北天に異変の起きた夜から、遡ること八日前。

神闘士の一人、ベネトナーシュのミーメはその腕に竪琴を抱え、ある山村への道を踏みしめていた。

ふと空を見上げる。

黒く厚い雲の隙間から差し込んでいる、幾筋かのか細い陽光。

寂しげな目が光を見つめた。

遠くの空を飛ぶ鳥の声が聞こえてくる。



オーディーンより遣わされたという子供の力で再びこの世界に舞い戻ったものの、何をすればいいのかわからない。

果たして自分はもう一度、やり直すことが許されるのか。

心の中から迷いは去らなかった。

先日初めて向き合って話した"先代の"代行者……北極星ポラリスのヒルダはミーメに言った。

私が至らなかったばかりに、このアスガルドの大地も傷つき、人々の生活にも悪い影響が出てしまいました。

どうかあなたの竪琴の音色で、アスガルドの人々を慰めてくださいと。


ヒルダと話したのはその時のみである。

その後彼女はワルハラ宮を去り、さる館に一人籠もる生活に入った。

ヒルダが地上代行者として最後に北斗七星の神闘士たちに与えた命は、

新たな代行者となった子供……神闘士たちを復活させた小さき巫女、ヴォルヴァを護る事。

近いうちにミーメもワルハラ宮へと向かい、他の神闘士たちと交代で彼女の身辺警護に当たることになっていたのだが

まだ心底からは、その使命に意義を見出せないでいた。




山村に入ったミーメはすぐに、見覚えのある姿を認めた。

弓矢と大きな戦斧を携えた大男。

長身揃いの神闘士たちの中にあっても、すぐ目に留まっていた姿である。

ガンマ星フェクダのトール。

……この村は、同じ神闘士である彼の故郷だったのか。

トールもすぐにミーメを認め、にこりと気さくな笑みを浮かべた。

「久しぶりだな。元気にしていたか」

「……」

「今日は慰問に来てくれたんだったな。皆楽しみに待ってたぞ。村長の家まで案内しようか?」

「……頼む」

ミーメはトールの後について歩き出す。



案内された家で村長に挨拶した後、ミーメは村人の集まった広場で曲を奏でた。

そして村長の家でのもてなしを辞退し、暇を告げた。

村の出口に向かっていたミーメは、再び知った顔にぶつかる。

「帰るのか? これから夕食なんだが、良かったら食っていかないか」

朝見かけた装備に加え、鹿を背負ってそう言ったトールには同行者がいた。

彼を見たミーメは少し目を見張る。

イプシロン星アリオトのフェンリル。

同じく神闘士だが、人を毛嫌いし狼とのみ行動を共にしている少年。

あの戦いの折、ワルハラ宮に居た時は、彼の声を一度も聞いた覚えがなかった。

少し吊り上がった琥珀色の瞳は、いつも冷たい拒絶に満ちていた。

そのフェンリルが何故、単身でトールと一緒にいるのだろう。

彼も弓と槍を持ち鳥を下げているので、どうやら共に狩りをしてきたようだが。

フェンリルはミーメを見はしたが、無言のままふいと目を逸らした。



早く一人になりたいという気持ちはないでもなかったが、結局ミーメはトールの勧めに従うことにした。

ほんの少しではあるが、人を拒絶していたフェンリルが何故トールと行動を共にしているのか、

という点に興味が沸いたのは確かだった。




そしてトールの住む小屋で二日を過ごしたミーメは、フェンリルが幼い時に両親を亡くし、

以後十年近い歳月を彼がギングと呼ぶ狼が率いる群れと共に生きてきたらしい、ということを知った。

そのギングは今、何故かフェンリルの側にいないのだが。

成長期を人間と過ごさなかったためか、やはりフェンリルは人としての暮らしや習慣などが身についていないようだった。

食事のテーブルで手づかみで口に料理を放り込もうとするフェンリルに対して、

トールは食器やナイフ、フォークを使わせようとしていた。

しかしなかなか馴染めず睨みつけてくるフェンリルに微苦笑を返した後、

テーブルにはフラットブレッドに野菜に肉や魚を乗せた料理が並ぶこととなった。



二日目の夜、食事が終わった後。

「ミーメ」

トールが声をかけてきた。

「ひとつ、頼みがあるんだが。お前が琴を奏でてくれた寄り合いに来られなかった奴がいてな。

もしよかったら、家に行って竪琴を聞かせてやってくれないか?」

「……構わないが」

「そうか。ありがとう。きっと喜ぶと思うぞ」

そう言って大男はにっこりと笑う。

このトールという男は本当に、よく笑みを見せている。

この長閑な村で、これまでごく普通に、幸せに暮らしてこれたのだろう。心に何のわだかまりも持たず。

ミーメはそう思った。





翌日。

トールとフェンリルは先日と同じように狩りに出かけ、ミーメは独り残り、庭先で竪琴を奏でていた。

いつも奏でている、この村でも披露した曲は美しいながらも悲しい旋律で、

聴衆となった村人たちの中には涙したものが何人もいた。

その様子を思い出し、ミーメは考える。

(新しく曲を作った方がいいか?)

