第一章 尋夢 Searchin’ For The Dream
〜壱〜


凛花は目覚め、布団から跳ね起きた。

辺りを見回し、鉄之介が枕元で、心配そうに鼻を鳴らしているのを目に留める。

すっと障子が開いて、サヤが姿を見せた。

「おはよう、凛ちゃん」

「ここは……」

「銃士浪のウチ」

そう答えてサヤは、粥を乗せた盆を凛花の前にすいと出す。

「あ、あたし」

戸惑いながら凛花は布団から出ようとする。

「もう落ち着いた? すっきりするまで寝ていればいいわ。銃士浪なら当分ここには来ないし」

昨夜のことを身体が思い出した。

得体の知れない何かに危害を加えられようとしたこと。

月夜に流れる銀の髪。

「そうだ! あたしを助けた奴が」

「銃士浪が、今彼女と話してるわ。子供たちを襲っていたのは人間じゃなかったそうね」

凛花は瞬いた。

「人間じゃないだって?」

サヤは頷く。

「彼女は手に、半分壊れた頭蓋骨を持っていたの。行方不明になった子供たちの誰かみたいよ。

銃士浪が村の人たちに事情を説明して、弔いをするように言って、ついさっきみんなが帰ったところ」

凛花ははっとする。

「あたし、どのくらい寝てたんだ?」

「そうねぇ。もうそろそろ日暮れかしら?」

「は……半日以上じゃないかっ! おはようじゃないだろサヤ!」

そう食ってかかった凛花に、サヤは楽しそうに微笑みかけた。



サヤが部屋を去り、凛花が粥を口にしてしばしの後。

銃士浪とサヤが共に部屋にやってきた。

昨夜凛花を助けた女が、三人に話があるのだという。

行きたくなければそう伝えると言う二人に、凛花は同行すると答えた。

彼女は枕元に置かれた己が刀、闇路乕鉄を見る。

父の形見、常に彼女と共にあり、彼女の支えであり彼女の一部とも言える刀。

凛花はそれを取り、手に下げて銃士浪とサヤの後に続いた。




凛花が案内された部屋に座している女。

足にまで届くのではないかと思われるほど長く、さらりと流れる銀色の艶やかな髪は美しかったが、

やはり面に漲っている冷たさの方がよりはっきりと目に付いた。

上体に弓に見える物をかけ、腰の後ろに剣鞘を挿し、黒と青を基調とした衣服をまとった女は押し黙ったまま三人を迎える。

「凛花を呼んできたよ、お嬢さん。俺たちに話っていうのは何だい?」

銃士浪はそう告げると、女の向かいに腰を降ろす。

サヤと凛花もそれぞれ腰を降ろし女に向き合った。

「私は」

女がぽつりと口を開く。

「コウコで」

そこで女は口を噤んだ。

「大陸で、魔を封じることを生業にしてる。だから今回の事も」

女はゆらりと視線を銃士浪たちに向ける。

「依頼されたわけじゃないけど、ただ働きはしたくない」

こいつは海の向こうの清から流れ着いたのか、と凛花は思った。

離天京では、覇業三刃衆の仕切る密輸に関連してか、遠く欧州や亜米墨加から来たとおぼしき異人の姿も

時折見かけられる。

清王朝、すなわち大陸からの流れ者も、特に珍しいわけではなかった。

「なるほどね。それじゃあ、あなたは何を望んでいるのかしら?」

笑みと共にサヤは女に言う。

「器械」

女がまた、ぽつりと言葉を口にする。

「ん?」

銃士浪が微かな笑みと共に問うた。

「私の国で、武器をそう言う。あなたたちのを見せて欲しい。」

「ふぅん」

銃士浪は腕を組んだ。

「すると、あなたは何かしらの武器を探してる、ってことね?」

サヤの言葉に女は、ほんの僅かに首を縦に傾げる。

「駄目だ、危険だろ! 銃士浪!」

凛花は思わず身を乗り出していた。

二人が少し驚きを宿した目で凛花を見る。

「こいつに助けられたのは確かだけどさ……なんか、信用できない。

最近離天京には、幕府の犬が潜り込んできてるんだろう?

