ヘーニルについて、スノッリのエッダ・ギュルヴィたぶらかし第23章(三番目のアース神ニョルズの紹介)ではこう述べられています。
ニョルズはアース神ではなく、ヴァナヘイムで育て上げられたのだが、ヴァンル神たちが、彼をアース神のところに人質に差し出し、
その代わりに、ヘーニルと呼ばれる神を人質に取った。彼が神々とヴァンル神の間の和解の因になったわけだ。
「彼」がどっちのことかちょっと分かりにくいのですが、章の主役がニョルズな事を考えるとニョルズなんでしょうかね。
ヘーニルの『ギュルヴィたぶらかし』での出番はここだけです。
(『ギュルヴィたぶらかし』における人類創造の三神は「ボルの息子たち」、つまり該当者は巨人ユミルを殺害して世界を創造したオーディン・ヴィリ・ヴェーの筈ですが、
第一の神・第二の神・第三の神としか述べられていません。
これを根拠にして、オーディン・ヴィリ・ヴェーと(オーディン・)ロドゥル・ヘーニルを同一視する向きもあるようです。)
一方、スノッリ=ストゥルルソンの他の著作・北欧王朝史である『ヘイムスクリングラ』の最初を飾る
神話的歴史の書『ユングリンガ・サガ』では、この件についてより詳細に語られており、ヘーニルの出番ももうちょっと多いです。
『ユングリンガ・サガ』第三章は、アースの祖である偉大な王として語られるオーディンが、ヴァン(神族)と戦争した顛末が中心になっています。
(他のアース神やトール含むオーディンの息子たちは、第五章ラストでオーディンに良い居住地を与えられた、と出てくるのみです。ちなみにロキは出番なしですw)
双方とも戦に倦んで和平を申し込み、ヴァン(神族)は最も優れた者・裕福なニョルズとその息子フレイを差し出しました。
これに対してアース側(オーディン側)は、"王者にふさわしいという触れ込みで"ヘーニルを差し出し、加えて非常に賢い男・ミーミルもヴァン(神族)に送ります。
ヘーニルは「身の丈すぐれ、美麗な男であった。」のですが、
同行したミーミルが「なにごとにつけ」「助言を与え」なければ何もできない男でもあり、ミーミル不在の際に難問が持ち出されると
「ほかの者たちに決めさせるように」と答えるのみでした。
そのためヴァン(神族)は人質交換においてアース側に欺かれたのではと疑うようになり
(考えたら彼らは最も優れた者であるニョルズと息子フレイを人質に出したのに、ヘーニルは王者に相応しい触れ込みの割に一人じゃ何も出来ない男なわけですから、
ヴァン側が損してると言ったらそうなりますねw)
知恵者ミーミルを捕らえて斬首、その首をアース側(オーディン)に送りつけました。
オーディンはミーミルの首に魔術をかけ、首だけになった彼が喋れるようにして多くの秘密を聞き出したそうです。
(詩のエッダ『巫女の予言』で、ラグナロク到来直前に"オーディンはミーミルの頭と語る"の一節があり、それの説明説話になっているように思えます)
ヘーニルがその後どうなったかは述べられていません。
この物語に関連してか否か、フォルケ=シュトルムによれば『古代諸王のサガ断片』でヘーニルは"アースで最も臆病な者"とされているそうです。
さて、このページのテーマであるところの「ヘーニル=トール説」とアース対ヴァン戦争のエピソードはどう繋がってくるのかと言いますと。
まず、ヘーニルは「身の丈すぐれ、美麗な男」という良い見た目を持っていますが
スノッリのエッダ・序文である男について、同じような形容がされています。
「彼がほかのものたちとやってくると、象牙が樫の木に象眼されたときのように容貌が美しかった。彼の髪は黄金よりも美しかった。
十二歳になったとき、彼は怪力無双となり、十枚の熊の皮を一度に地面から持ち上げた。」
背丈については語られていませんが、普通に考えると無双と言われるくらい力があるなら「身の丈すぐれ」ていておかしくはないのでは?
この形容がされている男は、「トロヤの王」ムーノーンあるいはメノーンと、大王プリーアム(プリアモス)の娘プローアンの息子トロール。
エッダ序文では、「われわれはトールと呼んでいる。」と続きます。
こちらではこのトロール=トールより16代目の子孫がヴォーデン=オーディンである、と語られているのです。
『ヘイムスクリングラ』との整合性ィ! とか約800年昔の作品に言っても仕方ないでしょうが(笑)
そして、ヴァン神族に人質として差し出されたヘーニルが、トールと一体どう結びつくのか?
