アルベリッヒ13世の著した書物のひとつ、『神話伝説大全』には次のような記述があった。 "雷霆神フロルリジが倒した巨人族ヨトゥン、すなわちギガースについては、古代北欧の偉大なる詩聖によってこう謳われている。 雷霆神フロルリジは 巨人レイクンの脚をへし折り 同じくケイラの頭を割り スリーヴァルダを打ち砕き スタルカテルスを投げ倒しその八本の腕を悉く切り落としギャルプを圧殺せり キャランディを完全に粉砕し ルートとレイジを倒しブースエイラの血を流し スヴィーボルの命を奪い ヘンギャンキャプタを屠ったものなり 挙げられた巨人は十一体。 このうちスリーヴァルダは九つの頭を持つ異様な姿をしていたと伝わり、スタルカテルスは八本の腕を持っていたとされている。 ギガースの出自については謎に包まれており、何一つ解明されてはいないが、 古来より地上を分割支配した三柱の神のうち、冥王ハーデスが また天帝ゼウスがその出自に関わったとする説もある。 ギリシャ神話によれば、ゼウスに属する天空の神の軍隊の中には"ヘカトンケイル"、すなわち百手巨人と呼ばれる、 複数の頭と多数の腕を持つ巨人たちが存在していたという。 とすれば、神話の時代オリンポス山の存在するギリシャより北上し、オーディーンの治める神の國・アースガルズを襲ったヨトゥンことギガースの背後に、 天帝ゼウスもしくはその配下であるオリンポス十二神の何らかの意図が存在した、という可能性は考えられるだろう。" アルベリッヒが言った。 「ヨトゥンことギガースの正体についてそのように推察できたのは、13世が 13世は非常に正直な男だった。何せ武者修行における自身の敗北と敗因さえも、包み隠さず回顧録に残していたのだ。 アルベリッヒ家の秘技ネイチャー・ユーリティーを最初に破った男が、 奴は前聖戦、すなわち冥王ハーデスが地上侵攻を目論み、女神と聖闘士が阻止した243年前の戦の数少ない生き残りだったという」 一息入れて、話は続く。 「13世はその聖闘士、 同時に、童虎にオーディーンの聖剣・バルムングの出現方法を教えた事も書き残していたのだ。 アスガルドは聖域と並ぶ地上の平和の要、万一の場合に聖闘士の協力を得られるようにと」 跪くことを強要されている、トールの眉がピクリと動いた。 先の指輪の変、聖闘士との戦いの際。 トールはバルムングの剣の存在と入手の方法を、仲間の危機に駆け付けた聖闘士の話から聞いていた。 齎した聖闘士は、おそらくその童虎に関係していたのだろう。 それが200年以上前、アルベリッヒ13世によって齎された知識ならば、子孫のアルベリッヒも知っていた可能性は高い。 「まさか、貴様は」 トールは口を開く。 「バルムングの剣の事を、あらかじめ知っていたのか」 「当然だ。俺は神話の時代から続くアルベリッヒ家の跡取り、バルムングの剣については13世が残した家訓に記されていた。 神闘士の手にすら負えぬ邪悪をも粉砕できる力を持つ聖剣、 フロルリジの 「アルベリッヒ!」 非難の声色で、ヒルダが叫ぶように言った。 「あなたは、オーディーンの栄光を護持する人々を束ねる名家を継ぐ者でありながら、何故そのような愚かしい野望を!」 「ハハハハハ!」 ウェルウィッチアの蠢く部屋の中、大笑が響き渡る。 アルベリッヒは首を仰け反らせて笑っていた。 やがて笑いを収めた彼は、ヒルダを侮蔑の眼差しで見据える。 「貴様に愚かしいなどと言われる筋合いはない。おめおめと海皇の操り人形にされた、惰弱な女ごときが! そもそも」 たっぷりと嘲笑を含み、言葉は続く。 「貴様が真にオーディーンの地上代行者に相応しい力と 「あの場でだと?」 トールの呟きにアルベリッヒが答える。 「あの日、俺は海辺におけるヒルダの祈祷の護衛をしていた。すると北極海の向こうから、海皇がそいつに語り掛けてきたのだ。 ヒルダに従う意思がないと見るや、指にニーベルンゲン・リングを嵌めて去って行った。