第一章 尋夢 Searchin’ For The Dream(4)
YUMEMIGUSA〜夢の浮橋・肆〜


引き戸の外で音がした。物思いにふけっていた凛花は現実に引き戻され、耳をそばだてる。

調子からして、誰かが引き戸を叩いていると察し、

「誰だっ!? こんな時刻に!」

鋭く誰何する。

「俺だ。俺。わかる?」

最後の言葉はおどけた調子で発された。

「銃士浪? 何の用だっ!」

「ハハ、つれないなぁ。ま、見回りのついでに声をかけただけだ。気にするな」

そうか、と凛花は瞬時に思い出した。

銃士浪たちは、子供たちをかどわかしてるかもしれない奴を警戒して夜回りをしていたんだった。

凛花は立ち上がる。習慣で彼女の愛刀である闇路乕鉄を手に取り腰に帯び、鉄之介がその柄に飛び移った。

戸口まで移動すると、その向こうにいる銃士浪に問いかける。

「……それで、どうだったんだ?」

「今夜は異常なし。そりゃそれで結構なんだが、ひとつ新しい知らせがあってな」

「なんだ?」

「ここを開けてもらえないかい?」

そう言われて、凛花は渋々ながら引き戸を開ける。

銃士浪の、常の薄い笑みを浮かべた顔が目に入った。

中に入ろうとはせず、彼はその場で口を開く。

「志士の一人が是衒街で、見慣れない侍を見かけたと言ってきた」

「侍?」

凛花は眉をひそめる。

「伍苦門の連中か?」

離天京の表の入口、幕府の唯一残された管轄場所。

本土から派遣された牢人街奉行と、配下の侍たちが駐屯している事を凛花は聞いていた。

「伍苦門の奴らなら、ある程度志士連中も見知ってるからな。おそらく本土から偵察に来たんじゃないかねぇ。」

「偵察か……今までそういうことがあったのか?」

「いいところに目をつけるなぁ、凛花。

俺が知ってる限りじゃ、時たま申し訳程度に伍苦門の奴らが是衒街を巡回する以外、

二本差しの面々がこの島に現れたことはないぜ。」

「ていうことは、つまり」

「幕府が動いた可能性がある、ってことだな」

幕府が動いた。

それが意味するものは。

「離天京を併合する気なんだろうか?」

「それはわからんなぁ。それ以外の、何らかの密命を帯びているのかもしれんし。

……ところで、お前すごい顔になってるぞ?」

「えっ?」

突然の銃士浪の言葉に、凛花は不意をつかれて瞬いた。

「お〜お、怖いねぇ。まさに寄らば斬るって顔中で言ってたぜ。侍の話となるとそれだ」

くっくと笑った銃士浪に、

「……ほっといてくれ!」

むくれた凛花が言い返し、そのまま引き戸を強引に閉めようとする。

しかし引き戸は、彼女よりも強い掌で止められた。

きっと見返した凛花を、淡い笑みが見返す。

「苦しいんだな、お前。いろいろありすぎたからか」

銃士浪の穏やかな物言いに、心の臓が一瞬高鳴った。

「苦しいんなら、笑え。それで周りは救われる」

穏やかで優しささえ感じさせる声だったが、

凛花の中で瞬時に怒りが沸騰した。

「うるさいっ!」

叫んで、彼女は咄嗟に今朝の畑仕事で得た大根を掴みあげた。

サヤからもらって編みかごに入れ、そのまま土間に置いてあったものだった。

銃士浪の頭目がけてそれを振り下ろし、凛花は彼と戸の隙間をすり抜け飛び出す。

チチッ、と刀の柄にしがみついた鉄之介が鳴き声をあげたのを聞きながら、凛花は振り向きもせず

小走りに夜の暁村を行く。




同じ日の夕刻、天幻城の城内。天守閣の一角に、三刃衆の神官こと闇の巫女にあてがわれた部屋があった。

「吉野、凛花さん……」

夢に出会った少女の名を呟き、命は眼差しを窓へと向けた。

窓の向こうに広がる空には、紫がかった雲が緩やかにたなびき、一面黄昏に染まっていた。

この空のもとの同じ離天京の中で、彼女は暮らしている。それは間違いないだろうと命は思う。

「失礼します!」

幼い子供の声がして、襖が開けられた。

一人の少年が、床につけんばかりに下げていた頭を上げる。

「命さま、禊の支度が整いました!」

毬男マリオ

命は少しほっとした気持ちになり、その少年へ微笑みかける。

彼は、天幻城で朧に仕える巫女たちである朧衆の一員であり、

