最終章 もう一度会えるまで

鈴姫がお忍び先で悪いものを食べてきたらしいとか、剣術の練習をしていた時に頭を打ったに違いないとか、

そんなけったいな噂が場内に流れ始めたのは、10日ほど前のことだった。

 いつもなら、侍女たちが代わる代わる起こしても布団にしがみついたままの鈴姫が、起床時間には起きていた事から始まり、

3日に一度受ければいい方だった稽古事も、毎日すべてこなすようになった。更には、悪化するだけでもう治らないと思われていた脱走癖も、

この数日間は影を潜めている。

 これまでの鈴姫の行いから考えると、今の鈴姫はまるで別人だとしか思えず、ついには不安になった侍女の一人がお目付け役の刃兵衛に相談するまでに至った。

 そして現在―――。

「ほ、本日もご機嫌麗しゅう……」

「…………どうしたの、いきなり」

 ぎこちない動きで一礼をし、刃兵衛が鈴姫の顔を覗き込んだ。その額には、じんわりと汗が浮いている。

「こ、このところ、姫がお稽古をきちんとこなしていると聴きましたぞ。いや、結構結構……」

「ええ。勉強もしてみると案外楽しいわね」

「その……、急な心境の変化があったようですが、いったい……ええと」

 冷や汗をかきながら、顔色をうかがう刃兵衛に、鈴姫はにっこりと微笑み返した。

「いろいろな知識を身につけてみたくなっただけよ。みんなが心配してるような、食あたりとか頭打ったとか取り憑かれたとか、

そんなんじゃないから安心して」

「さ、さようでございますか! ももももちろん、わしもそう思っておりましたぞ。あ! では、明日からはお稽古の時間をもう少し延ばすようにしましょうか!」

「ええと、そこまではいいかな……」

 一点、目をきらきらと輝かせながら言った刃兵衛に、今度は苦笑いしながら鈴姫が返した。

「そうですか……」

「もういいかしら? アタシ、これからちょっと……」

「おお、これは失礼いたしました。では、わしはこれで下がらせていただきます」
 
 刃兵衛が深々と礼をして、部屋を出て行く。

「………………ん?」

 刃兵衛を見送ろうと出入り口の近くまで来たとき、廊下に刃兵衛以外の気配を感じ、鈴姫は体を伸ばして気配の正体を探した。

「…………父上まで見に来てたのね、もう」

 角を曲がっていった豪奢な袴に、鈴姫は小さくため息をつく。

 刃兵衛もそれに気づき、どたどたと大きな足音を立てながら、そちらに駆けていった。

 二人が完全に見えなくなったのを確認すると、鈴姫は襖を閉め、ゆっくりと着物を脱ぎ始めた。



「ん〜、やっぱこの賑やかな空気、いいなぁ」

 いつも通り、町娘になったつもりの変装に身を包み、鈴姫は大きく深呼吸を繰り返した。

 10日以上前を空けてやってきた城下町は、なんだかいつもより新鮮に感じる。

「さて、と……」

 呟くと、鈴姫は早足で歩き出す。

「あんまり、時間がないかな」

 今日は大好きな桜餅も諦めて、茶屋にもよらずにおこうと思ったのだが、向こうから見慣れた少女が歩いてくるのが見えて、

鈴姫は立ち止まった。

「あ! お鈴ちゃん! ちょっと、ひさしぶり」

「こんにちは、お福ちゃん」

 店の使いの帰りだろうか、大きな風呂敷を抱えながら、行きつけの茶屋の娘であるお福は、ひらひらと指先だけで手を振った。

「どうしたの? なんか、いつもと雰囲気違うよ」

「うん、ちょっとね。…………しばらく、会えなくなるかもしれなくて」

「…………そっか、寂しくなるなぁ」

 悲しそうに微笑みながらも、お福はそれ以上深く聞いてこようとしなかった。

「でも、絶対帰ってくるから、……ここに」

「うん。分かった。元気でね」

「……………………お福ちゃんも」

 鈴姫が別れを惜しむようにお福を抱きしめると、お福も荷物を地面に下ろして、抱き返してくれた。

「今まで、ありがとね。じゃあ……アタシ行かなきゃいけないところがあるから」

「うん。また桜餅食べに来てね」

 名残惜しかったが、鈴姫はまた早足で町を歩き出した。町の外れ―――猛千代のところで聞かなければならないことがあるのだ。



「猛千代! 入るわよ」
 
