「ヒルダ様……?」

トールが遠慮がちに声を出したその時、蝋燭の灯りに照らされたか、ベルトの所で何かが光る。

「トール、ベルトに何かが」

「は」

大きな手が、その小さな何かを摘まみ上げたその時、

ヒルダの視線はトールのベルトに移り、そのまま釘付けになった。

見事な細工が施された丸い金属製の飾りが、全面に取り付けられている。

アスガルドの名立たる貴族たちですら、これと同等の品の所有者は少ないのではないかと思われるほど豪奢な飾りのベルトではあったが、

全体的にくすみ、古ぼけて見える。

神の依り代は"神器"を身に着けているとの、十年前ヒルダを訪れてきた沈黙の一族の長・グリーズの言葉が思い起こされた。

(一族に代々伝わり、遺棄する際に父が持たせたものです)

(その神器はアース神の降臨に際し、真の姿を現します。今のところは古ぼけた価値のないもの、としか見えないでしょう)

「ヒルダ様、このようなものが」

トールがベルトから摘まみ上げた物を差し出してきた。

それはブローチだった。

表面に紋章が彫り込まれている。

トールからそれを受け取ったヒルダは、ブローチの紋章を見つめる。

「あの時……アルベリッヒの技だか罠だかで、木の根が一斉に動いていましたが、その時に外れたものでしょうか」

弾き飛ばされたそれがトールのベルトに引っかかった、ということだろうか。

いずれにせよ、ブローチが現在ここにあるのが証明に思えた。



ブローチの紋章は、ワルハラ宮の紋章と似通っていた。

オーディーンの地上代行者の坐すワルハラ宮の紋章には、北欧の主神・オーディーンを示す要素が表されている。

まず両側に、オーディーンの使いと言われる二羽の大鴉・フギンとムニンが配置されており

中央上部にはオーディーンが手にする聖剣・バルムングを模した意匠が付けられている。

その下、紋の中央には北極星と、それに従う北斗七星の意匠。

一方ブローチの紋章の両側には、横を向いた角持つ牡山羊二頭の頭。

上部には槌を模した意匠。

中央にあるのは歪な弓、もしくは錨を形作る5つの星からなる星座。そこから離れて強く輝く星の意匠。



皇闘士ラグーナたちが身に着けている紋章、それが示しているものは彼らの主。

すなわち、彼らの次にアスガルドに降臨するだろう神。オーディーンと同じ神族である、アース神を表してる。



ヒルダは悟った。

グリーズが語った神の正体を。そして。



ブローチをベッド上に置いた彼女はベッドから降りると、トールの前に歩み寄る。

「ヒルダ様?」

「すぐにここを出て」

トールの肩に手を添える。

「ここから逃げなさい、トール。彼らの……甦った皇闘士ラグーナの狙いはあなたです!」

「俺……私が? では奴らの目的は、ヒルダ様を手にかけることではないのですか」

戸惑いはすぐにその目から消え、安堵の光が浮かぶ。

彼の唇が動いた。

よかった、と。

「ならばヒルダ様、このような場所に長居は無用です。皆のところへ帰りましょう。

貴女が目的でないのなら、奴らも手出しはしてこない筈」

立ち上がろうとしたトールに、

「いけません! あなた一人で、すぐにここからお逃げなさい」

強い調子でヒルダは告げる。

「お聞きなさい。十年前、私は沈黙の一族の長グリーズから秘密をひとつ開示されました。

アスガルドには、オーディーンに連なるアース神の依り代となる者が既に誕生している、というものです。

そしてその子は、オーディーンの神託に従いアスガルドの民に拾われるよう仕向けられたとも」

「……つまり、それが私ということでしょうか」

ヒルダは頷いた。

皇闘士ラグーナが身に着ける紋章は、彼らが仕える主、そのアース神のものです。

