叢雲風華
〜まやーさりーん

子供の叫びと泣き声が、また夜闇に響いた。

(ど、どうしよう!?)

突然の異変に戸惑うリムルルの足が、突如地からふわりと浮かびあがる。

「え?」

目を見張る刹那に、浮かんだリムルルの体は宙を運ばれ、シクルゥの上へと投げ出されていた。

「わわっ!」

咄嗟に、リムルルはシクルゥの背に乗るレラの背にしがみつく。

シクルゥの筋肉の躍動に合わせて、地から伝わってくる震動。

同時に彼女の耳元に、細氷の囁きが届いた。

「コンル!」

リムルルは叫ぶ。

リムルルの体は、コンルが刹那の間に作り出したシンタ(揺り籠)に乗せられ、シクルゥの背まで移されたのだった。

友達を運び終えたコンルは、いつもの角形へと戻り氷は解け落ちる。

「ありがと!」

腿に狼の毛並みを感じ取り、リムルルはシクルゥの背に乗るレラの腰へと両手を移動させた。

「あなたの精霊は、手回しがよすぎるわ……」

小さくレラが呟く。

「え?」

瞬いたリムルルは、正面を向いたレラの赤く染まった頬を見ることは出来なかった。



しかし。

レラの温もりを通して、またしてもリムルルは別の世界の景色を垣間見ることとなる。

風が吹いている。嫌な匂いが微かに混じった風。

金物のような刺激の混じった、生暖かく湿った匂い。

黒い雲に覆い尽くされた重い空が、リムルルの目に映り込んだ。

(……また?)

その頃には、リムルルにも見当はついていた。これが姉の言っていた、巫女が持つとされるウウェインカルなのか。

(こんなときに出てほしくないなァ……)

