前地上代行者であり、今は隠棲の身であるヒルダは屋敷の小さな庭に出て、外の景色を眺めていた。 ふと門前に目を向けた彼女は、思いもかけぬ姿を認める。 何故か初めて彼と会った時の光景が、稲妻のように甦った。 禁猟区である、神聖なるワルハラ宮の森グラシル。 雪の舞っていた森で、大木を背に立ち、馬上の彼女を見つめていた大きな姿が。 雪の止んだ朝の、今この瞬間と重なったのだった。 「トール……」 七人の神闘士の一人、随一の大男であるフェクダのトールは門を潜り、ヒルダの前に跪いた。 「お久しぶりです、ヒルダ様」 言葉と共に頭を垂れる。 跪いてなお、立っているヒルダを少し凌ぐほどの大きさであった。 しばし沈黙が流れ、鳥の声だけが時折聞こえてくる。 ヒルダは言った。 「ここへ立ち入ってはならないと、申し渡したはずです」 「はっ。お聞きしております」 「ならばすぐに去りなさい。神闘士の使命はオーディーンの地上代行者を守り、アスガルドを守ること。 代行者でないものに、神闘士が関わる必要はありません」 「ご命令は重々承知しています。ですが貴女自身を不幸にするならば俺は……いや、私は従えません」 「え……」 小さく声を漏らし、ヒルダの瞳が瞬く。 「フレア様含め誰も近寄るなと……私には、それで貴女が満足されているようには思えない。 ご自分を罰する、そういうおつもりなのではありませんか」 ヒルダは答えなかった。 沈黙と朝の静謐な空気だけが流れる。 やがて、彼女が口を開いた。 「すぐに去りなさい」 ヒルダのものとも思えない冷たさと非難を含んだ声。 「神闘士の使命を果たそうともしないあなたに押しかけて来られるなど、迷惑です」 そしてトールに背を向ける。 トールは彼女の後姿を見ていた。 毅然としているように見えて、その肩は細かく震えていた。 トールの深い緑の瞳が、哀し気な光を宿したが。 「……お気持ちも考えず、差し出がましい真似をしました。お許しください。ですがヒルダ様」 静かな声が、また彼女に呼びかけた。 ヒルダは振り向く。 「このまま貴女がご自身を孤独や不幸に置く事が、解決や償いではないはずです。決して」 まっすぐに、トールはヒルダを見つめていた。 「フレア様もジークフリートたちも、皆貴女を案じています。どうか安心させてやってください」 ヒルダはトールを見つめ返したまま、一言も発さなかった。 「では……」 暇(いとま)を告げようとして、ヒルダの瞳に浮かんだ驚愕に気付く。 すぐさま振り向き、トールは目を見張る。 門の向こうの木立の手前、トールが歩いてきた道を塞ぐように立つ者たちがいた。 見たこともない鎧の上に毛皮の外套を纏い、頭巾で顔を隠した三人。 先頭は若い男。背後に立つ2人はそれぞれ、年若い少年と少女のようだった。 胸の部分には、見たこともない紋章が彫られたブローチ。 彼らの腰にはそれぞれ、剣や短剣、二対の短槍と認められる武器が携えられている。 門内へと進んできた彼らのうち、剣を腰に下げた先頭の男が、一歩前に進み出て一礼した。 「お迎えに参りました」 ヒルダの前に、大きく長い腕が差し伸べられた。 身体ごとヒルダの盾にするつもりで彼女の前に立ち、トールは彼らを睨みつける。 気配も小宇宙も、全く感じさせなかった。神闘士であるトールにも、オーディーンの地上代行者であったヒルダにも。 この者達は一体。 突如轟音が響き渡り、トールとヒルダ、三人の侵入者の間の地面が大きく抉れる。 そこから何か巨大なものが突き出て、ぐねぐねとうねり始めた。 それは複数の巨大な木の根だった。まるで大蛇のように蠢いている。 土煙からヒルダを庇いながらトールは呟いた。 「これは一体……」 木の根の蠢く不気味な音、ぱらぱらと土塊が降り注ぐ音。それらに交じって聞こえてきた音がある。 馬の蹄と、引かれる馬車の音だった。 門から躍り込んできた馬車は真っ直ぐにヒルダとトールを目指し、二人の前で止まった。 御者席で、二人の知る男が手綱を握っていた。 「すぐ乗れ!」 私服姿の、デルタ星メグレスの神闘士アルベリッヒが二人に怒鳴る。 彼を認めたトールの目に怒りが燃え、小宇宙が沸き立った。 神闘士でありながら、ヒルダを裏切り害そうと企んでいた男。 アルベリッヒは続けて怒鳴った。 「早くしないか! 愚図愚図してはそいつが死ぬ羽目になるぞ。 何故なら奴らは北極星を狙う星々、目的はヒルダの首級を揚げることだ!」 その言葉に、トールは目を見張った。 「ヒルダ様」 彼女を促し、馬車に歩み寄ると取っ手を掴み扉を開ける。 |