部屋の扉をそっと閉じたトールは、扉の前にどかりと胡坐をかく。 しばしの後、廊下にアルベリッヒが姿を現し訝しげな表情を見せた。 「そんなところで何をしている?」 そう尋ねたが、すぐに察したらしい。 「ほう、その部屋でヒルダが休んでいるからお前が寝ずの番、というわけか。ご苦労なことだな」 冷たく険しい目で、トールはアルベリッヒを睨みつける。 「なんだその目は。お前らを フン、とアルベリッヒは鼻を鳴らした。 「俺が奴に手出しをする、とでも思っているなら安心しろ。オーディーンの地上代行者でなくなったヒルダになど、もう用はない。 代行者でなければあんな女はゴミも同然。殺すどころか、歯牙に掛けるにも値せんからな」 「失せろ」 微動だにせず、低い声でトールは言った。 「またご挨拶だな。かつては同じ神闘士、仲間同士だったというのに」 「ヒルダ様を裏切った者を仲間などとは思わん」 「まぁ、好きにするがいい。一応教えておいてやるが、 トールがアルベリッヒに目を向ける。 「頭にくる話だが、奴らの結界である小宇宙の檻が強力なのは認めざるを得ん。俺一人で容易く破れる代物ではない」 「逃げられぬようにしておいて、ヒルダ様を手に掛けるつもりなのか」 「そういう事だろうな。しかし、ここで張っている連中は――女と小僧と」 窓枠に肘をかけ外を見やり、アルベリッヒは口元を歪めて小声で呟く。 「ヴィーンゴルヴで戦闘訓練すら碌に受けることのなかった青二才だ」 「何?」 「つまりは雑魚。おそらくあの3人は下位の 今のところ技も能力も不明とはいえ、うまくすれば貴様の腕っ節だけでなんとかなるかもしれん。だが」 アルベリッヒはトールを振り向く。 「問題は残る2人。奴らに指令を出しただろう上位の 「貴様はそいつらの正体を知っているとでもいうのか」 「俺が調査したところでは、第一星と第二星はアース神族」 怪訝な表情をトールはかつての"仲間"に向ける。 「すなわち、神話の時代に神の住まう國アースガルズを本拠地としていたオーディーンの同胞」 妖しい笑みがアルベリッヒの顔に浮かぶ。 「最初から神、ということだ」 「……馬鹿な」 愕然とした表情に冷笑を返し、アルベリッヒは続けた。 「 神話の時代からさほど遠からぬ時の地上代行者には、武力に優れるのみならず、魔術を駆使する者もいたという。 故に万全を期すために、オーディーンは配下であるアース神族に皇闘衣を纏わせ 人の身である皇闘士の統率者とし、邪悪に堕ちた代行者を倒させたのだ」 「レギンローブ? ……それが奴らの闘衣か」 「そうだ。事のついでに教えてやろう。指輪の変で復活した、かつてオーディーンがその身に纏い戦ったというオーディーンローブも 全ての神々の父を意味する、オーディーンの称号の一つ。我が先祖13世がそう書き残していた」 アルベリッヒはニヤリと笑って言う。 「もっとも、 オーディーンや他の高位の神々の下働きをしていたような連中に過ぎん。 だが神は神だからな。人間が容易に勝てる相手ではなかろう。俺が奴らの檻を破れなかったのも」 アルベリッヒは腕を組み壁にもたれた。 「下等とはいえ、神の力が加わっているからだ。実際に対峙すればよくわかる」 そしてトールを見る。 「貴様はヒルダを守るために」 嘲笑がその端正な顔に浮かんだ。 「神を敵に回す覚悟があるのか?」 トールは押し黙ったままでいる。 「さすがに怖気づいたか」 アルベリッヒは笑う。 「あの時ヒルダ様を救おうともせず、今更罰だけを与えるならば、俺は神など認めん」 低い声で、しかし明白にトールは言った。 「ヒルダ様に危害を加えるつもりなら、何者だろうと叩き潰す」 「ほう。威勢のいいことだ。だが実行できるかはまた別の話だな。神に対抗できる力でも得ない限り」 アルベリッヒの目が細められた。 「俺はお前に、神に対抗できる力をくれてやることができるぞ」 そして言い放つ。 「力が欲しくば俺に対して服従し、忠誠を誓え」 しかしアルベリッヒの前のトールは、刃のような眼をして彼を睨みつけていた。 「寝言をほざくな」 恐ろしく低い声で続ける。 「覚えておけ。