グリーズは、アース神の降臨がアスガルドに何を齎すかは不明とも語りました。

もしそれが災いであるなら……あなたは何としても彼らの手に落ちてはなりません。ですから、私のことは構わずお逃げなさい」

「お言葉ですがヒルダ様。ヒルダ様をおいて逃亡するなど、神闘士としてできません」

「私の身より、どうかアスガルドの事を考えて……今すぐ逃げるのです!」

「しかし」

「貴様に逃げられては困るな」

突如声が聞こえた。

同時に部屋に満ちる気配。

それが敵意であると悟った瞬間に、

ヒルダは小さく悲鳴を上げる。

いつの間にか足元は緑色の何かに取り巻かれ、

それが瞬時に彼女のドレスを伝い、身を締め上げた。

「……!」

部屋の片隅に置かれた鉢に植えられていた、見たこともない植物が長く長くその葉を伸ばしていたのだ。

鉢は部屋の四隅に置かれていた。四つの鉢から溢れ出すように躍り出た長い葉が、瞬く間に部屋の床も壁も覆いつくす。

黒みを帯びた緑の長い葉は、まるで意志を持つかのように蠢いている。

「ヒルダ様!」

「ヒルダを餌に、貴様を誘き出した意味がなくなるではないか」

開かれた扉の向こうに、アルベリッヒが立っていた。

「動くなよトール。俺がその気になりさえすれば、このウェルウィッチアは容易くヒルダを殺せるぞ」

その端正な顔を覆いつくしている、邪悪な笑み。

「ウェルウィッチアは奇想天外、または砂漠万年青オモトとも呼ばれる。本来アフリカの砂漠に生息し、一対の葉のみを伸ばし続ける特異な植物だ」

悠々と、蠢く植物に覆いつくされた部屋にアルベリッヒは入ってきた。

「アフリカ原産の植物が、この極北のアスガルドにあるのが不思議か?」

トールが歯噛みして彼を睨みつけている中、平然と告げる。

「簡単な話だ。アスガルドには活火山であるロガフィエルが存在する。その地熱を利用すれば、南国の植物を栽培するなど容易いこと」

彼は椅子を手にして腰かけた。なおも話は続く。

「この技はネイチャー・ユーリティーという。自然に宿る精霊と呼吸を合わせ、意のままに操るアルベリッヒ家の秘技。

我がアルベリッヒ一族は頭脳に秀でた者のみならず、精霊と心を通わせる能力を持って生まれた者をも輩出してきた。

貴様も当然知っているだろう、ヒルダ。

中でも俺の6代前の先祖、アルベリッヒ13世の能力は歴代でも屈指に秀でたものだった」

ウェルウィッチアという植物はアルベリッヒに呼応し、邪悪な意思を持って部屋を覆いつくし蠢いている。

抵抗することなど不可能だった。

「13世は精霊たちと心を通わせ、味方につけるこの技を編み出し、アルベリッヒ家家長となる者に代々伝えたのだ。

だが、この技には大きな欠点がある。

動く者に対しては精霊たちは容赦なく襲い掛かるが、動かぬ者、つまり精霊たちと呼吸を合わすことができる者には反応しない。

よって俺は、最初から攻撃性を植え付けた植物を育て、実験的にこの館に配置しておいたのだ」

アルベリッヒは蠢くウェルウィッチアの群れに、満足げに視線を送る。

「大量の植物に敵意を植え付けることができれば、敵が動こうが動くまいが関係なく襲い掛かる森も作れるが、

残念ながら時間が足りず、今回皇闘士ラグーナどもを襲わせるに至らなかったがな」

大きく長い緑の葉に全身を拘束され、動きを封じられたヒルダの顔の前に、緑の葉先がちろちろと蠢く。

「……すぐにヒルダ様を解放しろ! 貴様は神闘士に選ばれた身でありながら」

「動くなと言ったろうが」

アルベリッヒの声が冷たく発せられる。

「ヒルダの命が惜しければ、拳を収めてその場に跪け。……早くしろ! ヒルダが二目と見られん肉塊になってもいいのか?」

椅子の上で悠々と足を組みつつ、さらに威圧的に言う。

