天花一剣客異伝〜いろは〜 壱 |
「さすがは御前試合ですね。とても強い方が多いです。」 娘は、軽くため息をつきました。 「あのお年寄りとは再戦、ということになるのでしたね。」 娘は、いろはと呼ばれていました。 「旦那様・・・・・・いろはは勝てるかどうかわかりません。 でも、旦那様のご恩に報いるために、きっと勝ってみせますからね!」 いろはは両手に鳳麟(ほうりん)、凰嘴(おうさい)と呼ばれる武器を持ち、 幕府主催の御前試合に参加していました。 つい先ほどまで彼女が戦っていた相手は、大陸から来たと言う老人でした。 いろはは身が軽く、上空からの攻撃には密かに自信を持っていましたが、 驚いたことにその老人も空を飛んだのです。 その試合は勝負がつかず、黒の衣装に身を包んだ判定者によって引き分けとされ、 後日再戦が行われると言い渡されたばかりでした。 いろはは試合場を後にし、”旦那様”に思いを馳せていました。 遠く奥州は漆山の村に一人残っている、かつていろはを助けてくれた若者です。 「今いろははお世話できませんが、旦那様はちゃんとお食事をお召し上がりになっているでしょうか? いつも根を詰めて遅くまでお仕事をされていましたから、心配です・・・・・・。 ああ、御前試合が終わったら早く帰って、また旦那様のお世話をしなくてはいけません。 お洗濯をして、お掃除して、お布団を干して、美味しいものを作って、 旦那様が気持ちよくお仕事できるようにしてさしあげないと・・・・・・。」 そう呟きながら、いろはは道を歩いていました。 道行く人たちの中には、足を半ば剥き出し大きな胸乳が半分除いた格好で歩くいろはを驚いた顔で見たり、 または振り向きまじまじと見入る人もありましたが、彼女の目には入っていません。 そんな中。 「いろは!」 声が聞こえました。 いろはは、驚きで目を丸くして振り向きます。 「旦那様!」 彼女に声をかけたのは、奥州に一人残っているはずの若者・・・・・・彼女が旦那様と呼ぶ人でした。 「そんな、どうして旦那様がここにいらっしゃるのですか?」 いろはは、旅姿の彼に駆け寄ります。 「ああ、よかった・・・・・・無事だったんだね・・・・・・やっと見つけたよ・・・・・・。」 若者は息をつぎながら、いろはに笑いかけました。 「旦那様! いけません、お体の調子が悪いのにご無理をなさっては!」 いろはは泣きそうな顔で言います。 「心配させないでおくれよ、いろは。何も言わずに突然いなくなってしまって・・・・・・。 探しに出たら、江戸で行われてる御前試合でいろはに似た人が出ているって言うじゃないか、 もう心配で心配で・・・・・・。真剣を持って、きちんとした流派で修業しているお侍さまたちと、いろはが刀を交えるだなんて・・・・・。」 「旦那様、」 言いかけたいろはの肩を、若者はがっしりと両手で掴んでいました。 「御前試合で勝った人の望みを、将軍様が何でも叶えてくださるって話だけど、いろは。 いろはの望みを邪魔する権利は僕にはない、でも、せめて一言だけでいいから、僕に告げてからにしておくれ。 僕を旦那様と呼んでくれるなら。頼むよ。」 「も・・・・・・申し訳、ございません・・・・・・。」 消え入らんばかりの小さな声で、いろはは呟きました。 いろはの心の臓は躍り上がらんばかりになっていました。 ”旦那様”に、こういった行為をされたことは初めてだったからです。 「ご心配をおかけして・・・・・・あの、旦那様・・・・・・お放しいただけないでしょうか、少し苦しいです・・・・・・。」 「あっ!」 若者は慌てて手を放しました。 「ご、ごめんよいろは。力を入れすぎてしまったんだね。」 「いいえ、いろはは旦那様にご心配をおかけするといういけないことをしてしまいました。 旦那様が謝られることはないのです。」 いろはは、若者に笑いかけました。 若者も、いろはに微笑み返しました。 彼はいろはの笑顔が大好きでした。 親と死別の後一人で暮らしていた時は、夜を徹して働き、疲れて泥のように眠るだけの暮らしでしたが、 今は夜なべをしていると、いろはが食事を持ってきたり羽織るものをかけてくれたり、 親身になって世話をしてくれます。 いろはがやって来てからの若者は、とても幸せでした。 突如、いろはは大きく目を見開きます。 