北天に異変の起こる数時間前。

ワルハラ宮の一室で、神闘士の束ねであるドゥベのジークフリートは、馬でやって来たベネトナーシュのミーメの訪問を受けた。

フェクダのトールが住む村で、村娘が一人行方不明となり、トールも姿を消したという。

ジークフリートは思った。

ヒルダ様に報告すべきではないか。

次の瞬間、内心で打ち消す。

報告すべきは現在の地上代行者なのだ。

「わかった。ヴォルヴァ様に指示を仰ぐ。お前はトールの村に戻り、二人の探索を指揮しろ」

「承知した」

ミーメは踵を返し去ろうとする。

「ヒルダ様は」

その背にジークフリートは声をかけた。

彼自身にとっても唐突な、意外な行動であった。

「四年前のあの事件の折、お前に会いたがっておられた」

ミーメの足が止まった。

「お前が捕らえられ、処罰を受ける前に、話がしたいとおっしゃっていた」

四年前の事件。

ミーメがその手で、養父である勇者フォルケルを殺害した事件。

親を殺害した重罪人となったミーメは捕らえられ、追放刑の処分を受けた。

追放とは、アスガルドの民としての法と掟の加護を失い、人の世界の外に放逐されるということを意味する。

法の加護が適応されないということはすなわち、誰に何をされようと、誰にも守られないということだ。

それ故にミーメは、神闘士と選ばれ恩赦を受けるまでは人を避け荒野に過ごし、

法の加護を失ったミーメを手に掛けようとする荒くれ者たちの襲撃を躱しながら生きなければならなくなった。

「だが侍従長はじめ、ワルハラ宮の貴族達は反対した」

自分でも、何故今この話をする必要があるのか、と思いつつジークフリートは続ける。

「神聖なるオーディーンの地上代行者が、親殺しという大罪を犯した不浄の者を身辺に近づければ、

オーディーンの名をも穢すことになると。

ヒルダ様はヴォルヴァ様に位を譲られるまで、お前と話すことが叶わなかったのだ」

ジークフリートが口を閉じ、沈黙だけがその場に流れた。

「……何故、そんな話を?」

しばらくの後、ミーメがそう聞いてくる。

「何故かな。ただこれまではお前と語る機会がなかった故に、今言わねばならぬ気がしたのみだ」

ジークフリートはそう答えた。

ミーメは振り向くことなく、そのまま出ていった。



残ったジークフリートは、ふと思い出す。

数日前、彼が見守っていた現在の地上代行者ヴォルヴァが、かつてヒルダがよく佇んでいたバルコニーに出て、

彼女の鳥であるソグンを飛ばしていたことを。

その鳥はどうやら、手紙のような紙切れを運んだようだった。

(もしかすると)

ジークフリートは思う。

(あれはヴォルヴァ様がトールに送ったものか?)

彼の行方不明はそれに関係しているのか。

とすれば、彼がヴォルヴァより紙切れを受け取り向かった先は……。

脳裏に甦った光景があった。

数年前、ヒルダが神闘士候補生養成所ヴァラスキャルヴを訪れた際、候補生の一人である並外れた大男……

その後神闘士に選ばれた、フェクダのトールの前へ歩み寄った時のことを。




その時ヒルダは跪き首を垂れている訓練生たちの前を歩み、大男の前で立ち止まった。

「あなたの名前は?」

問い掛けの前に、幾分小さい声で大男は答えた。

「……トールと申します」

優しい笑みを浮かべて、ヒルダは言った。

「トール。あなたはとても熱心に訓練に励んでいると聞いています。頑張ってくださいね」

「……は」

俯いて、彼は答える。



その時大男に話しかけているヒルダを見ながら、ジークフリートは思っていた。

ほぼ誰にでも、静かな物腰と柔らかな笑顔で接するヒルダではあるが、少しいつもと違っている。

あの男は、彼女に好ましい思いを抱かせる類の人間のようだ。

常に他人に尽くし、己のためではなく、誰かのために生きようとする者。

その時ふと、思い出された事があった。

幾月か前にワルハラ宮内で、城とその周辺の領地を警護する兵士たちの会話を耳に止めた時のことであった。




「それは越権行為ではないのか?」

「いや違う。ヒルダ様を冒涜するなど、アスガルドの民にあってはならぬ大罪だぞ」

回廊の中程で4,5名の兵士たちが、言い争いとも思える語気で言葉を交わしていた。

ジークフリートは彼らの方へと歩いて行く。

「何の話だ」

「ジークフリート様!」

兵士たちはジークフリートに向き直り、口々に語った。

「実は先日、神聖なるワルハラ宮の森グラシルにて、密猟を行なっていた不届き者がおりまして」

「抵抗したため止む無くその場で射殺するつもりでしたが、ヒルダ様が御出でになり、その者を助けることを命じられたのです」

「ですが、その者はヒルダ様を敬っている様子がまるでありませんでした。

御恩も忘れて、また禁猟区に踏み入ってくるかもしれません」

「越権行為ではあるかもしれませんが、奴を捜し出し捕らえた方が良いかと話していたところで……」

「かなりの大男でした。あれほどの巨体は滅多にないでしょう。発見は容易と思われます」

「お前たちは」

ジークフリートが低い声で言った。

「ヒルダ様がその者を救われたことを間違いだと言うのか」

「いえ、滅相もない! 決してそのようなことは」

兵士が慌てた声を出した。

「その者がヒルダ様の御恩を忘却し再び罪を犯したならば、その時に務めを果たすが良い」

「はっ!」

踵を返し歩み去るジークフリートの後ろで、直立不動の姿勢になった兵士たちが頭を下げていた。



(滅多にない巨体の男、か)

今ヒルダが話しかけている男で間違いないだろう。

おそらくあの男がヴァラスキャルヴにやって来たのは、ヒルダに救われた故―――。

あの男が神闘士になれるか否か。それは当人の実力と、オーディーンに選ばれるか次第。

選ばれたとしても、その時知ることになるだろう。

ヒルダは絶対不可侵の存在である、ということを。




過去の光景を脳裏から振り払い、ジークフリートは謁見室に向かう。

地上代行者のみ掛けることを許される玉座・フリーズスキャルヴに坐す小さき巫女ヴォルヴァの御前に進み出て、

ミーメから聞いた事態を報告した。

「ヴォルヴァ様。ひとつ質問をお許しくださいますか」

跪いたジークフリートは言う。

「きょかします」

黄金の槍を持ち、鳥と猫に付き添われた子供は言った。

「トールはヒルダ様の許へと向かったのですか」

子供は黙ったままだった。

「もしやヒルダ様も、異変に巻き込まれたのでは……。」

子供は言った。

「それは、うんめいです。あなたとかれらの」

ジークフリートの眉がピクリと動く。

「さがって、まちなさい」

子供……オーディーンの地上代行者である小さき巫女は、そうジークフリートに告げる。

「は」

ジークフリートは跪いたまま一礼し、立ち上がった。

 




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