こいつが一味じゃない保証はないじゃないか!」

なんで、こんなこと。

どこかで戸惑い、言い過ぎてるんじゃないかと微かに思いながらも、凛花は言葉を止められなかった。

どうも、こいつは何かが妙だ。

そんな違和感がまとわりついて離れない。

その理由のひとつは、今も凛花の肩にいる鉄之介。

この女を見かけてから、いまだに小さな体を震わせ、怯え続けている。

間違いなく、鉄之介が怖がっているのはこの女だ。



女は黙したままだった。

そう主張する凛花をただじっと見ている。

昨夜、夜闇の中月明かりで見た時と印象はほぼ変わらない。

美しい娘ながらも、完全に凍りついた表情。

凍りついた面の女が、再び口を開いた。

「私を、東瀛トウエイの支配者の犬、だと思ってる?」

「え?」

女の発したわからぬ言葉に凛花は瞬く。

「ブキョウは」

女の次いだその言葉は、凛花を更に戸惑わせた。

「権力者の犬にだけは、絶対ならない」

「……なんだって? 何を言ってるんだ」

凛花は眉をひそめる。

「武侠は義に身を捧げる者。無情の剣に生き、有情より超然と立つ者。

私は、武侠の娘。父のように、生涯を義と剣に捧げる、女侠。

武侠は、体面のために妻子を振り捨て、名誉のために人を斬る侍とは違う。」

凛花はそう言った女を、初めて正面から見た。

サムライとは違う。

その言葉が、凛花の胸にすっと入り込む。

「私が探している刀は、この國の事情とも、あなたたちの事情とも何ら関係しない。でも、

一刻も早く、見つけなくちゃいけない。大変なことになるから。」

女は凛花から目をそらし、銃士浪とサヤをその冷めた目で見据える。

「信義の者を装って、人をだます輩は人間ジンカンにたくさんいる。私は、あなたたちに信用してもらえることに

賭けなくてはならない。」

女は、三人を真っ直ぐに見据えて静かに、だが力を込めた眼差しと声で告げた。

「信じて、もらえませんか。私は、最後まで武侠の道を貫いた父の名にかけて、

信義ある市井の人々を騙しはしない。」

銃士浪は、ふぅと息を吐き立ち上がった。

「ちょっと、待ってな」

隣の部屋への襖を開き、その向こうへ姿を消す。

少しの間の後、襖が開きその向こうに立つ銃士浪の手には彼の刀が握られていた。

その名は九頭竜といった。

刀が持ち上げられて、がちゃりと異質な音を立てる。

「見てもらえりゃわかるんだがな。」

歩み寄った銃士浪は、手にした九頭竜の柄を女の方へ向ける。

「こいつは大陸で造られた由緒のあるもんじゃない。俺が改造したお手製だ。」

「火器を、つけてる?」

女は瞬く。

「珍しい」

「よく言われるよ」

九頭竜を手にとった女は、その刀身と撃鉄をためす眇め、銃士浪の元へ差し出した。

そして首を振る。

サヤがすっと立ち上がり、女の前に、一歩進み出た。

「私の武器はこれよ。」

彼女の腰に納められた二丁の鎌が取り出された。

「それも違う」

女は再度首を振る。

「私の探す刀は対のものじゃないから」

「そう」

あっさりと答え、サヤは鎌を元通りに収めた。

女の無表情な目が凛花に向けられる。

「……これは父さんの形見だ。あんたが探してるのとは関係ないだろ!」

女を睨みつけ凛花は、体の後ろに置いていた長刀……闇路乕鉄に手をかけ、身を引く。

「お父さんの」

女がぽつりと呟いた。

「でも、それが一番可能性がありそう」

「近寄るなっ!」

凛花は女を睨む目に力を込め、怒鳴りつけていた。