朧衆ただひとりの男である毬男であった。

天幻城で正気の男……自らの意志で自ら動く、という当たり前のことが当たり前にできる男は、

覇業三刃衆である朧、九鬼刀馬のほかにはこの毬男しか存在しなかった。

その事実に思いを馳せ、命の心が曇る。

彼が大人になる前に、なんとかここから出してあげなくては。

僅かに翳った命の表情を案じたのか、

「命さま、どうかなさいましたか?」

頭を上げた毬男は瞬き、心配そうな声を出した。

「いいえ、大丈夫です。気を使わなくてもいいのですよ、毬男。すぐ参ります」

命は少年にそう答える。

「はい!」

少年は元気に声を返してきた。

普段から朧衆の面々に可愛がられている毬男は、三刃衆に加わり彼女らの上役となった命に気に入られ、

彼女の世話係として日々立ち働いている。

しばらくの後、支度を整えた命は毬男の先導のもとに、闇の巫女専用の湯殿へと向かった。

「あの、命さま」

毬男が命を振り向く。

「なぁに?」

「実は、妹が新しく花を咲かせたんです。是非、命さまにお目にかけたいって」

「まぁ」

命は瞬いた。

鞠男の妹、大人しげな瞳をした、内気な少女の姿が脳裏に浮かぶ。

芽衣メイちゃんが、新しいお花を?」

「よろしければ、見てやっていただけないですか?」

「ええ。是非見せてもらいたいわ。芽衣ちゃんはいろんな種を蒔いていると聞きましたが、

毎日世話をしているのかしら?」

「はい。あいつはこの離天京を、花でいっぱいにするのが夢なんです。

そしたら、人がもっと優しくなれるから、って言ってました。」

「芽衣ちゃんはいい子ね」

命はそう言うと、得意げな表情を隠しきれない毬男に優しく微笑みかける。

「そうね……芽衣ちゃんが願うように、いつかこの離天京がお花でいっぱいになったら……

とても綺麗でしょうね。わたくしも、その景色を見てみたいわ」

「ありがとうございます、命さま! 芽衣が聞いたらきっと喜びます!」

嬉しそうに弾んだ声で告げる少年に優しい瞳を向けていた命だったが、

(くだらぬわ)

突如頭の中に響いた声に硬直する。

安らいだ気持は一瞬で引き裂かれ、心は緊張と黒い不安に塗り潰される。

(世にあるものすべては、滅ぶためにのみ存在するにすぎぬというのに)

女の哄笑が命の中に響き渡った。

小さく悲鳴をあげ、耳をふさいで命はうずくまった。

「命さまっ!?」

毬男が駆け寄ってくるのを察し、命は必死に動揺を押さえ込む。

「大丈夫ですか? お加減が悪いのなら……」

心配そうに覗き込んでくる少年に対し微笑みを作って、命は立ち上がった。

「わたくしは大丈夫です。参りましょう、毬男」




(私が私でなくなってゆく)

夜闇に沈んだ自室で、窓から差し込む月光の中に力なく座り込み、命は自身の体を抱く。

夢の中のものであったはずの声が、昼の光がある中でも聞こえるようになってしまった。

闇の奥深くに沈んでいた何かが徐々に力を増し、命を脅かそうとしている。

「その身体、まだ妾に譲り渡す気にならぬか」

命の中で声が響いた。

紅い目が大きく見開かれる。

「いつまで無駄な足掻きを続けるつもりかえ。そなたは妾の傀儡となるためにのみ生まれたのじゃ。早う務めを果たさぬか!」

「止めて!」

命は絶叫し、頭を左右に振り乱した。

閉じた目の中で密度を増していく闇。

助けて。

誰か、わたくしを助けてください。

何か恐ろしいものがわたくしを、

捕まえて閉じ込めようとしているのです。

助けて、和狆お爺様!

覇王丸小父さま、

骸羅小父さま、

刀馬……さま……

闇が、命の心を攫んだ。

そのまま命の意識は引かれる。遠くへ、何処とも知れぬ場所へ。

その寸前、命は闇の向こうに少女の後姿を見た。

長い刀がその腰に取り付けられ、

鞘の先には薄青い色の小鼠がいる。

その朱鷺色の短い着物、すらりとした足、小柄な姿。

あれは。

少女の背後から何かが凄まじい速さで近づき、

悪意を剥き出しに飲み込もうとしている。

声が微かに聞こえた。

”ごめんね鉄之介、ごはんまだなのに飛び出してきちゃって”

”でも銃士浪の奴が……知った風なクチきいてさ……”