「ど、どうしたんだいいろは?」 「大変です、旦那様!」 いろはは、まっすぐに前方を・・・・・・若者にとっては背後を・・・・・・指差しました。 「ご覧ください、旦那様! 鬼が子供をさらおうとしています!」 「ええっ!?」 唐突な言葉に驚き、振り向いた若者の目には異様な光景が飛び込んできました。 背が高く、紅い布切れのような着物を僅かにまとったのみの異形の者が道を歩いています。 その顔は真っ赤で、大きな牙をむき出した恐ろしいものでした。正に鬼のような面を、その者はつけていたのです。 異形の者の肩には、なるほど一人の髪の長い小さな女の子が乗せられていました。 「私、退治してきますね! 旦那様は、少しの間お待ちになっていてください!」 「えっ。いろは!?」 仰天したらしい若者の声を後ろに、いろはは鳳麟(ほうりん)と凰嘴(おうさい)を持ち直しざまに飛び出していました。 いろは達の見た光景の意味は、こういうことでした。 鬼のような姿の異形の者はタムタムという名で、遠く南蕃から海を越えてやって来ていました。 彼は故郷から奪われた二つの宝玉を探しに来たのですが、やって来た日ノ本の國では、 素性を問わず広く武芸者を募り、御前試合が行われていたのです。 御前試合を最後まで勝ち抜いたものには天下無双の証と金一千両、米一万石が与えられると御触れが出され、 さらに大願の成就が約束されていたのですが、 タムタムにとって、それらすべてはどうでもいいことでした。 それでも彼が御前試合に出ることにしたのは、素性を問わず・・・・・・が功を奏したのかわかりませんが、 少なくない数の、人ではない魔性のものまでもが御前試合に集い、邪気が満ち満ちてきたからでした。 不思議な力を持つ故郷の宝玉を奪っていったのは、人でなく魔性のものである可能性が高かったからです。 そして彼は、以前にこの日ノ本の國で出会った剣士である少女と再会しました。 彼女は、レラと名乗っていました。 「れらハ何故、”ゴゼンジアイ”ニ出ルコトニシタノダ? 叶エタイ望ミガアルカラカ?」 「私の望みを叶えられるのは私だけ。」 「ソウダナ。たむたむモソウ思ウ。」 赤い仮面から覗くタムタムの目が微笑んでいました。 彼女ならそう言うと思っていたと、語っているようでした。 「御前試合も大願成就も、私にはどうでもいいわ。 ただ、この困った催し物のために今・・・・・・ウエンカムイが世に溢れすぎてる。」 「たむたむノ村ノ宝珠モ盗マレタ。」 「私達カムイの巫女は、自然を汚すものを鎮め、排除する宿命。それ以外に戦う理由はないわ。」 レラの連れる大きな狼・シクルゥが、レラの手に鼻面を寄せてきました。 「よしよし。」 優しい目で、レラはシクルゥの頭を撫でてやります。 そこへ。 とことこと、子供が近付いてきました。 「大きいデスー。」 銀色の長い髪をし、一部を頭の両側で髷に結い、 紅い大陸の衣装をまとった小さな少女が満面に笑みを浮かべ、シクルゥを見ていました。 タムタムは身を乗り出しかけましたが、 シクルゥは、吼えたり唸ったり警戒した様子を見せたりせず、じっと子供を見据えています。 子供は、笑顔のままシクルゥに手を伸ばしてきました。 「止めなさい。無闇に手を出しては駄目。」 レラは、冷静に子供に言いました。 子供は手を止め、大きな目を瞬かせてレラを見つめます。 「触っちゃダメですカ? レラお姉さん。」 「心得のない者が、エプンキネカムイ(守護神)に触れては駄目。シクルゥがあなたを敵と見てはいなくてもね。」 「れら。コノ子供ト知リ合イカ?」 「花から生まれてきた子供、と言ってあなたは信じるかしら?」 タムタムは瞬きました。 一方子供は、タムタムを見てまた笑顔になります。 「わー。お顔、まっかっかデスー。」 そして今度は、嬉しげにタムタムに近付いてきました。 「・・・・・・怖クナイノカ?」 「はれ」 子供はタムタムの言葉に立ち止まりました。 「どうしてですカ?」 「子供タチ、コノ面ヲ怖ガル。オ前ハ怖クナイノカ。」 「まっかっかで、面白いデス!」 子供はまた、にっこりと笑いました。 タムタムは、子供好きな勇者でした。 しかし、神の面と呼ばれる戦いの仮面をつけた時から、 村の子供達は彼を怖れて避けるようになりました。 