「……そう」

小さく呟き、女は片手を振り上げる。

その手には、凛花の抜き身の長刀が握られていた。

目を見開き、凛花は愛刀を探るが、そこには縮んだ鞘がある残されているのみだった。

この暁村の老いた鍛冶屋が、凛花のために誂えてくれた、バネ仕掛けで刀を抜くと縮小する仕組みになっている、

特別な鞘だけが。



銃士浪とサヤの目にも驚きの色が浮かぶ。

女は三人の視線を物ともせず、闇路乕鉄を見つめ品定めをしている。

「返せっ!」

そう叫んだ瞬間、女は詰め寄ろうと踏み出した凛花に向けて柄を突き出した。

「これも違う」

女の動きにたじろいだ凛花だが、目に力を込めて睨みつけ立ち上がり、

ずかずかと歩み寄るとその手から愛刀を奪い取った。

「妖力は感じない、共振もない。するとこの近くにはないのかな」

無感情に淡々と呟く女を、凛花は再度睨みつける。

「コクリンは」

言葉に凛花は瞬く。

「驚いたねぇ。今のは何だい?」

銃士浪がのんびりと女に問うた。

「空手奪刃。」

女がぽつりと答える。

「目にも止まらぬ早業だったわね」

常のように微笑みながらサヤが言った。

「魔封じがいつでもお金になるわけじゃない。人の気を引けるなら、武芸を見世物にするのも必要悪だから」

抑揚なく告げると、女は再び凛花に目を留めた。

凛花の目から怒りはまだ消えていない。

「怒ってる?」

「当たり前だっ!」

怒鳴りつけた凛花に冷めた視線を向けていた女が、唇を開いた。

「ひとつだけ。私は父に教え込まれたの。受けた恩には恩で、示された信義には信義で報いよと。それが武侠の真髄だと」

「武侠の真髄とかっていうのは、他人の持ち物をふんだくることなのかっ!」

「凛ちゃん」

凛花の背後にサヤが廻り、その怒らせた両肩にそっと手を乗せる。

女は首を振った。

「私は、父の教えは護る。どれほど穢れたモノになっても、それだけは、命の尽きる時まで護り続ける」

女が目をあげた。

凍りついたその目の奥深くに、凛花は始めて精気の宿る光が閃くのを見た。

「あなたの刀に対して強引な手を使ってしまったかもしれない。父が見たら、きっと私を叱る。

でもコクリンが覚醒する前に見つけなくちゃいけないから。どうかわかってほしい」

凛花はそう告げる女を一層強く睨みつけた。

冷めた視線で凛花の視線を受け止めた女はついと目をそらし、銃士浪に向き直る。

「あなたはこの村の長なの」

「ま、皆に求められたら似たような役割をすることもあるけどな。そんな大層なもんじゃないさ」

淡い笑みで銃士浪は言った。

彼を見つつ、女はぽつりと告げる。

「しばらく、この村に滞在させてほしい。……ここはたぶん」

ふっと目をそらしながらも、言葉は続けられた。

「この島の中で、最も気が安定している場所のひとつだと思うから」

「あなた、泊まるあては考えてるのかしら?」

サヤが女に声をかけ、女はサヤに目を移しゆっくりと首を振る。

「それなら凛ちゃん、泊めてあげれば? どう?」

「……なんで、あたしが。」

凛花は僅かに頬を膨らませた。

「うん、前から思ってたんだけどね。せっかく年頃のかわいい女の子が住んでるのに、

凛ちゃんの家はなんだか少し寂しい感じがするから」

サヤはそんな凛花の顔を覗き込みながら笑いかけ、

「たぶん、彼女と凛ちゃんは同じ年頃だと思うし、いろいろ話をしてみるのも楽しいんじゃない?」

いつもの明るい笑顔で片目を閉じてみせる。

(……冗談じゃない!)