リムルルの思いとは裏腹に、脳裏にありありと映し出された幾本もの幟。

それらは冷たく禍々しい風に棚引き、刃の打ち合わされる硬質な音が絶え間なく響く。

その経験のないリムルルにも理解できた。

そこでは、戦が行われていることを。

煙と人の叫び、馬の嘶き、血の匂いにまぎれて流れてきた光景。

リムルルは、そこで起こった真実と遭遇した。




夜風の中を駆ける狼の背で、レラにしがみついたリムルルはぶるんと頭(かぶり)を振った。

ぱちりと目を開き、

「レラさん」

身を寄せている風の巫女に話しかける。

レラは振り向かないが、聞いていることはわかる。

「ねぇ、レラさん? ひょっとしてミナさんは……」

夜の闇の只中、風が耳の中を拭き抜けていく。

「……なの?」




束の間、黙していたレラが呟いた。

「見えたのね」

肯定の言葉と同じ、その呟きに。

「そんなことがあったんだ……? それじゃあ、あの女の子は」

「あなたの力は、この旅の僅かな間にどんどん強くなっているみたい。喜んでいいものかしらね」

「え? レラさん」

「ほら、見えてきたわ」

レラの呟きと同時に、再び獣の咆哮が轟きリムルルは身を竦める。

「なに、あれ!?」

「あの”守り獅子”がああなった理由はそれ」

リムルルは、レラの背にしがみつきつつ身を乗り出した。

目にしたものに息を呑む。

「守りシシ……? もしかして、あれがあのちっちゃい子なの?」



竹林の前でシクルゥは止まり、レラとリムルルはその背から舞い降りる。

信じられない光景が広がっていた。

暗い竹林の中、夜の闇にもその大きさがわかる、目にしたこともない異様な姿の獣。

その猛り狂う獣の全身は、渦巻く波のような形の、色鮮やかな鬣(たてがみ)で覆われている。。

「ガアアオオオオオオ!!」

獣が、鋭い巨大な爪のある前足を振り上げた。

「危ないっ!!」

その先にへたり込んでいる、涙で顔がぐしゃぐしゃになっている子供の姿を認め、リムルルは声を張り上げた。



烈風が舞い上がる。

「わぁっ!」

腕で顔を覆い、再び視線を向けた時には獣の前に子供の姿はなかった。

竹林の中で唸りをあげる巨体の獣の上空で、二本の竹が大きく撓っている。

竹を曲げているのは男の両脚。

大きく開脚したまま、その者は曲芸師のように不安定な竹の上に留まっている。

「フンッ!」

一声と共に、跳ね返った竹が猛烈な勢いで獣に襲い掛かり、竹の上の人物が跳躍し、宙を翔ける。

「ええっ!」

リムルルは目を見張った。

まるで背に翼があるかのように飛行する人物はあの時の老人、劉雲飛。

「ちぃっ……!」

人の気配と共に小さな舌打ちの声を認め顔を向けると、

徳川慶寅が端正な顔を歪めていた。

「粋じゃねえことしちまったなぁ、あいつは……」

少し遅れて、駆けて来た黒河内夢路が慶寅の隣で足を止める。

「慶寅さん?」

粋じゃねぇ、の言葉は誰に向けられたのか。

「あの獣は……」

「グガオオオオ!」

獣が吼え、その身を打った竹の圧し折られるバリバリという音が響き渡る。

風を切る音と共に、その頭上に雲飛が舞い降りた。

「あ」

その片腕に、しっかりと抱えられている幼い娘。

涙に濡れた顔を伏せ、老爺の衣服を小さな両手で握り締めている。

その姿は、リムルルに先程シクルゥの上で、レラにしがみつきつつ見た光景を思い起こさせた。

「あの子は、ミナさんの……」

「ん?」

リムルルの声に慶寅が反応し、彼はレラに目を向けする。

「あんた、この子に黄泉が原でのことを話したのかい」

レラが目を伏せた。

「この子には感じ取る力があるの。ウウェインカル、という」

「ギャオオ!」

老爺の頭上からの踏みつけを数度喰らい、獣は吼えながらさらに暴れる。

子供を抱えたと逆の手に、老爺は大きな刃渡りの刀を握っていた。

その手の中で、流麗に舞う刃。

「主が憎むべきは娘ではない」

闇の中に閃く白銀の光。

これまでにない苦痛を含んだ咆哮が轟き、

獣が竹林の中で、どうと倒れた。

舞い上がった笹が散った時には、倒れたまま身じろぎを繰り返す獣の前に雲飛が立っていた。

冷たい光を宿した、険しく厳しい眼差し。

「主が憎むべきは儂だ。だが憎まれようとも娘に対する主の害意、見過ごすことはできぬ」

その呟きが終わると同時に、振り上げられる刃。

「許せとは言わぬ」

「雲飛さん!」

我知らず、リムルルは叫んでいた。

だがその叫びを掻き消す、もう一つの叫びが夜闇に響く。

「チャンプルに触らないで!」

弦の音が闇に響き、次の刹那。

風を切り裂き、老爺の肩に一条の矢が突き立っていた。


空気が凍りつく。

苦痛に顔を歪めた雲飛が膝を突き、

その腕の中にいた子供が目を見開く。

夜闇の中、またも叫び声が響く。

愕然としたリムルルは、矢を放った射手に目を向けた。



真鏡名ミナが、青藍の瞳で前方を睨みつけていた。

「チャンプル!」

周囲の愕然とした視線をものともせず、大弓を下げミナは竹林目掛けて走り出す。

その姿が視界から消えた後も、リムルルは呆然と立ち尽くしていた。




「もう、死んでよ」

そう呟き、幽鬼のような表情で構えた鏃を向けるミナの姿。

リムルルがウエインカルで捉えた光景が、今また呼び覚まされたのだった。


「八つ当たりは迷惑だわ」

レラの声が聞こえた。

「あなたこそ消えなさい」

冷めた紅い瞳で、風の巫女が告げる。

対峙する青藍の瞳の中で、殺意が燃え上がる。