ここで突然ですが、前回も参考にしたスノッリのエッダ第二部『詩語法』より、トールのケニングをご覧ください。
オーディンほどのページは割いていませんが(オーディンの場合はほぼ詩に使われる形容)、さすがにアース神の中では結構な数があります。
「オーディンとヨルズの子」「マグニとモーズとスルーズの父」「シヴの夫」「ウルの舅(しゅうと)」
「ミョルニルと力帯とビルスキルニルの支配者で所有者」「アースガルズとミズガルズの守護者」「巨人と女巨人の敵で殺し手」
「フルングニル、ゲイルロズ、スリーヴァルディの殺害者」「シャールヴィとロスクヴァの主人」「ミズガルズの大蛇の敵」
「ヴィングニルとフローラの養子」
北欧神話をよくご存じの方でも、見覚えのないのが混じってませんか?
(ちなみにトールが殺害した巨人のうち、フルングニルとゲイルロズは神話が残っていますが最後の巨人にはありません。
スリーヴァルディ(またはスリーヴァルダ)は、9つの頭を持った巨人として『詩語法』に名前が登場します)
そう、ラストのケニング「ヴィングニルとフローラの養子」です。
他の神話の登場人物たちは、全て現存する神話本編にちゃんと出ていますが(スリーヴァルディを除いて)
トールの養父母であるはずの「ヴィングニル」と「フローラ」は、どこにも登場していません。
当然、北欧神話を扱った書籍でもまず名前が出ることはなく、唯一名前を出している邦訳である『北欧とゲルマンの神話事典 伝承・民話・魔術』(原書房)には
フローラ
トールの養母。いかなる物語も伝わっておらず、トールの別名であるフローリジをもとに、近年になって作られた存在と考えられる。(上掲書P283)
と載っています。
ちなみに、とある英語版北欧神話の本(事典風体裁)にもフローラは同じような感じで取り上げられていましたが、
どっちでも完全スルーされてる親父のヴィングニルの立場って……(笑)
上の事典の項目でもあるように、フローラの名前は確かにトールの別名・フローリジまたはフロールリジに似ています。
(『詩のエッダ』のうち、「ヒュミルの歌」「ロキの口論」「スリュムの歌」でトールはフロールリジと呼ばれています)
"養父"であるヴィングニルの名も、「スリュムの歌」冒頭に登場するトールの別名"ヴィングトール"をもじったもののように思えますし。
そもそも一切神話が残っておらず、ケニングにしか存在がないとなると、『エッダ』著者スノッリの個人的な創作の可能性すらあるのですが……。
では何故、トールの別名をもじった名前から"トールの養父母"という存在が(スノッリによって?)作られたんでしょうか?
ここで、トールとヘーニルが同一の神である、という私の仮説が絡んできます。
ヘーニルはアース神族とヴァン神族の和平の"人質"として、アース神族からヴァン神族に送られた、という物語を持っています。
これをトールに置き換えてみると、
彼はヴァン神族に属するある夫婦の養子として、ヴァン神族の国ヴァナヘイムに送られ
そこで成長したのではないかと。
『ゲルマン北欧の英雄伝説 ヴォルスンガ・サガ』(菅原邦城訳・東海大学出版会)の(第一章(3)の)脚注によれば、
古くは、王侯等支配階層に限らず庶民層においても、しばしば他人に養育された。北欧では、養い親は養い子の実親よりも身分、地位の低いのが一般である。
本サガでも後出のように、シグルズはレギンを、ブリュンヒルドはヘイミルを養い父にしている。(上掲書P145〜146)
とあります。
つまりかつての北欧では実の親の生死や経済状態に関わらず、養子になることは珍しくなかったわけです。
そして『オージンのいる風景』(東海大学出版会)では、古代北欧での養子の風習について、次のような説が提示されています。
(前略)いにしえには、親が自分の子を人に養育させることがよく行われたが、身に着けるだけの値打ちがある技術や知識を
子どもたちに教えることのできる人が養い親になった、ということである。(上掲書P110)
ヴァン神族に「人質」にやられた神ヘーニル・「ヴィングニル」と「フローラ」という、詳細不明の夫婦の養子だったとするケニングを持つトール。
両者を同一とする仮説に基づいて、私が導き出したストーリーは次のようになります。
