第一章 尋夢 Searchin’ For The Dream(2) YUMEMIGUSA〜夢の浮橋・壱〜 |
ひたすら逃げ、隠れるだけの生き方を選ぶかと。 あの時、あの方は私にそう言われた。 ゆっくりと、瞼を開く。 薄紫の靄が一面に広がり、他のものは何も目に映らない空間の中。 此処は、何処。 此処はわたくしがいるべき場所なのだろうか? ぼんやりとそう思いつつ、 命はあても無く、靄に包み込まれてただ彷徨う。 ふと見やると、靄の中に一部、薄桃色に変じている箇所があった。 その向こうから、誰かが歩いてくる気配を、命は感じ取る。 「誰? 誰なのですか?」 身構えた命の脳裏に、このところ夜毎夢に現れ、禍々しき声のみを響かせる女の影がちらつく。 「……あんた、誰。」 聞こえてきたのは、少しつんけんした響きの少女の声だった。 薄桃色の靄をまとい、そして払うようにして、 ひとりの少女が、命の前に姿をあらわした。 小柄で幼い顔立ちだが、引き締まった少しきつい表情。 後ろで髪を持ち上げて束ね、桜を思わせる紋付きの、朱鷺色の羽織を纏い、 白い脚を半分むき出した姿は活発な印象を与える。 「なんか、いいとこのお嬢さんみたいだけど」 「……貴女は」 「人に名前を聞きたきゃ、自分から名乗りなよ。」 ぶっきらぼうに少女は言った。 「え……そうですね。わたくしは、命と申します。」 「ミコト?」 少女は小首をかしげ、疑わしげな表情で命を見る。 「どっかで聞いた事あるような気がするけど……。どこだったっけ。」 首をかしげて考え込んだ少女は、命の視線に気づき顔を上げた。 「あんたも名乗ったんだから、一応名乗っとく。あたしは吉野凛花。」 「吉野、凛花さんですか……。」 凛花と名乗った少女は、軽く周囲を見渡し再び命に目を据える。 「これ、夢だよね? なんだか随分現実感あるけど。お互い自己紹介なんかしちゃったしさ。」 「夢……」 命は刹那思いを馳せる。ふと記憶から零れた言葉があった。 「夢の通い路……夢の浮橋、という言葉をご存知ですか?」 「歌の文句だっけ?」 「昔、わたくしを育ててくださったお坊様にお聞きしたのですが」 命は目の前の少女に話し始める。 そして、これまで自分と同じ年頃の娘と話す事などなかったことに思い当たった。 同じ年頃の娘といえば、見習いである青袴の朧衆がそうなのだが、 彼女らは命と親しく話せる立場にはない。 「夢の浮橋とは、人が眠りの中で往来する道のことだそうです。 夢に人の姿を見ることは、その人の魂が夢見る者の心に入ってくることとされ……。 夜毎夢の中で、人々の魂は行き交っていると言います。その道はとてもか細く、あやういものだと……」 少女に語りつつ、命は思い起こす。 かつて、飛騨山中の古寺である枯華院で過ごした幼い頃の日々。 その枯華院の、小柄な老住職の柔和な笑みを。 (お爺様。奇妙な夢を見るのです。 夢なのに、眠ったときに見るだけのもうひとつの世界こそが本当の世界であるように思われて、 私が本当に生きているのは夢の中であるような……そんな気持ちがするのです) 髪を肩のところで切りそろえた幼き日の命は、不安を湛えた目で老住職を見ていた。 (他の人もそうなのですか? それとも、違うのでしょうか? 骸羅小父様は、夢なんてすぐ忘れるとおっしゃっていました。 お爺様、私はおかしいのですか?) (命や) 住職の穏やかな、優しい声が耳に染みとおってきた。 (何も、おかしいことではないぞ。お前はそういった世界に交わる力が、人よりも強い。ただそれだけのことじゃて) 命は、その紅い目を伏せ、また開く。 「その方は、そうおっしゃっていました。」 「……ようするに、これはやっぱり夢ってことだな。」 