その部屋はある程度の広さを持ち、奥にベッドが設えられていた。

アルベリッヒが去った扉を見ていたトールは、目を逸らすと暖炉に近づき、そこで火を熾す。

暖炉が炎で明るく照らされたのを確認し、戻る際に椅子を手に取り、ヒルダの真後ろに置く。

腰を掛けたヒルダの前に、トールは跪いた。

「ヒルダ様。先ほどのアルベリッヒの話、信用できるとお思いですか」

「鎧をまとった戦士たちが現れ、同時に北曜星に異変が起きたのは事実です。前例のないことではありますが……」

「しかし、奴が真実のみを語っているかどうか。それに己の過ちを悔いてヒルダ様を救おうとしているのならばともかく、

俺の目には全くそうは見えません」

トールの言葉に、ヒルダは真摯な面持ちで頷く。

「ええ。残念ながら彼は自分のためにしか動かない人です。何かを隠していることは間違いないでしょう」

「何を企んでいるのか、奴を痛めつけて吐かせますか」

言葉と共に拳を握り、立ち上がろうとするが、

「トール!」

叱咤の声にはっと気付く。

「はっ。申し訳ありません」

背筋を伸ばし、頭を下げる。主君に不快な思いをさせたことを悔いたトールにかけられる、強い調子の言葉。

「あなたは、もう二度とそんなことをしてはなりません」

顔を上げると彼女は椅子から立ち上がり、真っ直ぐにトールを見据えていた。



その目に満ちた厳しい光の中に見える悲しみに触れ、

「……はっ」

胸を打たれたトールは、ただ畏まり目を伏せた。

あの異変の折。

"ヒルダでありながらヒルダでないもの"の命により、その拳で他人を痛めつけたことが、今彼女の心を傷つけている。




「……アルベリッヒは、私たちの前に現れる先にも罪を犯しています」

再び椅子に掛けたヒルダが幾分沈んだ声で言い、トールは彼女を見る。

「神闘衣修復の技術を受け継ぐ沈黙の一族の長、グリーズが彼に傷つけられたそうです。

幸い命に別状はないとのことでしたが……」

「噂は俺も、いや私も聞きました。その時点でやはり、奴は信用に値しません」

アルベリッヒを信頼する事は危険。

そしてアルベリッヒ家の別邸というこの館は現在、謎の戦士達に包囲されている。

フェクダの神闘衣は、他の神闘衣と共に現在ワルハラ宮にありトールの身を護らず、ミョルニルハンマーも持っていない。

正に身一つの状態では厳しいのは事実。だが何に変えても、ヒルダを守らなくてはならない。

そのために、しなければならないことの一つ。

「ヒルダ様」

トールは再び彼女の前に跪き、口を開く。

「俺は……私は何も知りませんでした。仲間と思った他の神闘士たちの事も、貴女の身に起こった事も。

そもそもワルハラ宮の事も。何も知らず、知ろうとすらせず、ヒルダ様の苦難を見過ごしていた。本当に愚かでした」

僅かに俯いたトールは、拳を固く握りしめている。

その様子を見ていたヒルダは、首を振り静かに言った。

「あなたには、何も責任は……」

いいえ。

その言葉が思いやりからであることはわかっていても、内心でトールは否定していた。

何も知らぬままヒルダのためと妄信し、真実への糸口を掴んでいたのに正しい選択をせず、進むべき道に背いたのだ。

その結果、真に彼女を守るのとは逆の事を為し、その心に傷を残した。

この方を守ることができなかった。

今でも悔しさに心が焼け、己の愚かさに対し憤怒が心に満ちる。

彼女のためと信じて己が為したことは、ただ彼女を苦しめるだけの結果に終わった。

再び世に舞い戻ることが出来た今、固く決意していること。

もう二度と繰り返さない。その過ちだけは。

そのためには知らなくてはならない。今まで知ろうとも思わなかったことも。

「奴のことを知らずには、対処することはできません。ですからお教えいただきたいのです、ヒルダ様」

トールは彼女の目を真っすぐに見た。

「メグレスのアルベリッヒ。奴が元々、ワルハラ宮でどういう地位にあったかを」

知る事によって見定める目を養い、確実に守るための力の礎とするのだと。

それが彼の決意であり、変化であった。




ヒルダは頷き、トールの目を見返し語り始める。

「アルベリッヒは、アルベリッヒ家19代目の当主。

アスガルドの貴族たちの中でも、シドの生家である国を守る要フルドゥストランディ家、

代々侍従長を務めるディートリッヒ家、そして宮廷祭司を務めるアルベリッヒ家。これらの三家は屈指の名門と呼ばれています」

神闘士に選ばれなければ、トールにとっては生涯知ることも関わることもない階級の者たちであっただろう。

「アルベリッヒ家は頭脳に優れた者を輩出し、当主は代々ワルハラ宮においてオーディーンを祀る宮廷祭司として、

そして有事の際には参謀として仕えてきました。