北欧神話の初期の時代、トールが比較的若い・または少年だった時代と仮定して、父オーディンの率いるアース神族と
ニョルズ・フレイ(とフレイヤ)の属するヴァン神族は戦となったが決着はつかず、和平が結ばれることとなりトールは人質としてヴァン神族の国ヴァナヘイムに送られる。
ケニングでは「ヴィングニル」と「フローラ」と呼ばれる夫婦の養子となったトールは、当時は優柔不断かつ臆病とみられる性質の持ち主だったが
(故に父オーディンは厄介払い・または鍛えられることを期待して人質に出した)
養父母のもとでヴァン神族独自の技術・知識を身に着けて、「アースガルズとミズガルズの守護者」と呼ばれるほどのアース神となった。
では、ヴァン神族が教えた「値打ちがある技術や知識」とは一体何か? ということですが。
可能性その1を探る手掛かりは、ニョルズの息子フレイになります。
ヴァン神族は主に豊穣に関わる技能を持つ神の一族、と考えられていますが
アース神族に人質として送られたフレイは、「神々の戦闘指揮者」「アースたちの守り人」という称号を持ち、戦闘的な役割を賦与されています。
ラグナロクでも、無くした剣の代わりに鹿の角を振るって巨人ベリを倒し、倒されたと言えども炎の巨人スルトに果敢に立ち向かってますし。
(スノッリのエッダ『ギュルヴィたぶらかし』第37章では、「フレイは素手でベリを殺すことだってできたのだ」とコメントされてたりします)
フレイ自身、元は穏やかだったがアース神族入りしてから周りに影響されて(笑)戦闘的になった、ということかもしれませんが
上述の『ユングリンガ・サガ』の記述からすると、ヴァン神族はアース神族と互角に戦い、ミーミルを斬首して首をオーディンに送り付けたりと
アース神族に負けず劣らず好戦的というか、戦闘面については一歩も引けを取らない印象を受けます(笑)
つまり、アース神族にはない戦闘技術。これがまず第一に"オーディンがトール=ヘーニルに身に付けさせたい"ものだったのではないかと。
もう一つの手がかりは、ヴァン神族に属するニョルズ・フレイ・フレイヤ全てが関わっている機能、豊穣ではないかと思われます。
トールは、山羊に引かせた戦車の音が雷鳴であるとされる「雷神」です。
(余談ですが、『詩語法』で引用されている詩の中には、トールの山羊をある巨人が奪い、それをトールが取り戻した、という神話が語られているようです。※1
ミョルニルが巨人スリュムに奪われた神話と同様、山羊もまたトールにとっては自身の神性の裏付けになる重要な存在、と言えるのではないでしょうか。)
雷は多くの場合雨を伴い、よって豊穣と大いに関連し、神話内でトールが豊穣に携わっているような記述はありませんが、
彼の妻シフ(シヴ)は豊かな黄金の髪を持つとされ、彼女の髪は小麦などの豊かな実り、と解釈されることが多いようです。
(シフ本人、いや本神? はアース女神である、と『詩語法』で言及されてはいますが。ただし詳しい出自・彼女がそもそも何を司る女神であるのか、などは不明です)
正直少し弱いですけど(^^;)トール=ヘーニル説に基づき、トールがヴァン神族に送られて身に着けた「値打ちがある技術や知識」とは
第一にヴァン神族独自の戦闘技術・第二にアース神でありながら「豊穣」に関わる能力を身に着けること。
だったのではないか、と思われます。
アース神族に「豊穣」そのものを技能としている神は確かに見当たりませんしねぇ。
また『ユングリンガ・サガ』からは、ヴァン神族は和平後アース神族から送られた人質を自分たちの王にするつもりだったことが伺えます。
これはつまり、彼らは戦を通じてアース神族に感服した面があり、アース神を自分たちの王にするということはアース神族との同化・または傘下に入ることを意味します。
突き詰めればアース対ヴァン戦争の後、ヴァン神族はアース神族に同化吸収された可能性もあるということです。
戦争の後、ヴァン神族が北欧神話に全く登場しなくなるのはそういうことではないでしょうか。※2
ヴァン神族がそういう状態になったということは、トール=ヘーニルも人質でいる必要はなくなり、
養父母「ヴィングニル」「フローラ」の所からアースガルズに帰還できた、ということかもしれません。
(ヴァン神族は構成員のほとんどが名前すら不明の存在なので、トールの別名をもじった仮名を使う必要があったのかも?)
