流雲涙華〜第一部 風間火月対八角泰山〜 封字の退魔師 |
(オヤジ……一体どこに行っちまったんだよ?) 最後に見た義父の笑顔を思い出した火月は、ふと思いを馳せる。 「火月哥々?」 その耳に、大陸の娘の少し遠慮がちな声が届き、火月は気持ちを切り替えた。 睨みを利かせた視線を娘へ向ける。 「とりあえず、おめぇに言う事ぁ一つだ。すぐ大陸に帰れ!」 そう強く言い捨てた火月に、劉淑鈴は目を見張った。 「火月哥々、」 「つきまとわれちゃあ邪魔だっつったろ!? 何遍も同じ事言わせるんじゃねえ! ガキの遊びじゃねぇんだよっ!」 火月の有無を言わさぬ調子に言葉を遮られ、娘は口をつぐんだがすぐさま彼を睨みつける。 「帰りません。恩のある火月哥々にこんなこと言いたくありませんけど、 あまり武侠をバカにしないでください!」 「ああ、そうか。」 憮然と言い捨てたと同時に、火月が足先を動かし、 次の刹那に跳躍する。 彼の姿は、瞬きの間に淑鈴の視界から消えようとしていた。 大陸の娘は刹那唖然としたが、 「……もぉっ!」 頬を膨らませると、火月を追うべくすぐさまその場から跳躍した。 ひとつの赤い風が、連なる軒を吹き抜けていく。 刹那の後に、もうひとつの風が追う。 火月は空を翔ける如くに街道を疾走する。 大陸の娘が、その後に続く。 いつしか町並みは途絶え、疾駆するふたつの影は薄暗い山道に入り込んでいた。 夕暮れの赤い光を受け、火月は前方を睨んでいる。 追ってきた娘が突如立ち止まり、目前の光景に愕然とし、 すぐさま非難の視線を火月に向けてきた。 娘の足元の寸前にぽっかりと空いた、深く暗い穴。 その絶壁にたったひとつ渡された吊橋は、すでに役目を果たさなくなっている。 手前の橋板はすぐさま途切れ、淑鈴の目前同様に深い空虚のみが口を開き 綱のみが前方へと延び、火月の立つ中央の橋板に繋がっていた。 橋は、繋がってこそいるものの半壊状態でこの山間にあった。 淑鈴はぐっと火月を睨みつけている。 二人の髪が吹きわたる風になびく。 「さっさと雲飛の爺さんのとこに帰れ。余計なことに首突っ込むんじゃねえ」 火月は娘を見据えながら言い放った。 半壊した橋を隔てて、火月を睨み返す娘が大声で怒鳴る。 「私は、お父さんに言ったんです! 恩ある人が苦境にある時に、何もしないで大人しくしていられないって!」 火月は黙したまま娘を見ている。 「お父さんは、私が立派に武侠の精神を育んだと喜んでくれました。 笑いかけてくれました。だから、葉月 おめおめ帰れません!」 叫ぶなり、娘の足が地を蹴った。 「オイッ! 無茶すんなおめぇ!」 火月がそう叫んだが、娘は渡し綱の上に飛び乗り、そこを軽々と駈けてきた。 大陸の武侠の、軽功の技である。 「やっ」 淑鈴が火月の立つ橋板へと飛び移ろうとした時、 「あッ!」 その足が虚空へと滑り落ちた。 火月は咄嗟に娘の手を掴む。 ほとんど重量が感じられず、均衡を崩しそうになったが咄嗟に縄を掴み、踏ん張る足に全力を込めた火月の目に、 虚空にぶら下がった葉月の姿が映った。 (葉月ッ!?) 叫びそうになったが、次の刹那に葉月の姿は大陸の娘へと変わる。 火月は腕に力を込め、娘の体を橋板の上に引き上げた。 「だぁからッ! 無茶すんじゃねぇっつったろうがよ!」 引き上げられ、火月の怒鳴り声を浴びた娘は俯いたまま、 「ごめんなさい」 小さく呟いた。 月は山吹色の光を虚空に散らし、 風間の里の家屋は闇の中に沈んでいる。 「蒼月様」 風間忍群に属する忍びのひとり、 「掴めましたか」 障子の向こうから、冷徹な声が問う。 「はっ。例の陰陽師の一門、その長が姿を消したとのこと」 半ば逆立った荒い頭髪と、野生的な鋭い容貌を持つ風間の忍び、畿望はなおも報告を続ける。 