水を運ぶ。
「さ、お探しの方がお待ちでございましょう」
「そうじゃのう。急ぐとするか」
「またどうぞ」
お福に見送られ、またも全速力で刃兵衛は去っていった。
「ふう……。今度こそ大丈夫みたいだよ、お鈴ちゃん」
「はーー! もう、すっごく焦った〜」
「私だってびっくりしたよ。ちゃんと隠れていないんだもの」
「う、だって薬って言うからどこか悪いのかなって」
「……間違いなく、胃だと思うわ」
「ならいっか! それなら、大したことなさそうだし」
席に戻った鈴姫は、これっぽっちも悪気のない笑顔で、今度こそ2つめの桜餅を頬張った。
「ん〜、最高」
「気の毒だから早めに帰ってあげてね」
「もごもご、今なんて?」
「……ううん、なんでもないの」
天降藩の武神が心労で倒れる日も近い、かもしれない―――。