寂しく辛いことでしたが、勇者の使命を果たすまでは タムタムはその事実を極力気にしないでおこうと務めていました。 今、目の前にいる幼い少女の、 仮面をつけたタムタムをまるで怖れていない様子は、ほのかな嬉しさを彼にもたらします。 子供達の中で、仮面をつけたタムタムを怖れないものは、あとは妹のチャムチャムだけでした。 タムタムは、長い腕を伸ばして少女を抱え上げました。 少女は嬉しそうな笑みを崩しません。 一方タムタムは、不思議そうに仮面の下で目を瞬きます。 「オ前、軽イナ。マルデ羽ノヨウダ。」 少女はというと、タムタムの仮面をつけた顔を目の前にしてはしゃぎだしました。 「まっかっかのお顔、硬いデス〜! お顔、お面なんでスね! 」 子供は嬉しそうに笑いながら、小さな手で面をぱちぱち叩きました。 勇者タムタムが困ったような目をしているのがわかります。 「駄目ダ。コノ面ハ大切ナモノ、ソンナニ叩イテハイケナイ。」 「はれ? 叩いちゃ駄目ですカ?」 「オ前、名ハ何トイウ?」 「淑鈴は、劉淑鈴デス。お父さんの娘デス!」 「りゅうすーりん? スルトオ前ノ父、名前ハりゅう・ゆんふぇいカ?」 「お父さん、知ってるですカ?」 淑鈴の顔に、花が咲いたように喜びが溢れました。 「知ッテイル。立派ナ勇者ダ。」 「正しく言うとー、お父さんは武侠デスよ。立派な武侠だかラ、大侠って呼ばれマス!」 「ソウダッタナ。トコロデ、すーりん。お前ハココデ何ヲシテイル? ゆんふぇい、一緒デハナイノカ?」 「お父さんは今、ごぜんじあいをやっているのデス。淑鈴、お父さんの帰りを待っていマス。」 「ゴゼンジアイ? ゆんふぇいモ出テイルノカ?」 「ごぜんじあいには”ましょうのもの”もいっぱい出ていてー、”魔界の門”を開こうとしてるデス。 だからお父さんは、”魔界の門”を閉じるためにごぜんじあいに出ているのデス。」 「ナルホドナ。」 「でも、御前試合の行われている城からここまではかなり距離があるわね。 あなた、一人で歩いてきたの?」 「はれ。」 レラの言葉に、振り向き彼女を見た淑鈴は目をぱちくりと瞬きます。 「そうなんでスか? 淑鈴、お父さんが帰るまでお散歩してただけデスよー。」 その無邪気な言い方に、レラは「ふぅ」と軽く息を吐きました。 「あまり心配をかけるようなことは止めておきなさい。そうやってふらふらする子はリムルルだけで十分。」 レラに寄り添うようにしていたシクルゥが、クゥンと鼻を鳴らして主人を見ました。 そこで、タムタムはこの淑鈴という少女を肩に乗せ、父親のところまで連れて行くことにしたのでした。 少し離れて、レラと狼のシクルゥが続きます。 彼女の方は、淑鈴の父親に何らかの用事があるようでした。 そうして道を歩いていた彼らの前に、鳳麟(ほうりん)と凰嘴(おうさい)を構えたいろはは飛び出した、というわけでした。 いろはは、きっと目の前の”鬼”を睨みつけ、叫びます。 「今すぐ、その子を下ろしなさい! そうすれば、この場は許してあげます!」 「はれれ? 淑鈴のことですカ?」 異形の者の肩の少女が、首を傾げました。 異形の者は、目の前に突然現れ武器を突き出した女を瞬きしながら見つめていましたが、やがて言いました。 「オ前・・・・・・精霊トモ違ウ、魔物デモナイ。一体何者ダ?」 「え?」 構えを取っていたいろはは虚を突かれました。 「サルルン・チカプ・カムイ。」 娘の声がします。 いろはが鬼と見た異形のものの少し後ろを、狼を従えて歩いていた少女、レラの声でした。 「れらタチノ言葉ダナ。何ヲ示ス?」 異形の男は振り向き、彼女に尋ねます。 「湿原の鳥のカムイ。レプンモシリ(本州)では鶴というようね。」 「えええっ!?」 冷静に答えたレラの言葉を聞いたいろはが、素っ頓狂な声を出しました。 (な、何故だかわかりませんけど、ばれています・・・・・・。最近、すぐにばれてしまうことが多いみたいですけど、 私はひょっとして変身がヘタなんでしょうか??) 先ほどの御前試合もそうでした。 いろはが戦い引き分けた、大陸の老人は言ったのでした。 「主は・・・・・・なるほど、胎仙の化生か。」 言葉の意味はよくわかりませんでしたが、少なくともいろはが実は人でないということは、老人に悟られていたようです。 戸惑っているいろはの真前に、突如誰かが飛び出してきました。 