「長の消えた邸には、一門の者たちの異様な屍骸が累々と残され、 京の街は騒ぎとなっております」 「なるほど」 静謐な声が冷静に発せられた。 「おそらく、彼らは長によって魔への供物とされたのでしょう」 控える畿望に対し、なおも蒼月の冷徹な声が投げかけられる。 「京に人形師の出没した痕跡が残っているかどうか。その件は 「戻りましてございます」 いつの間にか、畿望の背後にもうひとりの忍びが控えていた。 やや細面の長髪の男である。 「陰陽師の邸の近隣で、先頃大工たちが突如錯乱し殺傷沙汰を引き起こしました。 取り押さえられた大工のひとりが、仕事場の中で機巧人形の踊りを見たと言い張ったとの事です」 「やはり現れましたか」 その声に、畿望と繊月の両者は心身に緊張を覚えた。 「貴封印。その昔、京の都を霊的に支えていたとされる陰陽師の一門。 歴史の流れの中で、貴封印は公家たちのために祈祷をなす鬼諷院流と、 民草の為に祈祷をなす花諷院流とに別れ、さらに本拠地も東西に分かたれたそうですが」 蒼月は言葉を続けた。 「京に本拠地を置く鬼諷院の長。魔に心惹かれ、人形師と通じたと見て間違いないでしょう」 「蒼月様!」 もうひとり、忍びが姿を現した。抑えつつも緊迫した声である。 「 首の後ろで長い髪をまとめた忍びが、障子の前に控える。 「青龍に異変が」 障子がすっと開かれ、風間蒼月がその感情を表さぬ面を月光の下に見せた。 「どのような」 「先ほどから刀身が震え、共鳴の音を放っております」 蒼月の表情は何も変わらなかったが、彼は内心でだけ眉を顰めていた。 (水邪の残り気が共鳴している……? すると炎邪が何らかの活動を始めたと?) 「確認します」 そう言い置き、三人の忍びの前を通り過ぎた蒼月は心に呟いた。 (やれやれ。厄介な事ですね。私の手を離れてまで手間をかけさせますか) 朝の清々しい空気と光の中、峠の下り道を、覇王丸と紫のナコルル、つき従うシクルゥが歩いて行く。 「あなたも因果な生まれつきよねぇ」 肩の辺りまで切りそろえた髪に指を通しながら、紫のナコルルは茶化すように覇王丸へ言った。 聞き流しつつ、酒瓶を口まで持っていきぐいとあおる彼に、なお揶揄するような声がかけられる。 「天草四郎、羅将神ミヅキ、そしてユガ。まるでウエンカムイをひきつけるために生きているみたい。ねぇ、覇王丸?」 「フン」 覇王丸はただ不敵に笑みを浮かべ、こう言うのみである。 「強ぇ奴が向こうから寄って来るなら歓迎だぜ」 二人を見ていたシクルゥが鼻を鳴らした。 覇王丸と紫のナコルルは、同時に前方からやって来た人影に目を留める。 「……なにあれ」 瞬きながら紫のナコルルが言った。 前方に現れた巨大な人影。 大きな歯を上下とも剥き出しにし、にっかりと満面に笑みを浮かべている、細い目の大男がのしのしと大股に歩いてくる。 右腕に奇妙な大筒を取り付け、左の肩には見るからに質の良い、赤い着物をまとった小柄な少女が腰掛けていた。 「もしかして子取りとかかしら?」 「子取りにしちゃ、肩の子供は随分穏やかな顔をしてるけどな」 「いい人だと思わされてるだけかもしれないじゃない?」 紫のナコルルが返し、腰のチチウシの鞘を撫でる。 「それにしても、体つきがどうしようもなくメチャクチャな奴なら私の知り合いにいたけど」 悪戯めいた色を目に浮かべ、紫のナコルルは楽しげに笑ってみせる。 「あいつは顔つきがハチャメチャよね?」 そう言っている間にも、肩に少女を乗せた大男は二人の方へずんずんと大股に歩いてきた。 そして彼は、二人の前で立ち止まる。 「本日は、良い日和でございますな!」 