翌朝。

陽が昇ってすぐに、ミーメはトールに暇を告げた。

雪は止み、周囲に見える樹々が少し白い冠を被っている。

トールは小屋の外に出て、ミーメを見送る。

「他の村へ慰問へ向かうのか?」

「そのつもりだが、じきにワルハラ宮に行くことになるだろう。ヴォルヴァ様の警護がある」

「俺も次の月に警護に就く予定だ。ところでひとつ頼んでもいいか、ミーメ」

ミーメはトールを見上げる。

「気が向いたら、またいつでも竪琴を奏でに来てくれないか? 村の連中も嬉しいだろうし、俺も聞きたいと思ってるんだ」

にこりと、優しい笑みがその髭に囲まれた顔に浮かぶ。

「あんたの曲はとても綺麗だから」

「……そうか。では、また」

呟くように挨拶し、ミーメはトールの家を去った。


村の出口まで来て振り向くと、遠くからもよく見える背丈のトールはまだそこにいて手を振っていた。

優しく明るい笑顔も、まだ目の前に見えているようだった。

ミーメは再び歩き出し、心の中で今一度、トールにもらった言葉を繰り返す。

(とても綺麗だから……また聞かせてほしい、か……)

何の衒いもない、素朴で優しい言葉。

そういったものと触れ合うことなく、これまで過ごしてきた。

こんな気持ちになるのも、そう悪い事ではないかもしれないと、

ミーメは思っていた。



村を出てしばらく森の中を歩き、ミーメは小さな池の側を通り掛かった。

ふと、子供の頃家を抜け出しては竪琴の練習をしていた、白樺の森の中にあった池を思い出す。

腰を掛けるに良さそうな岩を見つけたミーメは、新しい曲をここで奏でてみることにした。

最初にトールが望んでいたように、スルーズという少女に聞かせることはできなかったが

いつかその機会が訪れるかもしれない。


岩の上でいつしか演奏に熱中していたミーメの、弦を弾く指がふと止まった。

何者かが慌ててこちらに駆けてくる気配を感じ取ったためだ。

そして彼は、昨夜初めて会った大柄な若者がどたどたと駆けてくる姿を見た。

「あ! ミーメさん!」

ミーメを認めて、スタルカドが声を上げる。

「あのさ、女の子見かけなかった?」

息せき切って、スタルカドはミーメの前までやって来た。

「えーと、金髪碧眼! 背丈はごく普通! これじゃわかりようねぇかな……とにかくどっかで見なかったか?」

「……生憎と見ていないが」

「今朝、っていうか多分ゆうべ、スルーズの奴が家から消えちまった!」

スタルカドはそう怒鳴った。

「最近は起きてる時間も長くなったって話だったけど、殆ど動けねー父親を置いていくような奴じゃないし、

何かあったんじゃないかって。

あ、そういやトールは? 知らせに行こうと思ったけどまだ会ってないや、俺。ミーメさん会ってないか!?」

早口にまくしたてるスタルカドの目の前にシュッと何かが突き出され、彼の動きが止まる。

「落ち着き給え」

ミーメがゆっくりと言った。

巨体の若者の顔面の真ん前に、先程まで掛けていた岩の上に立ち上がったミーメの掌が翳されている。

スタルカドは目を瞬き、

「あ、ハイ」

間抜けな声を出す。

「つい先ほど彼の家で別れたばかりだが。まだいるのではないか?」

「そっか、わかった!」

叫ぶと同時にスタルカドはミーメに背を向け、今来た方向へ向かってまたどたどたと駆け出して行った。




スタルカドが着いた時にはトールの姿は彼の小屋になく、フェンリルの姿もなかった。

そしてその夜。

トールは戻ってこなかった。

「よくあることなのか」

椅子に腰掛けたミーメが、小屋の中を右往左往しているスタルカドに訪ねる。

気になって村に戻ってきたが、スタルカドからトールもいなくなったと聞かされたのだった。

「いいや……トールは遠出するとき必ず誰かに告げていく。

腕がいいから、手に負えない熊とか猪なんかに悩まされてる村の連中が、あいつに狩りを頼みに来ることがちょくちょくあるんだ。

それなら誰も知らないなんてありえねぇ」

不安を漲らせた表情でスタルカドは答えた。

「何かが起こったことは間違いない、か」

ミーメは呟き、若者に顔を向ける。

「馬を借りれるだろうか」

「う、馬?」

スタルカドが瞬く。

「ワルハラ宮に報告に行こうと思う。どうやら只事ではないようだからね」

「わかった。すぐ調達するよ」

