in Bilskirnir

ヒルダの全身が、がくがくと震えていた。

このままでは、アスガルドの人々は最古の二神が冥界より召喚する亡者の群れに殺戮され、

アスガルドは滅亡する事となる。

「オーディーンが……」

必死に身の震えを抑え、声を絞り出したヒルダは随神たちに向かって叫んだ。

「オーディーンが、そのようなことをお許しになったというのですか!」

「許しを請う必要などない」

冷厳な声が響く。

「オーディーンは最早、アースガルズの王にも神々の父にも非ず」

口を噤んだテュールの後に、ヘイムダルが続けた。

「かつてのオーディーンは、フィヨルスヴィード(偉大なる賢人)と呼ばれるに相応しい男であった。だがそれも過去のこと。

ラグナロクの後降臨する、新世界ギムレーの統治者……すなわち星雲を兜と抱き、

北天の十二の星を統括するヒミンスヨーリ(天の王)となられるのは、フロルリジ様なのだから」

再度微笑んだ光神は、隣の戦神に僅かに顔を向ける。

「ところでテュールよ。此処ビルスキールニルに神闘士が一人、向かってきておりますね」

テュールは全く反応しなかったが、

「正確には一人と一頭。狼の息遣いと足音が一緒ですから」

続けられたその言葉に、ヒルダは目を見張る。

(狼……ギングですね。ではフェンリルがここを目指して)

「ただビルスキールニルに辿り着くには、30分ほどかかるでしょう」

「おお……この位置からおわかりになるのですか、ヘイムダル様」

グンターが声を上げた。

「聞こうと思えば私の耳にはあらゆる音が聞こえる。生物の鼓動も血の巡る音も、空気の流れも。草木や羊毛の伸びる音さえも」

「うるさくないですか? それって」

シャールヴィのしれっとした物言いに、

「お、おい!」

隣に控えるグンターが慌てた声を出す。

「聞こうと思えば。故に問題は皆無。聞きたくない時は、そうだな……テレビのリモコンのボリュームを下げている、とでも考えるがよい」

「てれび? りもこん?」

シャールヴィが眉を寄せ、首を傾げる。

「少し教えてやったであろう? このアスガルドを出た先に広がる濁世には、そうしたものも存在するのだ」

白金色の長い髪を揺らし、ヘイムダルが言った。

「そういえば何かよくわかんないこと言ってましたよね、ヘイムダル様。そしゃげとかどうがはいしん、とかいうやつ」

「アスガルドの民も哀れなもの」

美しきオーディーンの随神は、ゆるりと笑う。

「この地の神聖を守るため近代文明の恩恵を全く受けず、長らく不便と不自由に閉じ込められてきたのだから。

そして何も知らぬまま、やがて帰航する死の軍船ナグルファルの亡者の群れによってただ死に逝くのみ……万に一つ生き残れたとしても」

楽しげに言葉は続く。

「何人も滅亡域ムスペルの劫火を逃れることはできぬ。焼き尽くされて無に帰る宿命なのだ」

「何故です。何故あなた方は、アスガルドを滅ぼそうとするのですか!」

ヒルダの叫びに、ヘイムダルが白い顔を向ける。

「元、北極星の娘よ。そなたが海皇に易々と支配される脆弱な精神の持ち主でさえなければ、アスガルドの浄化は今しばらく避けられたのだよ?

……否、たとえそなたが海皇を拒絶できたとしても同じ結果であったかな……故に悔む必要はないぞ、元北極星の娘。

南の神たちの仲間割れが起こることが確定したこの時代、ラグナロク到来は不可避であったのだ」

一度口を噤んだヘイムダルだが、

「おっと、質問に答えていなかったな」

ゆるりと、再びヒルダに顔を向ける。

「滅びは万物の定め、神の与える必然。ただそれだけのこと」

嫣然と、"白きアース神"は微笑んだ。

「わかるかね?」

その美貌に浮かぶ穏やかな微笑は、ヒルダの目には忌まわしき冷笑としか映らない。

ヘイムダルをきっと見返しながら、彼女は一つの事実を思い知っていた。

かつてオーディーンに仕えていた筈のこのアース神は、アスガルドも人々も、全く愛してはいないのだ。

それはヘイムダルの隣に立ち、巌の如く表情を動かさない戦神テュールも変わらないのだろう。





「テュール様、ヘイムダル様」

前に控える皇闘士ラグーナ三名のうち、シャールヴィが口を開く。

「とりあえず、オーディーンのジジイにまだ尻尾振ってる犬ッコロがここに来るんですよね? じゃあ僕が片付けることにします」

「そやつの名はアリオトのフェンリルだ。狼を操り戦う神闘士」

戦神テュールが抑揚なく言い、またヘイムダルが言葉を継いだ。

「技はウルフ・クルエルティー・クロウとノーザン群狼拳。ルクバを宿星に持つ、ラタトスクのシャールヴィよ。

フロルリジ様の皇闘士ラグーナとして、その力を発揮し使命を果たしておいで」

「わかりました!」

答えて立ち上がるなり、シャールヴィの姿は消えていた。

消えた、と見えるほどの速度で彼は走り去っていったのだ。




ヒルダは驚愕していた。

シャールヴィのスピードではなく、テュールとヘイムダルの言葉に。

(彼らは……降臨したばかりというのに、まさか神闘士たちのことを全て知っている……?)

