アルベリッヒ家別邸内の、ヒルダの仮の休憩室となった部屋の中で、彼女から話を聞いたトールは考えていた。 かつての彼は、アスガルドの上流階級に当たる者たちに恩恵を受けたことなどないと思っていたが、 名門アルベリッヒ家、中興の祖にしてアルベリッヒの先祖である13世がヴァラスキャルヴを建立したからこそ、 神闘士としての基礎を作ることができたのだと。 そして記憶が呼び起こされた。 ヒルダと出会って後に、滅多に訪れることもなかった、ワルハラ宮城下市を訪れた時のことを。 街路を歩むにつれ嫌でも感じ取れる、道行く人々の驚愕と好奇の目。 並外れた体躯を持つトールへの……自分たちと違う、異形のものへの恐れの視線。 どこへ行こうとも、この眼差しの群れを逃れることは不可能だった。 その中で探していたのは、 あの方のために自分ができること。 あの方の、ヒルダ様の役に立ちたい。 出会ったあの日から、その思いは胸に居座って去ることはなかった。 叶うはずのない望みなのは重々承知していた。 ヒルダが統治者として居住するワルハラ宮に仕えることができるのは、代々地位と名誉と権勢を持つ貴族か、 それに準ずる家柄の者たちのみ。 地位や名誉はおろか縁故も家族も持たない、一介の狩人が入り込めるはずもないことは。 それでも街路のあちこちを歩き回り、訪ね歩き、求めるうちに辿り着いたのは、 民間人でも門戸を潜ることを許される、神闘士候補生養成所という施設の話だった。 神闘士とは、アスガルドに危機が訪れた時現れる伝説の戦士であり、オーディーンの地上代行者を守護する者たちと言われている。 ヴァラスキャルヴと呼ばれるその施設は、民間人に戦闘訓練を施して神闘士の資質を持つ者を見出すための場所である、 ということをトールは知った。 「だからって意味はないだろう。結局伝説の神闘士はオーディーンの神に選ばれる、って言うんだから。 馬鹿みたいにきつい訓練で毎日毎日しごかれて結構な数が逃げ出して、ここ何年も卒業試験を受けられた奴すらいないって話だぜ。 そんな思いして、卒業できても神闘士になれるとは限らないとかさ…… そもそも神闘士が復活するかどうかすらわからないんだし、馬鹿馬鹿しいったらありゃしねぇよ」 施設のことを知ろうと彼方此方を訪ねるうちに、そのような声も届いてきた。 一方で、ワルハラ宮に縁故を得て出世の糸口とするために、ヴァラスキャルヴの門を叩く者たちも尽きないのだという。 ただし、そういった者たちが卒業試験まで辿り着くことはまずないとも。 トールはヴァラスキャルヴへの入門を決意したのだった。 ヴァラスキャルヴ、その施設の名は謎の戦士たちの前に籠城を余儀なくされている主君と仕える戦士とに、 それぞれの思い出を呼び起こしていた。 ヒルダは数年ぶりのヴァラスキャルヴ卒業生となったトールをワルハラ宮に迎え入れ、厩番として働く事を許可したのだが 彼を城内に入れることについても、少なからぬ反対者が存在した。 「この度のヴァラスキャルヴ卒業生、トールについて調査結果が入りました」 法衣を纏い口髭を持つ壮年の男が、報告書を手に玉座に掛けるヒルダに告げる。 侍従長グンナル。アスガルド三つの名門の一つ、ディートリッヒ家の長でもある。 「あの者は数年前現在居住する村に流れ着き、それ以前の経歴は誰も知らず、一族さえも明らかではないということです。 恐れながらヒルダ様。ワルハラ宮はアスガルド国主の住まう宮殿として、秩序を保たねばなりません。 そのような身の上では、ヒルダ様に仕えるものとして相応しくはないかと」 「グンナル」 ヒルダは侍従長に言葉を返した。 「彼はヴァラスキャルヴ卒業試験に合格し、神闘士に選ばれる資格を得た者です。それで十分でしょう」 「……は。」 侍従長は口を噤み、その後異を唱える声も静まったという。 厩番としてワルハラ宮に召されたトールは、最初は桁違いの巨体のため周囲のものに恐れられたが 日が経つにつれ、その暖かい人柄は周囲の人々を引き付ける結果になった、とヒルダはヘルムヴィーゲをはじめとする侍女たちから聞いた。 ヒルダの愛用する白馬レートフェティも、世話されているうちにトールに心を許したようだった。 それらの伝聞以外で、直接ヒルダが見かけたトールの姿もあった。 「あの時もあなたは……釣具を持って夜半にワルハラ宮を抜け出していましたね。以前のように、貧しい人々に分け与えるためでしょう?」 ヒルダの言葉に、トールははっと目を上げた。 「……ご覧になっていたのですか」 「ええ、偶然に見かけたのですが」 ヒルダはそっと微笑む。 「苦しむ人たちを一人でも助けたいと……あなたはずっと思い続けて、そのために努力していたのですね」 優しい目で目の前の大男を見ていた彼女は、ふと表情を曇らせ、目を伏せる。 「ワルハラ宮に仕えていた頃、アルベリッヒは人々のために、 地上の平和のために何かを為そうという気持ちをまるで持ち合わせていませんでした。 ……せめて彼に、偉大な祖先13世や貴方の半分でも、人々の為になりたいと願う心があれば……」 哀し気なヒルダを見つめながら、トールは思っていた。 ヒルダ様のこのお気持ちは、奴の胸に届くことはないのだろう。 ぐっと拳を握り締める一方で、そこに込められた思いを悟らせない穏やかな声がヒルダにかけられる。 「ヒルダ様。お疲れのところを話していただき、ありがとうございました。そろそろお休みになられては」 目を上げてトールを見、ヒルダは頷いた。 立ち上がり一礼したトールは、部屋を退出しそっと扉を閉じる。 |