凛花は内心そう思ったが、その言葉を口には出さない。

かつて、凛花がこの村に迎え入れられた時、出会った村人たちは誰ひとり、嫌な顔ひとつしなかった。

その人たちと同じ村に住んでいて、他人にそっけない態度を取り続けるのが正しい事なのか。

その問いかけは凛花の心に居座って、得体の知れないよそ者である女をはねつける言葉を呑み込ませた。

凛花は鉄之介に目を移す。

先ほどまでは怯えた様子を見せていた鉄之介だが、今はそれほどでもない。

これなら、女を家にあげても大丈夫だろうか。

「何もない家だ。それでいいなら好きにすればいい!」

顔を上げそう言い捨てた凛花に対し、女は凍った視線のまま言い返した。

「私が必要としているのは眠る場所だけ。それ以外、いないものと考えていればいい。

迷惑はかけないから」




凛花は女の先に立ち、暁村の田畑脇の道を家へと向かう。

ぶっきらぼうに、背後の女に言葉を投げかける。

「あたしは吉野凛花。あんた、名前は?」

しばらくの沈黙の後に、女の声が帰って来た。

「双剣の魔封じ」

「……え?」

凛花は立ち止まり、背後の女を振り向く。

微塵も感情を見せない凍った瞳がそこにあった。

「大陸では、そう呼ばれてた。だからそう呼んでもらってかまわない」

「通称? それはあんたの名前じゃないだろ」

「私の名前なんか何の役にも立たない」

抑揚なく、冷たく声が流れてくる。

「しょせん流れ者だもの。知る必要もないでしょう」

なんだそれは、と女を詰ろうとして凛花は思いとどまった。

こいつがそういうつもりなら、こっちから無理に干渉する必要なんかない。

サヤはあたしとこいつを仲良くさせようとしたんだろうけど、子供じゃないんだ。

こいつが今、自分で言ったようにしょせんは流れ者。すぐいなくなる奴なら歩み寄ることもない。

そう思って、この件に決着をつけたことにした凛花はそのままずんずんと歩いて行く。

辺りが薄闇に包まれだした頃自宅に辿り着いた凛花は、鉄之介と女を伴って家に入り、部屋の隅の行灯をともす。

「あんたさ」

一息に言ってしまおうと決め、振り向きざま腰に手をやり、凛花は女に話し掛けた。

女は、体にかけた弓らしきものも腰に帯びた剣鞘も取り外そうとせず、囲炉裏端に座している。

「いつまで暁村にいる気か知らないけど、ここに間借りするんだから、働いてもらえないか」

女は冷めた目を凛花に向ける。

「そうそう毎日、只飯を振舞える身分じゃないんだ。あたしはある人の……さっきのサヤの畑を手伝って食べ物をもらってる。

あんたも、自分で食べる分は自分で調達してくれ」

女がぽつりと呟いた。

「そんな時間、ないもの」

凛花はその言葉に眉を寄せる。

「安心して。あなたにたかるつもり、ないわ。私、俗人ほど食べる必要がないから」

「何それ」

意味がわからず、凛花は呟いた。

「霞を食べる、って聞いたことある? 私は食物以外のところで精力を吸収する方法を会得してる。だから、

余計な食料の心配ならいらないと言ってるの」

淡々と女は言った。

「……は?」

からかわれているのだろうか。

言葉をまともに受け取れば、女は食事をせずに生きていけると言うことになる。

あまりに馬鹿げている。

(……やっぱり、深入りしない方がいいみたいだ、こいつ……)