ふと、思い出す。

子供だった頃、父との本格的な修行が始まる前は、毎日のように考えていたことだった。

そして父と別れた後は――

すっかり脳裏にも浮かばなくなっていた。

(……一度、試してみてもいいか……。)

指で弦を弾く。

高く繊細な、美しい音が響いた。

音が一つ一つ、こぼれ出て繋がっていく。



日暮れ近くにトールとフェンリルが帰宅した。

「留守を預かってもらって、すまなかったな」

ミーメに詫びたトールは、いつものように食事の支度を始める。

夕食の後。

二人に明確な変化が生じた事に、ミーメは気づいた。

フェンリルはその夜も、一言も口をきこうとはしなかったが

夕食を終えて暖炉の前に腰を下ろし、狩りの道具の修繕を始めたトールの隣に座り込む。

そしてトールの大きなその手に、自分の手を重ねていた。



そうしながらトールを見ようともせず、じっと暖炉の火を見つめているフェンリルと、

フェンリルを見ているトールの顔に浮かんでいる、優しい微笑。

繋がれた手が、言葉よりも多くのものを語っているとミーメは思った。

何かあったのだろうか。

あったのかもしれない。しかし自分が気に掛ける必要もないだろう、とも。

ミーメは琴を爪弾き、新しい曲作りに専念する。

パチ、パチと暖炉の火が爆ぜる音と、琴の音色が交じり合う。

ミーメはトールを見て言った。

「邪魔かな」

トールはふっと笑った。

「気にするな。俺はもう少し聞いていたい」

フェンリルが手を放し、トールの大きな身体にもたれかかる。

相変わらず無言で、暖炉の火を見つめながら。

琥珀色の大きな瞳に、炎が映っている。

手が自由になったトールは、矢尻の修繕に取り掛かった。

「……新しい曲を作っている」

ミーメはぽつりと言った。

「君の知人が初めて聞くことになるだろう」

「そうか。あいつは運のいい奴だ」

そう返して、トールはまた微笑んだ。




そうしてさらに五日経ち、ミーメがトールの小屋に来てから合わせて七日が過ぎた。

曲は完成に近づいてきた。

その日、トールは朝から近くの町に買い出しに出ていた。

人が苦手なフェンリルは彼について行かずに、近くの森に出かけたようだ。

ひとり軒先で椅子に掛け、曲の調整をしていたミーメはふと気づく。

いつの間にか戻って来たらしいフェンリルが、ミーメを見ている。

しかし動く様子も、話しかけてくる様子もない。

少し気になっていること……何故人を避ける君がトールの家にいるんだ? を聞き出す絶好の機会かもしれなかったが

彼の方から話しかけてこないのならば、無理に話しかけることもないだろう。

そう思い、ミーメは再び曲の調整に意識を向けた。




日が落ち、二人は小屋に戻る。

トールはまだ戻ってこなかった。

七日目にして初めてのことだった。

少し気にならないでもなかったが行くあてを知っているわけでもなし、とミーメは曲の仕上げに入っていた。

外は少々吹雪き出したようである。

暖炉の前で座り込んでいたフェンリルが、ふとミーメを振り向く。

「あんた」

低い声でフェンリルが言った。

「どう思ってる」

初めてミーメに対して発せられた言葉だった。

「どう、とは」

手を止め、ミーメは問い返す。

「あの方」

フェンリルは口を噤み、しばらくしてぽつりと言った。

「……ヒルダ様のことを」

しばしの間沈黙が流れ、暖炉で火が爆ぜる音だけが響いた。

「別にどう、とも。あの方のことはよく知らないのでね。判断のしようがない」

フェンリルは冷めた目で、そう答えたミーメを見ていた。

「私もひとつ聞いていいか」

ミーメはフェンリルに言った。

「君は人と関わるのが好きではないらしいね。何故トールと一緒にいるんだ?」

また二人の間に沈黙が流れる。

「……昔」

フェンリルが呟く。

「昔あいつは、一度俺に会ったことがある、らしい」

昔という言い方からすると、それは神闘士に選ばれ招集がかけられる以前の出来事であり、

らしい、という言葉が出るのは本人がよく覚えていないということか?

ミーメはそう推察したが、フェンリルはそれきり口をきかなかった。
 



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