その後どうなったかは貴様も知っているだろう」 トールが立ち上がった。 「おい! 動くなと言って」 「貴様は」 アルベリッヒの鋭い声を、静かな声が遮る。 「ヒルダ様を襲った災いを目撃し、災いを退ける方法を伝えられておきながら、誰にも告げずにヒルダ様を見捨てたのか」 とても静かに、とてもゆっくりと、トールが言った。 植物に動きを封じられたヒルダの前に、トールの大きな拳があった。 握り締められた拳の、指の関節が白く変色していた。 「フン、まったく頭の鈍い奴だ」 アルベリッヒが冷笑する。 「ワルハラ宮の連中に告げたところで何になるというのだ。まあ狩人上がりの貴様が知る由もなかろうが、 奴らはヒルダごとき惰弱かつ愚かな女を、無条件に妄信する石頭揃いなのだぞ。 オーディーンの地上代行者であるがゆえに、何を言い出そうともその言葉は絶対。 ヒルダの無能を見抜けずそう信じ込んでいたからこそ、尻拭いのような形で聖闘士に倒される末路を迎える羽目になった」 アルベリッヒは椅子の背もたれにもたれかかりつつ言う。 「そいつが代行者に相応しい強者でありさえすれば、最初から起こる筈もなかった事態だ。貴様含め、一度は全員無駄に命を落とすことになった意味を」 ニヤリと笑みを浮かべ、アルベリッヒはこめかみの上を人差し指で軽くつついた。 「その足りない頭を絞りに絞って、よーく考えてみろ」 得意げに話し続けるアルベリッヒは、トールの憎悪に凍り付いた表情を全く目に入れていない。 「13世は家訓において、アルベリッヒ家に生まれし者は全てヒルダを守る宿命にあると宣言していたが、オーディーンの面汚しなぞ守る意味も必要もない。 ニーベルンゲン・リングの一件は、俺にとって天啓だったな。 ワルハラ宮の支えであるアルベリッヒ家に属し、アスガルド一の頭脳を持つ俺こそが、ヒルダに取って代わるべきだと明らかになったのだからな!」 「黙れ」 そのぞっとするほど冷たい一声に、アルベリッヒの動きが止まった。 彼は目を走らせ、蠢く植物に目配せする。 ウェルウィッチアの長い葉が蛇のように滑走し、トールの足を這い上り、絡めとろうとした瞬間。 その葉を大きな手が鷲掴みにし、刹那電光が走った。 掴まれたウェルウィッチアの葉が弾け飛ぶ。 電光が部屋中に走り、壁、床、天井を覆いつくしていた緑の葉の群れは次々と爆ぜ、瞬時に火花を吹いて燃え上がる。 黒い燃え滓が至る所に零れ落ち、散らばっていく。 ヒルダの身を戒めていた長い葉も同じように燃え尽きて、彼女は床に崩れ落ちた。 「ヒルダ様」 耳に届いたのは、今までと変わらぬ穏やかなトールの声。 「お願いがあります。少しの間目を閉じて、俺のすることを見ないでいただけませんか」 床に手と膝をついたヒルダは、彼の後姿を見上げる。 「二度としてはならぬとの仰せでしたがこのトール、今回ばかりは従えそうにありません」 目を見張るヒルダの前でトールは両足を開いて構えを取り、拳をアルベリッヒへと向けた。 凄まじい憎悪の気が、全身から立ち昇っている。 アルベリッヒは驚愕の目でトールを見ていた。 今やネイチャー・ユーリティーは全く通用しない事を、彼は瞬時に悟っていた。 精霊たちが束になって襲い掛かったとしても、悉く粉砕されるだけだろう。 (いくら雷霆神フロルリジの依り代と定められているとはいえ、それは肉体が器として相応しいというだけのこと。 こいつがここまで強烈な小宇宙を持つはずなど……!) そしてトールは、殺意に満ちた目でアルベリッヒに対して拳を向けている。 否、その目に漲っているのは、確固とした断罪の決意というべきものだった。 それを認めて、 (ふざけるな!) アルベリッヒは怒りに滾る。 (神闘士に選ばれたとはいえ、狩人上がりの貧民の分際で) 椅子の背後に手を回す。 (アスガルドきっての名門、アルベリッヒ家後継者のこの俺を断罪だと?) そこには入室の際後ろ手に隠し持ち、こっそりと置いておいた、炎の剣があった。 