微かにため息をつき、凛花は女に言う。

「じゃあ、夕飯はいらないんだな?」

女は眼を伏せたまま答えなかった。

それなら相手にしないでおこう。鉄之介のごはんを用意しなきゃ。

「鉄之介、ごはんだよ」

凛花は明るい声で呼びかけ、小鼠は心得たもので自分の餌場所へと向かう。

村の器用な細工師が拵えてくれた鉄之介の木製の”自宅”は、障子の脇に設えられていた。

そこへちょろちょろと向かう鉄之介は、囲炉裏脇に坐す双剣の魔封じの側を通りかかる。



床に何かが叩きつけられた強烈な音と共に、澄んだ金属音が響く。

凛花は仰天して振り向いた。

「それ」

鋭く冷たい声が響く。

「二度と、私に近づけないで。ちょろちょろする動物は大嫌い」

女は腕輪を手に握っていた。囲炉裏端に叩きつけられたものがそれであることは明白だった。

取り付けられた鈴が衝撃で音を発したのだった。

鉄之介が大慌てで、凛花の足元まで走り寄ってくる。

急いで手を差し伸べ、掌に飛び乗った鉄之介をもう片方の掌で包む。

女の声が響いた。

「私、次に何をするかわからないから。そいつは、変身して突然襲い掛かってくることもないだろうけど」

凛花は唖然となった。

「・・・・・・なんだよ、それ。」

言い捨てた女の冷たい横顔を睨みつけ、凛花は怒鳴りつける。

「馬鹿じゃないのかっ? 鉄之介はただの鼠なのに、そんなことできるわけがないだろッ?」

「真面目にとらないで」

冷え冷えとした女の声が凛花の言葉を遮る。

「冗談だから。」

凛花は、ぐっと口をつぐんで女を睨むように見た。

戯言を四角四面に受け取った自分も間が抜けていたかもしれないが、

全く冗談に見えない顔つきと口調で言われても気分が良くない。

それ以前に、鉄之介に危害を加えようとしたことを流せるわけがない。

「出ていけっ!」

立ち上がり、凛花は女を再度怒鳴りつけた。

「お前のような礼儀知らずを泊めておけるかっ! 今すぐ出てってくれ!」

戸口に向け、人差し指を突き出す。

その怒りの声を浴びた女はあいかわらず冷めた視線で押し黙っていたがすっと立ち上がり、

無言で戸口へと向かった。

戸が開かれ、闇の気配がざっと流れ込む。

「さよなら」

背を向けたまま一声発し、女は戸の向こうの夜へと消えた。



女が姿を消した後も戸を睨みつけていた凛花は、膝を落とし座り込み、手の上に乗せた小鼠の小さな鳴き声に優しい視線を向ける。

「大丈夫? 鉄之介」

チチッ、と小鼠は鳴いた。

凛花の顔に優しい笑みが浮かび、彼女は指でそっと鉄之介の背を撫でる。

小鼠は、掌の上で体を丸め安らいだ様子を見せる。

鉄之介を”自宅”に入れてあげるために立ち上がろうとして、彼女はそれに気づいた。

畳の上に小さな異物があった。

先ほどまで明らかになかったものだ。

鉄之介をそっと畳に降ろし、凛花はそれを拾い上げる。

桃色の石の細工物。花を象ったもののようだった。

自分のものじゃない。

それじゃあ、どう考えてもあいつのだ。

凛花は、少し頬を膨らませた。

鉄之介を殴ろうとした女を思い出すと、不快な怒りがまた甦ってくる。

「……知るもんか!」

小さく呟いたが、それをどうすべきか凛花は刹那迷う。

チチッ、と鉄之介が鳴き、鬚を細かく震わせた。

むくれた表情で座り込んでいた凛花は立ち上がる。

鉄之介は、彼女が手にした闇路乕鉄の鞘に飛び移った。

「これで終わりにしたらいい」

そう小声で呟き、凛花は戸口へと向かった。




戸を引き開けるとその先にあるのは、立ち込める夜の黒。

女の姿はもう見えない。

夜気の中を、凛花は歩き出す。

すぐ追いつけるとばかり思っていたが、家を離れ田畑の中の道を通り、

やがて凛花の家が見えなくなる距離まで来ても女の姿はなく、辺りには人影ひとつ見当たらなかった。

「どこへ行ったんだ……?」

呟き、凛花はしばし迷った。女を見失っては目的を果たせない。

掌の中の細工物。

それを握りしめて逡巡していた凛花だったが、はっと顔をあげる。

垂れ込める闇の中、風に乗って流れてきた、血の匂い。

「鉄之介!」

声をかけると、その鋭い調子に反応した小鼠は、凛花の腰の後ろに結わえつけられた己の住処に潜り込んだ。