伝説によればアルベリッヒ家の始祖は、オーディーンら最古の三神に随い、

神々の住まう國・アースガルズの建国に関わったとされています。

故にアルベリッヒ家は、オーディーンの栄光を護持する人々を束ねる役割も同時に務めてきたのです」

「最古の三神……ですか」

微かに聞いたような記憶はあるが、トールにはよく思い出せない。

ヒルダが言葉を続けた。

「我らが神オーディーンは、神話の時代の暁に北欧の地を支配していた巨人族を倒し、

アースガルズを建国した際二柱の神を従えていたといいます。

名はヴェーとヴィリ。両神はアースガルズ建国後、それぞれ戦神テュールと光神ヘイムダル、と名を改めました。

そしてアースガルズの王となったオーディーンの側に常に仕え、その身を守護する随神となったのです。

この両随神とオーディーンは、最も古き原初の神々、という意味で最古の三神と呼ばれます」

「なるほど」

言葉を切り、思考を再びメグレスのアルベリッヒの生家である、アルベリッヒ家へと戻す。

神話の時代に起源を持つとされる。まさしくヒルダの語ったように、アスガルドでも屈指の名門のひとつということか。

「代々の当主の中でも、先ほどアルベリッヒが名を挙げたアルベリッヒ13世は殊に文武共に優れ、中興の祖と呼ばれました。

アスガルドにおいては稀なことでしたが、国外へと武者修行の旅に出て見聞を広め、

帰国後は神闘士候補生養成所・ヴァラスキャルヴの立ち上げに尽力したのです」

「ヴァラスキャルヴ……」

微かな呟きを受け、ヒルダは眼を上げ前に跪くトールを見た。




そこはアスガルドを統治するオーディーンの地上代行者と、

かつてワルハラ宮の森・グラシルで密猟をし捕らえられかけた狩人が"二度目に"巡り合った場所だった。




ヴァラスキャルヴはワルハラ宮城下市に存在する、神闘士候補生を養成する施設である。

一方近衛兵を専門に養成する施設はワルハラ宮に隣接し、ヴィーンゴルヴと呼ばれていた。

ジークフリート、ハーゲン、シドといった武官の家や名門貴族の出身者らはそこで修行を積み近衛兵となったのだが

ヴァラスキャルヴは民間人から戦士の素質を持つ者を集め、戦闘訓練を施す目的で設立されており、二百数十年の歴史を持っていた。

創設者アルベリッヒ13世は、武者修行で諸国を巡った際女神アテナを守る聖闘士と出会い、戦った事によって、

アスガルドでも広く戦士を見出し、育てる必要性を痛感したのだという。




「ヴァナヘイムとの戦が終結し、我がアスガルドとの和平が成立して数年が経ちました。

しかしそれ以来、アスガルドの若者たちの意識はすっかり堕落してしまったようでして」

施設の渡り廊下の先頭を歩みつつ、ヴァラスキャルヴの教官は、侍女のヘルムヴィーゲと護衛の近衛兵であるジークフリート、

シド、ハーゲンを随えたヒルダに語った。

「とにかく信念が足りんのです。何に代えても祖国を守ろうという気概を持つ者が実に少ない。

シグチュール(勝利を齎す神)たるオーディーンの膝元であるこの神聖なる地に生まれながら、実に嘆かわしい! ですが」

と教官は言葉を継ぐ。

「今年の訓練生に、ずば抜けて優秀な者がおります。体格もよく筋もなかなかのもの。

とはいえ、非凡な成績でヴィーンゴルヴの課程を修了した皆様方には、当然のことながらまるで及びませんが」

教官はジークフリートら三人を振り返り、さらに続ける。

「あの者は熱心さが段違いでしてな。ここ数年私が担当した者達の中でも群を抜いております。

奴ならば卒業試験も突破できると見ております」

ほぅ、とシドが小さく声を漏らした。

ワルハラ宮からはいくつかの山脈が臨まれるのだが、中でももっとも険しく、アスガルドの最高峰である火山・ロガフィエルに繋がっている

ヒミンビョルグ……天の山の意味である……で行われるヴァラスキャルヴ卒業試験は過酷な内容で、

この数年は合格者どころか受験者すらまともに出ていない、ということは近衛兵たちも聞いていた。

「まぁ、最初は驚かれるでしょう。熱意もですが、奴は体格も群を抜いておりますので」

渡り廊下の先に、訓練生たちが集まっている広場が見えてきた。



地上代行者の訪れを前に跪く訓練生たちの中から、正に突出した大きな身体があった。

ハーゲンが目を見張り、

「……本当に人間か?」

瞬きながら呟く。

「アスガルドでは稀に巨躯の者が生まれると言われるが……確かに群を抜いているな」とシド。

ヒルダはジークフリートと侍女ヘルムヴィーゲに目配せし、一人訓練生たちの方へと向かった。

ジークフリートはその場に留まり、ヒルダの後姿を見ている。

 




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