アルベリッヒが授けられた、メグレスの神闘衣に付属している武器である。 念のための措置だったが、部屋が薄暗いのもあってか、どうやらヒルダとトールの二人には気づかれなかったようだ。 トールの利用価値と自身の安全を内心で秤にかけ、仕方があるまいとアルベリッヒは炎の剣の柄を握る。 電光に包まれた大きな拳を振り上げるトール。 その拳は真っ直ぐにアルベリッヒを捕らえた。 同時に、立ち上がったアルベリッヒが抜き放った剣から炎が吹き上がる。 次の刹那、電光と炎が激突した。 「がッ」 一声を残して電光の拳を受けたアルベリッヒの身体が吹っ飛び、激突した部屋の扉、続いて壁がメリメリと崩壊し、辺りに凄まじい音が響き渡る。 トールの腕も切り裂かれ、傷口から血汐が噴き出したが。 「あの世で先祖に詫びてこい」 険しい顔つきを崩すことなく、その口から厳しく声が放たれた。 「ヒルダ様を守る宿命に背いた事をな!」 下ろされた太い腕には、切り裂かれた上焼け爛れた傷口が無残な痕を残している。 振り向いたトールは、床に手をついたままのヒルダの前に跪いた。 「このような目に合わせて申し訳ありません。お怪我はありませんか」 身を起こしたヒルダは、そっと彼の腕を取った。 その傷口を包み込む彼女の小宇宙。 瞳から一筋、涙が流れ落ちた。 身を包む暖かな小宇宙と、その持ち主である人の悲しみと慈しみとを、トールは同時に感じ取る。 腕に負った傷が全て癒されて後、二人はしばし無言で向かい合っていた。 やがてトールが口を開く。 「帰りましょう、ヒルダ様。ワルハラ宮へ」 その時、窓がカタカタと揺れる。 尋常ならざる気配にトールが身構えた瞬間、窓と壁とが吹き飛んだ。 その巨体で、トールはヒルダを庇う。 崩壊は周囲の壁にも、天井にも及んでいく。 アルベリッヒ家別邸はみるみるうちに崩れ落ち、僅かな骨組みを残して残骸と化した。 ヒルダとトールは北天の星空の下にいた。 別邸を崩壊させ、二人の前に立ったのは三人の戦士、 中央に、現れた時最初に声をかけてきた若者の うちの一人、少女の 彼らを見据えていたトールが、立ち上がりヒルダの前に立った。 「今からヒルダ様をワルハラ宮へお連れする。お前たちの企みにヒルダ様は無関係なのだろう」 「俺に用なら、その後で聞いてやる」 険しい声でトールが言い放った。 「……どうして」 少女の 彼女は外套を剥ぎ取る。 白銀に青の縁取りがある鎧とヘッドギアを纏った、金髪の少女の顔が露になった。 「どうしてそんな女をそこまで庇うの。あなたが死んだのはそいつのせいなのに!」 その声とその顔を前に、トールは目を見張った。 「お前……!」 若者の 「来たれオヴニル、スヴァフニル!」 短剣の刃には、古代より北欧に伝わるルーン文字がいくつも彫り込まれており、それらが光を放った。 トールの足元から、突如何かが二つ伸び上がり、それを認めたヒルダは目を見張る。 北欧の伝説の宇宙樹・ユグドラシルはその壮麗な姿に反して、幹は腐りかけまた様々な獣たちに食い荒らされ、常に苦難を舐めているという。 ユグドラシルの根には大量の蛇が蠢き絡みついているとされ、その中にオヴニル・輪を作るもの、スヴァフニル・眠らせるものと呼ばれる蛇も存在していた。 ユグドラシルの根を蝕む蛇たちを召喚する技。 それは現在のアスガルドでは、伝説としてしか残っていない魔術であった。 忘れ去られたその魔術はかつて、セイズと呼ばれていた。 現われた鎧の少女、 二匹の大蛇は、瞬時にトールに絡みつき締め上げた。 一方。 何が起こっている。 蛇に全身を締め付けられ、動きを封じられたトールは混乱していた。 村に辿り着いた時から……幼い時分から知っている、つい昨日まで普通の娘だったはずのスルーズが 鎧を身に着け見たこともない術を突如として使う、まったく見も知らぬ存在と化している。 だが確かなことがある。脳裏に一つの光景が甦った。 「竪琴弾きのミーメという男がこの村に来たんだ。