神の身ゆえに、というのだろうか。

しかし神話に伝えられる所によれば、オーディーンの随神たちには透視や予言の力は一切ない筈。

その力に関わる神は主神たるオーディーン、そしてその正妃である神々の母・フリッガのみと伝えられているのに。





「ツィーの宿星の皇闘士ラグーナ、ダーインのグンター。セギンの宿星の皇闘士ラグーナ、フリムファクシのスカディ。貴様たちに使命を与える」

テュールの峻厳たる声の前に、跪いた姿勢のまま二人は顔を上げた。

「ビルスキールニルに結界を展開せよ」

戸惑った様子を前に、ヘイムダルが口を開く。

「雷霆神フロルリジ様の館、此処ビルスキールニルはこれより3つの区域に分けられる。

お前たちは扉から数えて200の部屋のうち1か所を己が居場所と定め、テュールの命じた通り結界を作るのだ。

それが第一の結界、グリョトトゥーナガルザルとなる。

フロルリジ様がおられる玉座の間は、最も奥まった140の部屋の突き当り……ビルスキールニル随一の高楼に存在するが、

そこまでの部屋200には私とテュールが結界を作る。これを第二の結界、ヴィグリーズと名付ける。

何故結界が必要かといえば、いずれ他の神闘士たちがビルスキールニルに攻め入ってくるだろうからね。防御のためなのだ」

ヘイムダルは二人を見下ろし、にっこりと微笑んだ。

「迎え撃つ準備をしなさい」

テュールが告げた。

「貴様たちはグリョトトゥーナガルザルを死守し、其処を北斗七星の神闘士の墓場とせよ」

「はっ!」

「はい!」

二柱の神に頭を下げ、二人の皇闘士ラグーナは立ち上がった。

すると床に転がっていたスルーズの短剣が、ひとりでに浮かび上がりスルーズの腰の鞘へと収まる。

驚きに目を瞬くスルーズに、

「神闘士と戦うには、そのヤールンサクサはそなたに必須」

ヘイムダルが笑みながら告げた。

「あ、ありがとうございます!」

スルーズは神に一礼し、グンターと共に小走りに牢獄の入り口へと向かう。




その場に残った随神たちのうち、

「さて、皇闘士ラグーナの初陣。果たしてどうなりますかね。予言どおり」

光神ヘイムダルが言い、

「"フレキ"は鎖から解き放たれるか否か」

うっすらと微笑む。

隣に立つ戦神テュールは無言のまま、牢獄の入り口に向かって歩み出した。

その場に佇んでいたヘイムダルが、歌を口遊み始める。



Gól of Ásum Gullinkambi,

sá vekr hölða at Herjaföðrs;




とても楽し気に。

それは古より北欧に伝わるヴェルスパ……巫女の予言、と呼ばれる謡であった。



en annarr gól fyr jörð neðan

sótrauðr hani at sölum Heljar.




そして歌いながら、テュールに続き入口へと歩き出す。



Geyr Garmr mjök fyr Gnipahelli,

festr mun slitna,en freki renna;





『巫女の予言』は、混沌から立ち上がる世界の始まりから、ラグナロクによる終末までを紡いでいく謡である。

次第に凄惨さを増していく内容に反して、その旋律は荘重さの中に、ある種の長閑さすら漂わせていた。




fjölð veit ek frɶða,fram sé ek lengra




歌声は周囲に響き渡る。

牢獄の中のヒルダは両耳を塞いだ。

心の中で、彼女の神に向けて叫びながら。



オーディーンよ、貴方はアスガルドをお見捨てになったのですか。

雷霆神フロルリジが、そして随神たちがこの地を、地上を滅ぼす行為をお許しになったのですか。




閉じられた瞼、長い睫毛から涙が伝い落ちる。




これが宿命というのならば、私たちは一体、何のためにこれまで祈り続けてきたというのですか!



um ragna rök römm sigtíva.



いつの間にか高らかになったその歌声は、牢獄内にいつまでも反響し続けていた。
 




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