凛花と名乗った少女は腰に手を当て、再び辺りを見回しつつ呟いた。 「どうも最近、変な夢を見ることが多い気がする」 「そうですか……」 わたくしも、変わった夢を見ます。 でも、それは夢にしてはとても生々しく、本当に恐ろしい。 そう少女に……凛花に告げようとして、命は口を閉ざした。 告げたところで、わかってもらえはしないのではないかと、そんなあきらめに似た気持ちが命の口を封じたのだった。 今のこれと似たような事態を、命はふと思い出す。 そう、あの方の前では。 わたくしは、自分の気持ちを素直に告げることができない。 一番、聞いて欲しい、一番わかって欲しいと思っている方なのに。 九鬼 刀馬さま。 天幻城で、覇業三刃衆の同志として行動を共にしている、あの方。 刀馬の姿が命の脳裏に浮かぶ。抜けるように白い肌と、短く頭上に逆立つ薄く金色を帯びた髪、 鼻筋の通った顔立ち、冷たい紅い瞳。 (わたくしの他で初めて出逢った、紅い瞳) ”和狆お爺様、覇王丸小父様、骸羅小父様。申し訳ありません” そのように記した置手紙一つを残して、育った枯華院を出て以来、命の雪の如き白い肌と紅い瞳は、 人々の奇異の目に容赦なく晒され、いつしか命は顔を隠し、人目を避ける旅路を余儀なくされていた。 そしてある時彼女は、ならず者の一団に追われて山に逃げ込んだ。 そこを通りがかり、刀をもってならず者たちを阻んでくれた男。 彼が九鬼刀馬であった。 「失せろ。紅煌を貴様ら如きの血で汚すまでもない」 数人を瞬時に叩き伏せ、冷徹に告げた紅い目の男は、 傍目には隙だらけとしか見えぬ立ち姿のままで、ならず者たちを完全に威圧していた。 彼がその場で見せた太刀筋はまさに一筋の雷光と呼ぶに相応しい、一撃必殺の威力を持っていた。 斬りかかれば、攻勢に転じたその一瞬の隙に斬り捨てられる。 これ以上この男に向かう事は死に直面する事と悟ったのか、 ならず者たちは怪我を負った仲間を背負い退いて行った。 彼自身が研ぎ澄まされた刃。 事が片付いた後、仄かに紅く光る刃を鞘に収めた男は命を一瞥する。 頭巾の影に顔を隠しながら、命は目を伏せた。 これまでの旅路に行き違った人々の、己を突き刺す奇異の眼差しが過ぎったためであった。 「お前は」 男が口を開いた。 「ひたすら逃げ、隠れるのみの生き方を選ぶつもりか」 命は目を上げた。 紅い目と紅い目が見交わされた。 自分以外で初めて見た。やっと出逢うことの出来た、紅い瞳。 撃たれたように茫然と、それに見入っていた命は、自分がすべきことに思い至り、男に頭を下げた。 「お助けいただいて、感謝いたします。わたくしは命と申します。 ……あなた様のお名前は?」 如何なる思いも窺わせぬまま、命を見据えていた彼は言った。 「九鬼刀馬だ」 「ところで、あんた、ミコトって言ったよね?」 突然、凛花の声に険しさが増し、物思いを破られた命は彼女を見た。 「奴らの名は……九鬼刀馬、朧、そして命。まさかあんた、あの覇業三刃衆のひとりなのかい?」 「……ええ。」 凛花は身を引き、その手が腰の後ろを探る。 が、探すそれがない、ということに気づいた彼女は、強き光を宿した大きな目で命を睨みつけた。 「あんたたちが、この離天京を絶望に追い込んでるのか!」 会ったばかりの少女のその強い言葉が、命の心に突き刺さる。 離天京を絶望に追い込む、覇業三刃衆。 わたくしは紛れも無く、その一員。 助けてくれた男の名を知った命は、彼に問うた。 「九鬼様は、この先どちらに行かれるおつもりなのですか?」 刀馬は命を見やり、すぐさま視線を彼女から外す。 山道の脇の小岩に腰を下ろし、それきり一言も発さない。 しばらくの沈黙の時を、命は黙って待っていた。 手にした刀の、鞘に収められた刀身を己が身に凭せ掛け、押し黙っていた刀馬がようやく口を開く。 