大声が轟き渡り、紫のナコルルはむっと顔をしかめた。 「風光明媚、誠に風情あり! むっ!?」 大男の語尾は不審めいた調子を帯びたが、その顔は笑ったままだった。 「失礼ですが、あの有名な剣客”娑婆金剛”の覇王丸殿と、蝦夷の巫女剣士殿とお見受けしましたが?」 「あんたは?」 指で顎を掻きつつ、覇王丸は男に尋ねた。 「 「さるお方なァ……柳生ってことはもしかしてあんた、十兵衛のおっさんの親戚なのかい」 磐馬と名乗った大男は、大声でにこやかに答えた。 「年に幾度か顔を合わせる程度ですがな! 覇王丸殿におかれましてはここ数年起きた数々の凶事、 それらをことごとく鎮められたとか! そして、はるばる蝦夷から来られた巫女剣士殿も重要な役割を果たされたと……」 「ちょっと。何か勘違いしてない? 私は別にこいつにくっついて旅してたわけじゃないけど」 腰に右手を当て、紫のナコルルが磐馬に言い放つ。 「ついでに言うと、その凶事とかに立ち会った巫女剣士はこいつだけじゃねえしな。 それと、俺も別に後始末のためにあちこち渡り歩いたわけじゃねえ」 「おや? それは失礼致した。何にせよ、お目にかかれて光栄に思いますよ!」 「磐馬」 肩の上に腰かけた少女が口を開いた。 「それではこの方たちは、磐馬のように異変を収めるために旅をしていらっしゃるの?」 覇王丸と紫のナコルルは少女に目を移した。少女は磐馬の肩の上から二人に頭を下げる。 「はじめまして。わたくしは雪と申します」 「よろしくな」 「はじめまして。あなた、その磐馬さんとどういう関係?」 挨拶と同時に発せられた紫のナコルルの問いに、少女はにっこりとほほ笑んで答えた。 「磐馬は、我が藩の本丸警護役なのです」 「え?」 紫のナコルルが訝しげに眉をひそめる。 「本丸ってこたぁ、どっかの藩のお姫さんかい? 勝手に國を離れて大丈夫なのか」 「覇王丸殿。後生でござる、どうかこの事はご内聞にお願いできませぬか。」 磐馬の大声が割り込んできた。といっても、先ほどに比べれば大分勢いがない。 彼なりに声をひそめたのだろう。 「雪姫さまは、お父上を心配するあまりに某についてこられたというだけなのですから」 「どういうことだ?」 「っていうか、あなた人にお願いする時もニタニタ笑ったまんまってどういうつもり? ふざけてるの?」 紫のナコルルの非難めいた声が飛ぶ。 「申し訳ござらぬ。しかし某は決してふざけて申しているわけではありませぬ。 この顔は如何ともしがたいのです。子供の頃、からくりを作る際に火薬の扱いを誤って以降、笑いがとれなくなり申した!」 「磐馬はこの笑顔で皆を明るくしてくれます。わたくしも、磐馬の笑顔と大きくて真っ白なかわいらしい歯が大好きです」 磐馬の肩の上の雪姫がにっこりと笑った。 「かわいらしい、ねぇ」 眉をひそめつつ、紫のナコルルが小声で呟く。 シクルゥが、クゥと小さく鳴いた。 一行は峠の茶屋で一服する。覇王丸と狼シクルゥを従えた紫のナコルルは、磐馬の旅立ちの理由を聞いた。 「本来漏らすべきではない話なのですが、魔を剣で降した覇王丸殿とナコルル殿であれば……」 そう前置きして磐馬は語った。 雪姫の父にして彼の仕える主君である藩主が突如乱心し、磐馬の調査の結果その原因は、 ある人形師の興行なのではないかと思われることを。 「人形師。ってことは、ユガの仕業か」 「人形師をご存知でいらっしゃるか?」 磐馬の声は真剣そのものだったが、その顔は相変わらず笑っていた。 「あんたは関わらねぇ方がいいかもしれんな。そいつは人間じゃねぇ、魔界から来たあやかしだ」 雪姫が小さく悲鳴をあげた。 「姫様! 姫様、ご心配めさるな。