スタルカドは踵を返し、扉を押し開け飛び出していった。




この半日ほど前。ミーメがトールと別れた直後のことである。

ミーメを見送ったトールは小屋の中に入り、何か探し物をしていた。

座り込んでいるフェンリルがその様子を見ている。

やがて、目当てのものを探し出したトールはフェンリルを振り向いた。

「俺は今からヒルダ様の所へ行く」

その言葉に、フェンリルは目を丸くして瞬く。

「お前はどうする? 俺と一緒に来るか」

トールを凝視していたフェンリルは、彼の顔からその大きな手に摘ままれている紙きれに目を移した。

「ああ、これか? 何日か前にヴォルヴァ様の鳥が持ってきた。あの鳥は隼に見えるが、伝書鳩の代わりにもなるのかと思ったよ」

トールはフェンリルに笑いかける。



アスガルドにおいて、オーディーンの地上代行者とは世襲制ではない。

ある時は、玉座に着く地上代行者に対しオーディーンより新たな代行者の出現を告げる啓示が降り、

またある時は、村か町に神懸りとなった娘が現れ、先代代行者の御前に連れて来られて後に承認される。

これまでワルハラ宮に召された新たな代行者となる少女は一部の例外を除き、それまでの名を捨てヒルダと呼ばれる慣わしだった。

ヒルダは元来、"戦"を意味する言葉から派生し、オーディーンの娘の名とも、

またオーディーンと関連の深い女神の名とも言われ諸説あるのだが、由来は定かではない。

復活の奇跡を為したことで認められ、北極星のヒルダに代わってワルハラ宮の玉座に掛けた新たな代行者。

年の頃7つから9つほどと推察されるその少女は小さき巫女・ヴォルヴァと呼ばれ、ヒルダの名を継いではいない。

その理由は、彼女が現れた時からまるで抱き抱えるように持っていた、少し短めの黄金の槍にあった。

黄金の槍はヒルダによって神の武器・神器である事が保証され、またワルハラ宮に代々仕える式部官によって、

伝説の槍ゲイラヴォルであろうと推測された。

アスガルドに伝わる伝説によれば、その槍、ゲイラヴォルはオーディーンによってグルヴェイグという巫女に与えられたものだという。

よって新たな代行者は、巫女を意味する言葉から派生した名であるヴォルヴァと呼ばれることが決定されたのである。



また彼女は槍を手にして姿を現した時から肩に白い猛禽を止まらせ、傍らに長毛の猫を寄り添わせていた。

鳥の名はソグンと呼ばれ、猫はフリフ・トリーグルと呼ばれている。

鳥と猫は共にヴォルヴァから離れようとはせず……そして猫は鳥を獲物と意識することすらなく……自然と、

玉座の傍らに常に侍っている状態となっていた。




その新代行者の鳥ソグンが、数日前トールの家に飛来し、一枚の紙きれを残していった。

まるでトールの心を見透かしたかのように。

その紙きれには、ある屋敷への道順が記されていた。

現在、神闘士たちがその屋敷の主によって立ち入りを禁じられている場所である。



オーディーンの意思か、代行者となった少女の意思かはわからなかったが、

その時トールはソグンが飛び去って行ったワルハラ宮の方向へ一礼した。




トールを見ていたフェンリルは、ふと視線を逸らす。

「ギングの所に戻る」

そうぽつりと呟く。

「もうすぐギングの番いに子どもが産まれるんだ」

「そうか……」

フェンリルと狼たち……かつての群れはリーダーだったギング一頭しか残っていないが……の塒(ねぐら)は

彼の生家フェンリル家の跡地、ということは聞いていた。

ギングとその身篭った番いがいるのもそこだろう。

「しっかり世話してやれよ。それとよかったら、またいつでも訪ねて来てくれ」

フェンリルは黙ったまま、トールの顔を見上げる。

「お前と狩りをしていると楽しくてな」

大男の顔に、明るい笑みが浮かんでいた。

じっと見ていたフェンリルは、ふっと目を逸らし、立ち上がるとそのまま一目散に小屋から出ていった。

「待っているからな!」

その声を背に受けても、フェンリルは振り向く事無く駆ける。

だがその胸の中に、

長らく忘れていた暖かな光が、仄かに灯っていた。




こうして二人の仲間と別れ、前代行者のヒルダが一人蟄居する屋敷へ向かったトールは、そのまま姿を消すこととなったのである。
 




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