広場で皆に曲を聞かせてくれた」 昨夜のことである。 スルーズの家を訪れ、引き留められていたトールは彼女の部屋で椅子に掛け、ベッドに臥せったままのスルーズに言った。 「近いうちに、お前にも曲を聞かせに来てくれるぞ」 「……いらない」 スルーズは投げやりに言う。 「そう言うな。お前もきっと気に入ると思う」 「いらない。曲なんか聞きたくない。その男って、フォルケル様を殺した罪人なんでしょう」 4年前に起こった、アスガルドで知らぬ者のないあの事件。 トールの目にも翳りが見えた。 「……ああ。だから追放刑に処された。だが特例で恩赦され、今はヒルダ様のお言葉に従ってアスガルド各地を慰問で回っている」 「あの女、もう代行者でも何でもないくせにまだそんなことさせてるんだ」 「スルーズ」 その呟きを耳にし、トールの声が険しくなる。 「ヒルダ様に対してその物言いは許されんぞ」 「……あんな女、ただの罪人じゃないか!」 スルーズの声に怒りと嫌悪が増し、ベッドの上に跳ね起きた彼女はトールを睨みつけた。 「トールはあいつのせいで死ぬ羽目になったんだよ? 人殺しのくせに、なぜまだのうのうと生きてるの? オーディーンが神というなら、あんな奴天罰でさっさと殺せばいいんだ!」 「黙れ!」 凄まじい怒号に、スルーズの身が縮みあがった。 愕然とした目に映る立ち上がったトールは、これまで目にしたこともない怒りに満ちた表情を彼女に向け、両拳を握りしめていた。 「お前に何がわかる」 彼女が聞いた事のない、冷たい恐ろしい声。 「その歪んだ憎しみを改める気がないなら、二度と俺の前に現れるな」 そう言うと、トールはスルーズに背を向け後も見ずに出ていった。 スルーズが何事か叫んだ気がしたが、振り向くことなく彼女の家を立ち去ったのだった。 アスガルドの民としてあるまじき、ヒルダへの憎しみ。 それに囚われたスルーズは、どこでどう手にしたかは不明だが、現実にヒルダを害する事のできるだろう力を我が物として、今目の前に立っている。 トールは振り向き叫んだ。 「ヒルダ様! お逃げください、早く!」 そしてありったけの力を込めて、二匹の蛇の締め付けに抵抗する。 歯を食い縛り、トールは蛇に全身を締め付けられたまま一歩、一歩と 我が身を盾にすることで、ヒルダを逃がす覚悟で。 「そんな……いくらトールでも、神闘衣がないのにどうして動けるの」 後ずさりし、後方に目をやり、スルーズは叫ぶ。 「ラタトスク! 早く槍を!」 「お前に言われるまでもないよ!」 叫び返すなり、外套をまとった少年は、腰から抜き出した短槍を前方へ投げ放った。 ヒルダは目を見開く。 彼を戒めていた二匹の大蛇が離れ、地面に溶け込むように姿を消す。 トールの巨体が地に仰向けに倒れ、地響きが起こる。 「さあデュランダルよ、使命を果たせ。"お前の主"をお連れしろ!」 ラタトスクと呼ばれた少年が叫ぶ。 目の前で起こった惨事に動こうとしたヒルダの肩が、背後から押さえつけられる。 「ヒルダ様」 若い男の 「跪礼なさいませ。これより降臨される方々に対しては、オーディーン以上に敬意を払わねばなりません」 ヒルダはその声に目を見張った。 「あなたは……」 「さあ」 その手に力が籠もった刹那、振り向いて若者を見ようとしたヒルダの全身から力が抜け、その場に崩れ落ちる。 若者と少年が外套を取り払い、スルーズを含めた三人の 空を引き裂く凄まじい雷光と、地を揺るがすほどの轟音が轟く。 雷光が真っ直ぐにトールの身体に落ち、胸を貫かれた筈の彼がむっくりと身を起こしたのをヒルダは見た。 大きな右手が動き、胸に突き立ったままの短槍の柄をグッと握り締め、一気に引き抜く。 血が噴き出る事もなく、傷口はみるみる塞がって行った。 トールが目を上げる。 再び開かれたその目に、あの柔和な光はない。 否、それは人間の目ではない。 どこまでも凍てついた、何の感情もない光だけが漲っていた。 |