血管が浮き出るほど拳を握り締め、アルベリッヒを睨みつけていたトールは言われるままに、その場に跪くと床に大きな拳を打ち付けた。

その様子を頬杖を突き眺めるアルベリッヒの顔に張り付いている笑みが、さらに邪悪に、そして楽し気に歪む。

「アルベリッヒ……あなたという人は……」

全身を植物に絡めとられつつも、澄んだ青い瞳でアルベリッヒを睨みつけるヒルダの声には怒りが満ちていた。

「ヒルダよ。貴様は神の依り代を知る者がグリーズから秘密を開示された自分のみとでも思っていたらしいが、それはとんだ愚昧な勘違いだ」

彼女の非難をものともせず、アルベリッヒは語る。

「依り代をワルハラ宮で育てるのではなく、アスガルドの大地に放ち民に託せとのオーディーンの神託を読み解いたのは俺の父、アルベリッヒ18世なのだぞ。

つまり、俺は父からその秘密を受け継いだのだ。とはいえトールよ、それが貴様だということはグリーズが口を割るまで俺も知らなかったがな。

指輪の変によって神闘士が復活し、ワルハラ宮に召された貴様を見て、25年前に棄てられ13年前に姿を消した依り代であることに漸く気づいたらしい」

フン、と鼻を鳴らす。

「神闘士フェクダのトール。貴様を依り代として降臨するアース神が何者なのか、このアルベリッヒが教えてやろう」

アルベリッヒは笑みを浮かべた。

「その名は雷霆神フロルリジ。パワーだけならばオーディーンをも上回ると言われた、最強のアース神だ」




北欧に古より伝わる謡、エッダは語る。

彼の神、"巨人殺し "と綽名され、"神と人の尊き守護者"と讃えられたり、と。

オーディーンの長子、雷霆を司るアース神フロルリジ。名の意味は轟き闘う者。

その歩みと咆哮の下、震える山々は粉砕され、大地は焔をあげて燃える。

フロルリジはオーディーンの息子たちであるアースガルズ五皇子の一員であり、

聖光神ヴァルドル、闘争神ヴィーザル、復讐神ヴァーリ、使徒神ヘルモートの4柱の若き神々の長兄でもあるという。




「13世が著した書物の中には、アスガルドを始めとした各国神話の時代の逸話の集大成もある」

子孫であるアルベリッヒはその内容を語る。

かつて神話の時代、ギリシャはオリンポスの地に謎に満ちた巨人族、ギガースが誕生した。

地上を守る女神アテナの同盟軍や原初の聖闘士と争ったギガースの一部は北上し、オーディーンの治める神の國・アースガルズにも攻め入ってきたという。

「ちなみに聖闘士どもとギガースの争いは、オリンポス神どもの内輪揉めに過ぎんが同時に世界の覇権を争う戦でもある聖戦とは区別され、

ギガントマキアーと呼称されていたそうだ。

そしてアースガルズにおいてはヨトゥンと呼ばれるようになった巨人ギガースどもを、

無傷で撃退できたのはオーディーン以外はフロルリジのみだったとされている。

一説にはそのパワーは、オリンポスを統べ天地を支配した天帝ゼウスにすら匹敵したという。

それほどの神が、父神とはいえオーディーンの配下に甘んじていたというのは解せんが、

おそらくは叡智の神でもあるオーディーンに比べれば頭脳が鈍い故に、出し抜くことはできなかったのだろうな。

考えてみればフロルリジには幾つもの荒々しい武勇伝が伝わっているが、それ以外の技量を発揮した逸話が全く存在しない。その時点でお察しか」

フフフ、とアルベリッヒは楽し気に笑った。

「とはいえ、ゼウスに匹敵するとされるパワーを持つのが事実ならば、地上を粛清するなど容易い筈。

つまりはトールよ、貴様にはフロルリジを降ろし世界の文明諸国をその神力アースメギンで一掃する役目があるのだ。

俺が地上支配を成し遂げるための露払いとしてな!」

目の前で跪かせた大男に対し、野望に燃えた目でアルベリッヒは言い放った。

 




前へ  次へ


戻る