この上ヒルダ様に害をなすなら、 殺意に満ちた小宇宙を放つ巨体の重圧感に気圧されたアルベリッヒは、トールを睨み返しつつも後ずさる。 「俺の話を聞いていなかったのか貴様は。ただの女に成り下がったヒルダになど用はないと言ったろうが。愚か者が!」 そう吐き捨てると踵を返し、アルベリッヒは廊下を歩み去って行った。 その場に残ったトールは立ち上がり、扉をそっと、僅かに開く。 灯りが漏れ出て、彼女がまだ目覚めていることがわかる。 コツコツと、大きな拳が扉を軽く叩く。 「ヒルダ様、お目覚めでしょうか」 「はい」 彼女の声が答えた。 そっと扉を開け、トールはベッドの上で上半身を起こしているヒルダを認める。 「お休みになれないのですか?」 部屋の中に立ち入る。 「少しお話ししたいことが……よろしいですか」 ヒルダは頷いた。 ベッドから少し離れて跪き、トールは先程アルベリッヒと交わした話を簡単に伝える。 「奴のことです。神に対抗できる力などとはまず口から出まかせでしょうが……しかし、妙に自信ありげだったのが気になるのです」 「トール」 ベッドの上のヒルダは、改めて彼に向き直る。 「もしかするとアルベリッヒは、グリーズから何かを聞き出したのかもしれません」 「アルベリッヒが傷つけた……沈黙の一族の長、でしたか」 頷き、ヒルダは言葉を続けた。 「彼らは神闘衣の修復技術を代々伝えてきたと同時に、アスガルドの封じられた秘密を守ってきた一族でもあります。 それ故に、沈黙の一族と呼ばれているのです」 「封じられた秘密とは?」 「わかりません」 「ヒルダ様でもご存じないのですか……」 「ええ。時来たらば沈黙の一族はオーディーンより啓示を受け、秘密を然るべき者に伝えると言われていますが、 詳細は知られていません」 そこでふと、彼女は口を閉ざす。 「ヒルダ様?」 ヒルダは思い出していた。 それは10年前の事。 地上代行者に就任して数年、彼女は12歳になっていた。 その夜、外套を纏った沈黙の一族の長グリーズが供も連れず、単身ワルハラ宮を訪れてきたのである。 「今宵、ヒルダ様に告げるべき事があるために参上いたしました」 ワルハラ宮の謁見室に通され、玉座に掛ける12歳のヒルダの前に立ったグリーズは言った。 「このアスガルドには、オーディーンと近しき神の依り代となる者が存在しています」 その言葉に少女のヒルダは目を見開き、茫然と繰り返した。 「神の依り代、ですって……?」 「はい。今から15年前、あるアース神の依り代と定められた赤子が誕生しました」 グリーズは続ける。 「本来ならば、当時の地上代行者であられたブリュンヒルド様の下、このワルハラ宮で育てられる筈でしたが、 依り代を民に託すべし、とのオーディーンの神託が下ったのです。 ブリュンヒルド様の下で行われた会議の結果、当時我が沈黙の一族の長であった父は宮廷祭司の指示に従い、 依り代をある山に遺棄しました。その時私も、いずれ長を継ぐものとして同行したのです」 そしてヒルダを見据えた。 「神の依り代がこの地にある以上、何かが起こることは確実。齎されるものは幸いかもしれず、災いかもしれず…… いずれ依り代に降臨するであろうアース神が、アスガルドにとってどのような存在になるかは誰にもわからないのです」 驚愕を残した表情で話を聞いていた12歳のヒルダは、意を決して尋ねる。 「そのアース神とは、一体……?」 「今は告げるべき時ではありません」 丁寧ながらも、有無を言わさぬ声が告げた。 「オーディーンの許しを得て、私がヒルダ様にお伝えできることはこれだけです。次にお会いする時がいつになるかはわかりません。 二度と訪れずに済めば良いのですが……おそらくそうもいきますまい」 グリーズは一礼し、踵を返した。 「お待ちなさい、グリーズ」 玉座から立ち上がり、ヒルダは去ろうとする女の背に声をかけた。 「神の依り代とは、どういった人物なのですか。そして今の所在は?」 彼女は振り向く。 「特徴をお望みですか……まず、男です。他には……神器を身に着けております。 一族に古来より伝わり、遺棄する際に父が持たせたものです。 