「お・・・・・・お、鬼め! それ以上いろはに近付くなっ!」 大きな”鬼”、と彼が見ている勇者タムタム目掛けてそう叫んだ若者は、 拳を握り締めながらも、全身をがたがたと震えさせていました。 「旦那様っ! 駄目です、どうかお下がりになっていてください! こんな危ないことはなさらないで・・・・・・。」 「ぼ、僕だって男だ!」 これまで一度も聞いたことのない、”旦那様”の必死の大声にいろはは言葉を継げなくなります。 「そりゃあ、僕にできることは道具を直すことだけだ、お侍さまたちのように刀も力もないのはわかっている、 でもいろは一人だけに、危ないことはさせられない!」 「旦那様・・・・・・。」 若者の言葉に、いろはの目が刹那潤みました。 「カッコいいデスー。」 ”鬼”と勘違いされたタムタムの肩にちょこんと腰掛けている少女が、笑いながら手を叩きます。 「オ前、ソノ娘守リタイノカ。」 交互に二人を見ていたタムタムが言いました。 「オ前、戦士デハナイ。力ガアルヨウニモ見エナイ。守リタイト思ウナラバ、相応ノ力必要。 闘ウ力持タヌ者ガ、戦士ノ前ニソンナ引ケタ腰デ出テクルナ!」 ”鬼”の神鳴を思わせる力強い声に、若者はびくんと身を震わせます。 「あ、あの! おっしゃるとおりかもしれませんけど、旦那様に失礼なことは言わないでください!」 ”鬼”はそう言ったいろはに目を移しました。 「オ前、コノ男ニ仕エル侍女カ?」 「私は、旦那様へのご恩返しに身の回りのお世話をさせていただいているのです。」 「ソレナラ、侍女デ間違イハナイナ? 踊リ子ノヨウナ格好ダガ。」 その時、タムタムの肩に腰掛けている淑鈴が言いました。 「えとデスネ、あのデスね、たもたもサン、レラお姉さん。 お父さんがネ、この人のコト、タイセンのケショウだって言ってましタ!」 いろはの顔色が変わりました。 「駄目です! 絶対に駄目です! 旦那様の前でそれは言わないでください!」 彼女は慌てて叫びます。 「たいせん・・・・・・けしょう・・・・・・何のことだろう? さっぱりわからないよ。」 旦那様と呼ばれる若者は困惑した表情で呟きます。 「あ、おわかりにならないのですか?」 若者の呟きに、いろはは少しほっとした表情を見せました。 「でも、いろはが知られたくないことなら僕は聞かないよ。僕は、いろはがどこの誰だろうとかまわないから。」 「旦那様・・・・・・。」 いろはは、その言葉が嬉しいからなのか、それとも何か悲しいことがあるからなのか、少し唇を噛んで俯きます。 タムタムは首を傾げいろはを見ていましたが、やがて尋ねました。 「シカシ、侍女ガ何故刀ヲ・・・・・・刃ガアルカラ、ソノフタツハ刀デヨイナ?・・・・・・持ッテ戦ッテイル?」 「え? こ、これはですね、御前試合に参加するためです。」 「何故”ゴゼンジアイ”ニ、主人デナク侍女ノオ前ガ出ルノダ?」 「そ、それはそのぅ・・・・・・旦那様を助けていただくためです!」 「えっ・・・・・・僕を?」 「助けが必要なようには見えないけれど。」 冷めた声で、狼を従えた少女レラが言いました。 「旦那様はお加減が悪いのです。私では旦那様に何もしてさしあげられません。 御前試合で勝てば、何でも望みを叶えていただけると聞きました。 ですから私は、御前試合に勝って将軍様に、旦那様をお元気にしていただけるようお願いしたいのです。」 「ち・・・・・・ちょっと待っておくれよ、いろは。 僕は病でも何でもない。将軍様やお医者様の手を煩わせるようなことはないんだ。」 いろはは、そう言った若者を振り向きます。 「ですが、旦那様は近頃ため息ばかりおつきになって、お辛そうでした。 私が心配することではないともおっしゃいました。」 「それは・・・・・・何故なのか、僕にもよくわからない・・・・・・。わからないけど、いろはが心配しているようなことでは ないんだよ。本当だよ!」 いろはと若者は、お互いに戸惑います。 いろはの方は、それならどうすれば旦那様のためになるのかがわからなくなったからですし、 若者の方は、口に出しながらいろはを心配させた原因が何なのかが、自分ではっきりと理解できなかったからでした。 そんな彼らを目前に見ながら、 「・・・・・・そういうこと。」 レラは呟きました。 |