続きまして、『詩のエッダ(旧エッダ)』『詩語法』に、まだまだもうちょっとだけあった!w ヘーニルの出番についての考察です。
その出番とは、"呪われた黄金"そして北欧神話随一の勇者・シグルズの竜退治伝説に繋がるアンドヴァリのエピソードと、
神々を一度は老化にまで追い込んだ強敵・巨人シャツィ登場のエピソードです。
それなりに重要度の高い神話に、ヘーニルは出るだけは出てます。冒頭にほんのちょっとだけ。
しかもハッキリ言って、いてもいなくてもどうでもいいような立場で!(笑)
要するに両神話とも、オーディン・ロキ・ヘーニルが連れ立って旅をしていたところに事件が起こるという構成で、
事を起こすのは結局のところ両方ともロキです。
ロキが石投げで殺したカワウソは、
オトという男(現在の英語でカワウソはotterです。女神フレイヤのお気に入りというオッタルの名前はそのものズバリのようですが……。)の変身した姿であり、
オトを殺してしまったロキ・ひいては神々全員が責任を負わされ、その父フレイズマルとオトの兄弟たち(ファヴニールとレギン)※3 に縛り上げられ、賠償金を要求されます。
ロキはアンドヴァリというたくさんの黄金を持つ小人を知っており、アンドヴァリを捕まえて彼から黄金を巻き上げ、
さらには彼が隠そうとしていた、財産を増やすことのできる腕輪まで取り上げました。
財産を全て奪われたアンドヴァリは、自分のものだった宝に呪いを掛けます。
その腕輪は所有する者すべての命取りになるぞ、誰も私の富で得することはないと。
ロキは賠償金をフレイズマルに渡して後に、宝に呪いが掛けられていることを明かします。
この腕輪と黄金は直後にフレイズマル親子の分裂と父フレイズマルの死を招き、その後シグルズをはじめとする何人もの王たちの破滅の元となりました。
(ドイツのオペラ作曲家・R=ワーグナーは、この挿話を『ニーベルングの指環』4部作の序章『ラインの黄金』の下敷きにしています。)
三神が旅をして、肉を焼いて食事しようとしていたところを邪魔したのが、鷲に化けた巨人シャツィでした。
怒ったロキは棒を振り回してシャツィを叩き落そうとしますが、棒がくっついて取れなくなり、逆にシャツィに振り回される結果に。
シャツィはロキの解放の条件に、若返りの林檎を育てている女神イドゥンを誘き出すよう命じ
イドゥンがシャツィに攫われた結果、神々は若返りの林檎を口に出来なくなり老化、という一大ピンチを迎える羽目になりました。
ロキがイドゥンと一緒にいた=彼女の失踪に手を貸した事がバレて脅迫されたロキはイドゥン奪回に出かけ、
イドゥンを取り返し、鷹に化けて逃げるロキを再び鷲化して追ってきたシャツィはアースガルズの神々が用意した焚火に突っ込み、落下して神々に殺される最期を迎えました。
(若返りの林檎の要素も、上述の『ラインの黄金』では効果的に使用されています。)
おわかりですね。
ヘーニルはほんとにただいるだけ・それも冒頭だけで何ひとつ活躍していません。まさしく空気です(笑)
これならその場にいるのもあとはオーディンだけで(アンドヴァリの腕輪を欲しがり隠すシーンがあるので)、っていうか、
何ならロキ一人でも十分じゃないかって感じなのですが……。
しかしこれらの話、ヘーニル=トールと見るなら、その背後には僅かながらも確実に、トールの影が見え隠れしてたりするのです!
続きます。
※1 『詩語法』第11章(52)に(またブラギ(詩人)は歌った。)巨人スリーヴァルディの九つの首を割りし者(トール)は
名も高きシンプリ・スンブル(巨人?)のところより 無事にその輓獣をつれ戻せり とあります。
※2 ヴァナヘイムに人質に行ったヘーニルが、『巫女の予言』終盤でラグナロク後の新世界に現れた事から
ヴァナヘイムはラグナロクに影響を受けない場所にある、と解釈している書籍もあります。
個人的には、それならヴァナヘイムの神々がラグナロク後にもっと大勢出てきてもいいんじゃないのかな? とも思えるのですが(^^;)
※3 この後兄弟たちは賠償金を分けてくれるよう父に要求し、断られたので殺害します。
兄のファヴニールは宝を独り占めにし、竜に化身してその後シグルズに倒され、
弟のレギンはシグルズを勇者に育て上げますが、彼を裏切って殺そうとしたためシグルズに殺されました。