相手がたとえ魔物であろうと、姫様を悲しませる不届き者、 この磐馬が木っ端微塵にしてご覧に入れましょう!」 怯えて顔を伏せた雪姫を慰めながら、磐馬は力強い怒りのこもった声を、笑顔のままで轟かせる。 「落ち着きな。そんな大声じゃ漏らしたくねぇ話が漏れちまうだろ? 現に」 覇王丸は店の奥を見やった。 「聞かれちまったみたいだぜ」 「あら、あなたも気がついてたの覇王丸」 紫のナコルルがふっと笑みを浮かべる。 「そこじゃ聞き辛ぇだろ。出てきちゃどうだ?」 店の奥から、一人の男が姿を現した。 その手に布に包まれた巨大な長物を携え、鋭い光を宿した半眼を眼鏡で覆った男は黙したまま覇王丸を見た。 「魔が胎動するときは、後ろ暗いところのある連中が多かれ少なかれ引き寄せられてくるものだけど、あなたもそうなの?」 男は一言も発さず、そう声をかけてきた紫のナコルルを見る。 しばし、冷ややかで沈着な視線を彼女に向けていたがやがて口を開いた。 「娘御。どうやら退魔の道の心得があるようだが」 彼は口を閉じ、その瞳が冷ややかさを増す。紫のナコルルは挑み返すように男を見据えた。 「退けよ。此度現れた魔は、功名心で首を突っ込んでいい相手ではない」 次いで男は、覇王丸と磐馬を一瞥した。 「お主らもだ。武具を持ち邪気を宿した人間は、人形師に使われる傀儡と堕ちる」 「木乃伊取りが木乃伊に、ってやつかな」 男の言葉に、覇王丸がにやりと笑う。 「その出で立ち、失礼ではありますがそちらはもしや、封字の業師…… 朗らかな笑顔のまま、立ち上がった磐馬は男に声をかけた。 男はゆっくりと視線を磐馬に移したが、一言も発さない。 「そなたは先ごろ、争いを避けご家族と共にお山に隠棲されたと風の噂に聞き申したが?」 「お主には関わりなきことであろう」 男が、口を開いた。 「八角泰山、か。すると、”大師流封魔術”こと”封字の法”の使い手かな」 覇王丸の言葉に紫のナコルルは彼を見る。 「じゃあ、こいつはレプンモシリで有名な奴なの?」 「少なくとも、俺の師匠の枯華院の和尚と、武蔵の学者先生は知ってたな」 「ふぅん。それはどういう流派なのよ?」 「巫女剣士殿! 大師流封魔術とはかの弘法大師を祖とすると言われている、魔物封じの流派のことですよ!」 磐馬が、紫のナコルルへ大声で呼ばわった。 「お節介焼きねぇ。別におじさんには聞いてないってば。」 紫のナコルルは肩を竦め、再び覇王丸に目を向ける。 「弘法大師っていうのは、確かレプンモシリのオンカミクルだっけ?」 「ま、そんなもんかな。今から千年ほどの昔、大陸から密教を伝えた御仁だ。 弘法も筆の誤り、って諺があるくらい、書の道にも通じてたらしいぜ。」 「某も噂を聞いたのみにすぎませんが、 なんでも八角殿の手にする神槍は唐天竺由来の由緒ある品で、弘法大師が直に持ち帰られたという逸話もあるそうですぞ! 注入する”心(しん)”によって、その姿は刃と筆先とに変化するとか!」 磐馬の説明にうるさそうに眉をしかめる紫のナコルルだったが、 その男……八角泰山が歩を進め、店先に出たのを目に留める。 黙したまま立ち去ろうとする、その背を追う声。 「八角殿! もしやそなたは人形師を追っていらっしゃるのですかな!?」 磐馬の大声に、八角は立ち止まる。 「そうであるなら同じ目的を持つ者同士、共に人形師を追いませぬか!?」 振り向くことなく八角は告げた。 「私はその必要を感じぬ。お主らは魔の件より退かれよ。」 八角の着物の背には、奇妙な文字が縫い付けられていた。 筆の字の草冠部分が刃の文字を連ねた形になっている。 その字を覇王丸たちの目に見せ付けたまま、封字の業師の姿は遠ざかって行った。 |