「お前は、牢人街と呼ばれる街を知っているか」 「牢人街……?」 呟き、命は静かに首を振った。 「いいえ」 「江戸近海の孤島に、幕府によって作られた街だ」 命にかけられている言葉のはずだが、刀馬は命に目を向けない。 「元は流刑地で、今でも幕府の詰所は残っている。だが事実上、 ほぼ幕府の手を離れた見捨てられた島となっている。そこなら追っ手を振り切れようし」 刀馬は立ち上がった。 「俺の望むものも得られる気がしてな」 「九鬼さま」 身を乗り出し、命は彼に告げた。 「あなた様の旅路に、わたくしを同行させていただきたいのです。」 刀馬は、その紅い目のみを動かし、命を見る。 彼はこれまで、その表情を一度も変えていない。 その表情が変わる事など、在り得ないことのように思われた。 「好きにしろ」 やはり表情には微塵の変化も無く、刀馬は言った。 「お前に、罪人と行動を共にする覚悟があるならばな。」 「罪人……」 命は、小さく刀馬の言葉を呟く。 「俺は父を弑し、役目を抜け追われている。巻き添えを食わぬとも限らんぞ」 「お父様を……ですか?」 「義理の父だがな」 なぜです、と問おうとして命は口を閉ざした。 刀馬の表情には罪悪感も、そして蛮勇を誇示する愚かしき矜持も、どちらも欠片も見出せない。 なぜかはわからないが、 刀馬に義父を弑させた心は、決して良きものではないが、悪しきものとも言い切れないような気持ちが 命の心を強く占めたのだった。 すなわち命は、 その時にはすでに、刀馬の犯した罪を赦していたとも言えよう。 「刀馬さま」 命は決意を声に篭め、刀馬に強き視線を向ける。 「御供させてください」 彼女の人生で初めての、己で己の道を決した瞬間であった。 「わたくしもまた、この瞳のために人に受け入れられない定めなのです」 刀馬は命を見据えたが、 承諾も否定も口にすることなく立ち上がる。 彼は紅煌と呼んだ刀を手に、命に背を向け歩き出した。 命はその背の後に、歩みを揃えた。 そして二人は共に海を渡り、島に入り、新月の夜の闇の中、 かつて牢人街と呼ばれた町……離天京の入り口に当たる港へと辿り着いた。 その時闇の中に、二人を迎え出た人影があった。 それは複数の、巫女装束をまとう女たちであった。 「お迎えにあがりました」 先頭の巫女が二人に頭を下げる。 「お前たちは」 「我らの主より、お二人をお連れするよう言い付かっております」 刀馬が重ねて問う。 「お前たちの主とは、何者だ」 「覇業三刃衆の朧が我らの主。そして、共に覇業を進める同志となる、二振りの刃が……あなた方お二人なのです」 刀馬の背後の命は、巫女の言葉に瞬いた。 「ならば何ゆえ、その朧とやらが自ら赴かぬ」 刀馬は冷たく言い捨てた。 「主は老体でありますゆえ、ご無礼仕りますがあちらに見える城にて」 巫女は闇の彼方を指差した。 内部で照らされているのであろう灯火の赤い光に、辛うじて浮かび上がる城の影が、その細い指先に映る。 「お二方をお待ち申し上げております」 刀馬は、巫女の指先の闇に浮かんだ城を見やり、背後の命にちらりと目をやった。 命は、その紅い目を見つめ返し、頷いた。 天幻城という名で呼ばれるその城に、巫女たちの案内に従い入城した刀馬と命は、 一面の蝋の灯火の中に座している、目を伏せた小柄な老人を正面に見た。 「来られましたな」 老人はにこにこと、人の良さ気な笑みを浮かべ、顎鬚に手を添えつつ二人を迎えた。 「おう、おう……大師様が予言なされたとおりじゃ。お二方とも紅い目をお持ちでいらっしゃる」 「予言……?」 命は小さく、問い返すように呟く。 「そなたらがこの天幻城に来たる事、二十年の昔に定められておりましたのじゃ」 老人は閉じた眼(まなこ)を開いた。 