凛花は闇の中、血の匂ってくる方向へと駈け出した。

やがて彼女の目に入った光景。月明かりに照らし出されたそれは夜目にも毒々しい、斑の模様を一面に浮かび上がらせた女の肢体。

まるで女郎蜘蛛の如き、禍々しくも美しき姿。

三人の女たちは、二度と動かぬ亡骸と化していた。

傍らには幅の広い刀が転がっている。

その場に立つ生ある者は、二人。

一人は、先ほど凛花の家を辞した双剣の魔封じと名乗った女だった。そして、向かい合っているもう一人。

振り向いたその者の青い瞳が、月光を映し凛花を見る。

昼間、向き合っている女に……魔封じに改めさせようとした二丁のしなやかな鎌、止燕シエン飛燕ヒエンを手に。

血糊の残るそれを手に、サヤは昼間と同様の、明るく清楚な微笑を凛花に向けていた。

「あら、こんばんは凛ちゃん。どうしたの? お散歩?」

「サヤ、そいつらは……」

問うまでもなく、凛花も知っていた。

朧衆。

天幻城に使える暗殺者たち。

”暁村の志士”、天幻城に楯突く者として凛花も幾度か、この者たちの追跡を受けたことがあった。

「一体、何があったんだ?」

「何してるのかしら?って聞いたら、問答無用に斬りかかって来られちゃったわ」

サヤはにっこりと笑った。

凛花にも察しはついた。

何が目的かはわからないが、朧衆は是衒街のみならず暁村にも侵入してきたのだ。

「こいつら」

無表情に二人を見ていた魔封じが、ぽつりと口を開いた。

「たぶん術をかけられてる」

「あら、そうなの?」

「屍に妖気が残ってるから、そうだと思う」

「ふぅん」

サヤは乱れを気にしたように、その金の髪に手をやりつつ、興味深そうに魔封じを見る。

魔封じがサヤを見返し言った。

「あなた、さっき、言っていた。この連中は、向こうの方にある城に仕えていると」

「ええ。天幻城の主、覇業三刃衆にね」

「その中に、こいつらに術を施した奴がいる」

サヤから視線をそらし、独り言のように、魔封じは呟いた。

「それなら……コクリンがそこにある可能性も」

「術、ね。そういえば天幻城で何か得体のしれないことが行われてるらしい、っていう噂は最近よく聞くわ。

死体が運び出されるのを見た、という人もいるみたい。」

おぉ怖い、というようにサヤは体を腕で抱えてみせる。

「ところであなたたち、ケンカでもしちゃったの?」

サヤは凛花と魔封じに、交互に視線を移した。

「それはこいつが!」

言いかけて凛花は、掌の細工物を思い出す。

言葉を飲み込み魔封じにきっとした視線を向け、つかつかと歩み寄る。

「忘れものだ!」

細工物を突き出した途端、

女の表情がほどけた。


女を覆っていた氷塊が一瞬で消え去り、表情は柔和になりその眼には輝きが満ちる。

その変化に内心たじろいだ凛花の元へと女は歩み寄り、伸ばした両手が細工物をそっと包み込む。

両手を握りしめ、頬を寄せ女は呟いた。

「お父さん」



微かな、消え入りそうなほど微かな呟きだったが、

確かにその声は、その言葉は凛花の耳に届いていた。

”魔封じ”の冷たい殻がその時溶けて、無垢な子供がそこに見えた気がした。

女が凛花を見る。

その目は凍り付いてはいない。

「謝々。私、あんなことをしたのに、ありがとう」

凛花に向かい、頭を下げたその女……双剣の魔封じと名乗った女を見つめながら、

凛花は感じ取っていた。

こいつは父親をなくしている。

丁度……あたしと同じように。




「さてと。そろそろ二人ともお休みの時間じゃない?」

サヤが明るくそう告げた。

彼女は凛花の背後に立ち、そっと囁く。

「凛ちゃん」

「何?」

彼女は耳元に唇を寄せ、

「もし何かあったら、すぐ私や銃士浪に相談して」

そして凛花が反応する暇もなく身を離し、

「じゃあね」

片目を閉じ、常の笑顔でサヤは二人に背を向けた。




背後に女を伴っての帰り道、凛花は考え続ける。いくつかの事を。

覇業三刃衆、妖術、幕府の犬、今夜の朧衆の潜入。

そしてこの女、双剣の魔封じ。

明らかに、何かが起ころうとしている。

銃士浪もサヤも動こうとしているようだった。自分は何をすればいいのだろうか?