その神器はアース神の降臨に際し、真の姿を現します。今のところは古ぼけた価値のないもの、としか見えないでしょう」 神器が具体的に何であるかは、告げる気はないようだった。 「依り代が無事ある村の民に拾われた事は、父が放った偵察者である一族の者が確認し、 以後我々で定期的に観察しておりましたが、彼は12歳の時……今から3年前に、養育先から姿を消しました」 ヒルダは息を呑む。 「直前に、その村では噂になっていたようです。突然異様に大きくなった子供がいる、と恐れを持って語られていたとか。 もしかすると邪悪なる伝説の巨人族、ヨトゥンの血筋ではないのかと。 それほど大きくなったという噂が事実ならば、再度発見するのも容易い筈なのですが、現在のところ所在は掴めておりません」 そう告げてグリーズはワルハラ宮を去り、後には不安を胸に渦巻かせた12歳のヒルダが残された。 オーディーンに近しきアース神が降臨し、アスガルドに必ず何かが起こる。 胸に植え付けられた不安を誰かに吐露することは、許されぬ行為の筈。 地上代行者として、胸の内に秘めておかなければならない。 頭では分かっていた。 しかし当時のヒルダは、その重圧には耐えられなかった。 声を心に押し込め、口に出したいと思っては押し止め、それを幾度か繰り返したある夜のこと。 彼女は、この頃には側近となっていた少年近衛兵を自室に呼び出した。 「ジークフリート」 他の者には話せないようなことも、彼にならヒルダは気楽に話すことができた。 「聞いてほしいことがあるのです」 「はっ」 彼女の前に跪いた少年のジークフリートは、いつものように真摯な眼差しでヒルダを見返す。 「このアスガルドには……」 ヒルダは語り、彼女とジークフリートは、アスガルドで3人しか知る者がないはずの秘密の保持者となったのだった。 (巨人のように……伝説の邪悪なる巨人族ヨトゥンのように、大きくなった子供……) 今、彼女から少し離れた場所に跪いている大男。 殆どが長身揃いの七人の神闘士たちの中でも、一際抜きんでた背丈の持ち主。 数年前、アスガルドを巡行し貧しい人々を見舞っていたヒルダは、彼らに糧を与えている"とても大きな人"のことを知った。 そして禁猟区である神聖なるワルハラ宮の森、グラシルと呼ばれる森で初めて出会った時、 その並外れた巨躯はヒルダにとっては何でもなかった。 煮るなり焼くなり好きにしろと居直った彼の姿で最も印象に残ったのは、柔和な緑の瞳。 そして強く感じられたのは彼の小宇宙。 アスガルドの短い春の、麗らかな陽射しのように優しい。 その小宇宙の芯に存在しているのは、いつも誰かのためになりたいと願っている心。 それが彼のすべてを物語っていた。 (……まさか……) ヒルダは胸を抑え、内心の動悸を鎮めようとする。 そして、彼に話しかけた。 「……トール。今度はあなたの話を聞かせてくれませんか。あなたの昔のことを知りたいのです」 ヒルダの唐突とも思える問いかけに、トールは不思議そうに瞬いたが、 「は。」 畏まり話し始めた。 「俺、いや私は、ある山村で狩人をしていた者とその妻に育てられました。しかし血の繋がりはありません。 山に捨てられていたところを拾われ、12まで養われましたがその年に養父母の家を出ました。 2人がもう、食わせていけないと……私を養えないと判断したからです。 それからは幾つかの村を渡り歩き、今の村に落ち着いたのは7年前、18の時になります。 お話しできることはこのくらいしかないのですが」 そこでトールは口を閉じた。 淡々とした語り口と、平淡な表情。 しかしヒルダの胸は痛む。 彼は少年時代、育ての親に見捨てられたのだ。 その後幾つも村を彷徨い歩いたということは、おそらくは並外れた体の大きさのために、 人々に拒絶され続けた事を意味しているのだろう。 頼れるものもなくただ一人、アスガルドの厳しい風雪の中、明日をも知れぬ生き方をしてきた。 どれほど心細い日々を送ったのだろうか。 その一方で、認めざるを得ないことがある。 彼の語った過去は、グリーズが告げた神の依り代についての詳細と一致していた。 |