紅い色の瞳があった。 朧というこの老人の語りによれば、彼の師に当たる慈限大師…… かつては徳川幕府を守護する結界を作り出すことに尽力し、幕府を裏から支えた、来歴のはっきりしない影の中枢人物……は、 二十年前、即身仏となる行を行い入滅する直前に予言を残していたという。 ”今より二十の年と十と三日の後、この地に二匹の凶龍が現れる。 その者たちを我らの内に取り込むことができれば、新たな武神国家が誕生するであろう。” 「ワシは大師様の御遺志を継ぎ、幕府の支配する腐り切った体制を変革すべく力を尽くして参りました。 全ての民を安らがせ、真に力を持つ者のみが君臨する新たな國を作り上げるためにお二方の力、 この老骨に貸してはいただけまいか」 予言、という言葉を聞き、朧の話を聞き、命の体の中でざわめく何かがあった。 (何? これはいったい、何?) これまで覚えた事の無い体内のざわめきは、血の中を駆け巡る昂ぶりへと変化していった。 瞬時に、命は悟った。 (わたくしは、ここへ来るべくしてやって来た) ということを。 「真に力を持つ者のみが君臨する國、か。面白い」 命の横で刀馬が、無表情に言い放った。 朧の顔に、満足の表情が浮かぶ。 「ここ天幻城が、我らの覇業の拠点となりまするぞ。刀馬殿、命殿」 赤々と揺らめく焔が、三人の紅き目を持つ者たちを照らし出している。 「我らは今より同志として、この天に見放されし京(みやこ)に君臨し、武神国家建設のために戦いましょうぞ」 朧の好々爺めいた笑みが二人を捉えた。 二人はそれぞれ別に、天幻城に居室を与えられたが、 暫くの後。一度だけ、命は刀馬の訪問を受けた。 「命」 命は居住まいを正し刀馬を見る。 「朧に刀を譲り受けたと聞いたが」 「はい。わたくしに最も相応しい、霊力を帯びた大陸由来の刀だそうです。朧さまの武器庫に置かれていますが」 「なるほど」 刀馬は口をつぐみ命を見ていたが。 「生き残りたくば、あの老いぼれを信用するな」 衝撃的な言葉を唐突に、だが冷静に発した。 命の紅い目は、彼に吸いつけられたかのように注がれる。 「奴は己の目的のために、何を踏み躙っても意に介さぬ類の人間だ」 言うなり刀馬は命に背を向け、彼女の居室を立ち去った。 「俺と同じようにな」 刀馬の姿が襖の向こうに消える直前に発せられたその言葉が、命の元に残された、小さく重い置き土産となった。 信じます。刀馬さま、それでもわたくしはあなたを信じます。 あなたのためになることならば、どんなことでもしてみせます。 命は目を伏せ、片手でその白い顔を覆う。 「凛花さん……でしたね。わたくしは……できることなら誰も傷つけたくはないのです」 彼女は目を開く。 紅い光に、目前の少女が映し出される。 「でも、天幻城はわたくしの、たったひとつの居場所なのです!」 「そのあんたの居場所のおかげで」 凛花の非難を帯びた視線が命を射抜く。 「何人の人間が泣いてると思ってるんだよっ!」 「ごめんなさい……でもわたくしは、離れるわけにはいかないのです。あの方がおられる限り」 命の言葉と共に、突如靄に包まれた空間に風が吹き上がった。 「あっ」 凛花は腕で顔を庇う。 風に吹き払われる靄は、花吹雪のように舞い狂う。 薄紫の花吹雪が突如黒色へと変じ、その中央に亀裂が走り、光が漏れ出でる。 凛花は目覚めた。 朝の光と小鳥の鳴き声。いつもの自分の家だった。 チチッ、と小さな鳴き声と共に、愛鼠の鉄之介が凛花の顔を覗き込む。 「……おはよう、鉄之介」 凛花は笑いかけたが、 そのままいつもの日常へ入るには、 先ほどまでいた夢の世界はあまりにも生々しかった。 「覇業三刃衆の命……か。一体なんなんだ?」 鉄之介をあやしつつ、凛花は呟いた。 |