その声をかき消し、命の中で声が響き渡った。

「我が愛しき闇の仔よ、今宵はあの糧を喰らい尽くせ!」

それは命の意志と無関係に立ち上がり、命の意志でなく発せられた彼女自身の声だった。

「凛花さん!」

同時に、命の心が叫んだ。

「いけません! 逃げて、早く逃げて!」

その瞬間、命の意識は途絶えた。

「……は、や、く……」

彼女は闇に堕ちる寸前に発した自分自身の声も、聞くことはできなかった。





「リンカサン!」

自分を呼ぶ女の声に、

「えっ」

呟き、凛花は振り向く。

同時に、真っ黒な何かが彼女の視界を覆い尽くした。

本能的な怖れと怯えが、彼女の全身を鷲掴みにした。

闇路乕鉄の柄に手をかけたと同時に、遅すぎると本能が告げた。

全身が一気に冷たくなる。

ヂ―――ッ、

と、凛花にしがみついた鉄之介の、これまで聞いた事のない怯えた叫びを最後に

彼女の意識が途絶えかけ、

その瞬間、彼女を呑み込もうとしていた闇が突如切り裂かれた。

月の光が凛花の目を射る。

光は何かに反射されたのか、と一瞬遅れて彼女は理解する。

「疾(チッ)」

冷めた女の声が聞こえ、

凛花は凄まじい断末魔の声が、吸い込まれるように消えていくのを感じ取っていた。

鉄之介の怯えた声が、耳に響き渡っている。

凛花は腕で身体を抱き、その場にへたり込んでいた。

何が起こったのか、よく理解できてはいなかったが、

たった今、とてつもない危険にさらされたということだけは、彼女の全身が理解していた。

「鉄之介……」

呟いた声が擦れていた。

鉄之介の悲鳴のような鳴き声はまだ止まらない。

凛花の肩の上で、小さな体が震えている。

「もう、大丈夫」

鈴のような、だが抑揚のない声がした。

凛花は声の主を見る。

若い女であることは見て取れた。その手に一振りの、細身の剣が握られている。

降り注ぐ月光に透ける、長い銀髪。

その顔を見て、凛花は瞬時に身が強張るのを感じた。

美しいと言える顔立ちなのに、

女の表情は、石や氷を思わせた。

完全に凍りついた表情を、女は凛花に向けていた。

空気を切り裂くような唸りが耳に届く。

(……え?)

瞬いた凛花は、硬質な音を聞いた。

女は前方に鞘を突き出していた。

そこに、一振りの剣が収まっている。

女はもう片方の手に握ったあと一振りの剣を、同じ鞘に収めた。

先ほどと同じ、硬質な音が響いた。

女が手を離し、凛花の目に映った鞘には、二振りの剣の柄が段違いに収められているのが見て取れた。

「二つの剣を……ひとつの鞘に?」

凛花は女を見詰めつつ呟く。

女の目が、再び凛花に向けられた。

その視線も、やはり氷の矢のよう。

思わず、凛花は身を竦めた。

ヂ―――ッ、ヂ―――ッ、

鉄之介の怯えたような鳴き声が、まだ耳を打ち続けている。

「あんた……誰だ?」

僅かに震える声を抑えながら、凛花は目の前の女を見据えた。





「あれは何者じゃ」

天幻城の自室で、悪の化身と化した命はそう呟き、その冷たい赤い瞳を細める。

「命殿」

背後の声に命は、冷たく赤い視線を向けた。

「ついに、お目覚めになられましたかな」

視線の先には小柄な老人が、背後に巫女姿の女数人を従え立っていた。

常にその面にじんわりと張り付いている、好々爺めいた笑みを命に向けている。

「これはこれは……”覇業三刃衆”の”参謀”であらせられる朧殿」

邪悪な命は美々しい唇を吊り上げ、嬲るような調子で声を発した。

「何やら、毛色の変わったネズミがこの地に潜り込んだようよの。地を耕す下賤の者どもの住まう所に……」

「ほうほう」

その言葉に頷きつつ、朧は白一色の顎鬚に手を当て、撫で下ろす。

「すると、命殿。そやつは幕府の犬とは異なると?」

「その辺りの下衆とは気配が違うておったわ」

朧が背後に控える朧衆を見やった。

先頭の、赤い袴のすらりとした巫女が頷き、無言で他の巫女たちに目で合図し、彼女達は音もなく退出する。

「さすがは闇の巫女殿。気配を察する能力も卓越しておられますな」

「世辞は止しや、朧殿。妾に用があって来られたのであろ?」

「ホッホ」

朧が笑う。

「この身体の前の持ち主は、脆弱な精神の持ち主でそなたの野望の役には立たぬ。

彼奴は妾が眠らせたゆえ、話があるなら遠慮なく申しや。」

「では、お言葉に甘えましょうかな、命殿。そなたがお目覚めになられたことにより、我らの覇業の達成はより近づきました」

「そなたは妾に何をさせたいのじゃな?」

命が朧を流し目で見やった。

「命殿。そなたは大師様が予言された凶龍にして、覇業の成就に必須な刀でもあらせられる。

共にこの國を呑み込み、その残骸を払い武神国家を築きあげましょうぞ。

そのために、すべての邪魔者を排除することが肝要。何とぞ、この老骨に力をお貸しくだされ」

頭を下げた朧の背後ですっと襖が開き、二人の青袴の巫女がそれぞれの手でひとつの長物を捧げ持ち、控えていた。

白い布で包まれていたそれが、巫女たちの手で露わにされる。

美しい房のついた、青く長い柄を持つ長刀。

命が腕を延べると、それは巫女たちの手から浮き上がり、青く輝きながら命の元へと漂っていった。

「承知したわえ」

艶めかしい唇に笑みを浮かべ、悪の化身となった命は言った。同時に心で呟く。

(せいぜい、この爺と島は利用すべきじゃな。妾が世のすべてを無に帰するための手段として)


   


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