ここにじっとしているわけにはいかない。

二人は凛花の家に帰り着いた。

「あの人は、私を疑ってるのね」

ぽつりと、凛花の背後で魔封じは呟いた。

「それは……」

凛花は振り向いたが、言葉が続かない。

事実ではあるが、サヤを悪く言うような事は言えなかった。

「じゃあ、先にあなたに言っておく。私は東瀛の……日本の幕府に関係はないし、興味もない。

ここに来たのは二つの探し物をするため」

「話なら、あがってからにしないか?」

二人は囲炉裏の傍に坐し、熾された焔を眺める。魔封じは語り始めた。

「探し物のひとつはコクリン。哭く麟、と書く。わかる? 麟は霊獣の雌のこと。

そういう名前の妖刀が、大陸に伝えられていた。それは今、この東瀛に」

魔封じは口を噤み、言い換える。

「この日本に存在してる。私は哭麟を探し出すために来た。おそらくこの島に、哭麟はあると思う」

「なぜ、そう言えるんだ」

凛花は魔封じを見据えて問う。

「……が」

「え?」

「あると言ってるから。」

「よく聞こえなかった。誰があるって言ってるんだって?」

聞き返した凛花だが、魔封じから言葉は返ってこなかった。

「言えないことなのか?」

「……あの人、サヤさんだった? 言っていたね。あの人が屠った奴らが仕えてる連中は、あやしげな事をしているらしい、って」

魔封じはそうぽつぽつと言葉を続ける。問いかけを無視された。言いたくないのか言えないのか、どちらかなのだろう。

「それなら、そいつらの所へ行ってみようと思う。哭麟は、妖力に共鳴して力を発揮する刀だから」

「……ひとつ、聞いてもいいか?」

思い切って、ほとんど独り言のような魔封じの言葉を中断し、再び問いかける。

「あんた、なんでその哭麟とかって刀を探してるんだ?」

再び、魔封じは押し黙った。

沈黙が場を支配し、ややあって。

「それが使命だから」

顔を上げた魔封じの瞳には、意志と精気が満ちていた。

「妖刀を封じること。それが父と私の流派の、果たすべき使命だから」



魔封じがぽつぽつと語ったところによると、彼女の所属する流派は天仙遁甲といい、

今の大陸ではとうに途絶えた、仙術の修練を行う流派だという。

「妖刀を封じるために、流派は代々”剣仙”を育成してきた。

流派の数名の達人の中で最も剣に優れ、最も術に優れた者がその役目を課せられる。本来なら、父も……」

魔封じは眼を伏せた。

「じゃあ、今はあんたがその剣仙なのか?」

凛花の言葉に、魔封じはしばらく反応を見せなかった。

ややあって漏れ出した声。

「そう承認してくれる人がいない」

「……どういうことだ?」

「天仙遁甲に属する者は、もう私しか残っていないから」

その言葉が凛花の心を突き通し、ひとつの事実を思い起こさせた。


ただ一人しか残っていない流派。

父さんの興した夢想夕雲流。


父さんが殺されて……

夕雲流を受け継いだのは、あたしだけなんだ。



何かが起ころうとしているこの離天京で、自分は何をするべきなのかわからなかった。

今、何かが見えた気がする。

するべきこと、とは少し違うかもしれない。

ただ、あたしがしたいことは……

父さんが作り上げた流派を終わらせたくない。

夢想夕雲流を再興したい。



そのためには何をしなければならない?

まずはこの街から……逃れるために来たこの島から、出なくちゃいけないんじゃないのか?



「私しかいない。だから、哭麟の封印は私が成し遂げなくてはならない」

魔封じの声が耳に届いた。


目の前の女を凛花は見据える。

心には迷いが渦巻く。

この女を信じていいのかと。

先ほど別れ際に、サヤの囁いた言葉が脳裏に蘇る。

”もし何かあったら、すぐ私や銃士浪に相談して”

心配してくれているんだ。

この島に潜入しているらしい幕府の犬たち、暁村にまで入り込んで来た天幻城の朧衆。

”こいつが一味じゃない保証はないじゃないか!”

つい先ほど、銃士浪の家で凛花がこの女に対して発した言葉。

もしそのとおりなら、銃士浪やサヤ、暁村の皆に危害が及ぶ。

あたしがこいつに対して何かをすることが、そんな最悪の結果を招くかもしれない。

どうすれば……。


迷いを抱えて凛花は女を見る。

「もうひとつの探し物は」

魔封じの声が低くなった。

「仇」

その一言を告げた女の目が、再び昏くなった。

「命に代えても屠るべき仇がいる。この島に」

凛花は女を直視した。

信じていいのだろうか。

人を寄せ付けぬ凍った瞳をした女。

鉄之介を容赦なく殴ろうとした女。

同時に思い浮かんだのは、

父を呼び、凛花の届けた細工物をまるで抱き締めるように手に包み込んだ姿と、

礼を口にしたときの素直な瞳。



人は裏切るものだ。

父と母の最期を通して、凛花はそのことを思い知らされた。

それでも。

暁村で、銃士浪やサヤと出会い優しい人たちに囲まれて。

もう一度、人を信じてみたいという思いが心の底から立ち上がろうとしていた。

それもまた、事実だった。



あたしがしようとしている事は、正しい事なのか。

そう自問し、迷い続けていた凛花はついに決意する。

第一歩を踏み出す事を。



思い切って、魔封じへ向けて放った言葉は、少しきつく響いた。

「あんたさ! この島のこと、何もわからないんだろ!」

女が凛花に顔を向ける。

「良ければ、天幻城の近くまで案内するけど!」



しばらくの沈黙があった。

凛花は唇をかみしめるようにしてそれに耐える。


「謝々。よろしく、お願いします」

女はそう凛花に告げると、ほんの微かに笑った。



東瀛…武侠の世界における、日本の呼称のひとつ。

空手奪刃…武侠の技の一つで、本来は素手の状態で相手の武器を叩き落し奪うことを指す。


   


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