 返事も待たず、鈴姫はボロ屋の戸を思い切り引いた。

「おいおい……。つっかえ棒置いてたら折れてたぞ、今の勢い」 

「あ、ごめん。ちょっと急いでたから」

 驚いた顔の猛千代は、ちょうど木刀の手入れをしている最中だったようで、手に木刀と布を握っていた。

「なんか用か」

「うん……」

 木刀を磨きながら聞いた猛千代のそばに座り、鈴姫は硬い声で答えた。

「ちょっと、教えてほしいことがあって」

「なんだよ、そんな改まって」

「旅の時に必要な物ってなに……?」

「…………はぁ?」

「あ、そんなに深刻な質問じゃないのよ。……ほら、最近、アタシ毎日ちゃんとお稽古しててね。だから、息が詰まっちゃうって言うか。

想像の中だけでも旅がしたいなー……なんて」

 早口でまくし立てると、猛千代は眉を寄せながら小首をかしげた。

「なんか変じゃないか、お前」

「そそそそんなことないわよ。ちょっと疲れてるだけだって」

「……まあ、いいけどよ。ちょっと待ってろ」

 木刀をかざして仕上がりを確かめた猛千代は、それを刀掛に置いて部屋の奥に行った。

 ほどなくして戻ってきた猛千代の手には行李がのっている。

「んじゃ、まずは、旅道具の説明な」

「うんうん」

 蓋が開けられ、順番に並べられていく見慣れない物を、鈴姫は興味深そうに身を乗り出して眺める。

「これがまず、矢立な。……まあ、鈴は使わないかもしれないけど、携帯用の筆と墨だ」

「ふんふん」

「……ええと、んで、これが火を起こす道具な。火打ち石、火打ち金、火口、付け木」

 からかったつもりが、あっさりと流されて拍子抜けしながら続ける。

「使い方は、こうやって……。二つをぶつけてこっちの火口に火花を飛ばすんだ。んで……ふー、ふー……」

「あ、赤くなった」

「こうなったら、この付け木に火を移して……」

「あ! 火がついた」

「まあ、今は要らないから消すけどな」

 小さく燃え上がった紙を、猛千代は囲炉裏の灰に放った。

 続けて雨具に提灯、風呂敷、縄ひも、糸、扇子などが並べられ、猛千代は一つ一つ丁寧に説明をしてくれた。

 そして、その次に猛千代が見せたのは、反った木の板が二つ組み合わされた物で、鈴姫にはそれが何なのか想像もつかなかった。

 折りたたみ式のもので、どうやら使うときには広げるだけでよさそうだ。

「これは?」

「これは、枕だよ。」

「…………寝心地悪そうな枕ね」

「道中持って歩くんだから、快適さを求めても仕方ないだろ」

「ん……、まあ、それもそうね。あ、こっちの二つはなに?」

「薬入れと折りたたみの燭台だな」

「へえ……、色々便利なのね」

 鈴姫は一つ一つを手にとって、どういう仕組みになっているのか、カチャカチャと動かしながら観察している。

 その様子を眺めながら、猛千代は呟くような声で聞いた。

「……なあ、鈴。やっぱりお前なんか変じゃないか?」

「そんなこと、ないわよ」

「この間、船の話をしてからじゃないか。様子が変わったの……」

「あ! いけない。もう日が暮れちゃう。早く戻らなきゃ」

 猛千代の声が聞こえなかったかのように、鈴姫は窓の外を見ながら大声で言った。
 
 戸に手をかけながら、背中越しに振り返る。

「ありがと、猛千代。…………またね」

「お、おい……鈴」

 そのまま、来たときと同じような勢いで戸を開け、鈴姫は飛び出していった。
 
 猛千代はその背を見送るだけで、追おうとはしない。

「……ったく、なんだってんだよ」

 足下にあった小さな石を蹴飛ばし、鈴姫の開け放していった戸の中に消える。

「………………ふう……。みんな鋭いなぁ……」

 木陰に隠れて様子を伺っていた鈴姫は、猛千代の姿が見えなくなったのに安心して、安堵の息を漏らした。

「と、ホントに早く帰らなきゃ……」

 赤く染まった空を見上げながら、鈴姫は歩き始めた。

 これからの旅は、きっと短くも易しくもないだろう。

 けれど、今日は、今夜は暖かな時間を過ごそう。

 すぐそこに待つ、旅立ちの日のために―――。


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