叢雲風華
〜わっさいびーん

ふうっと、目の前が開けた。

夜の暗闇と、含まれた湿り気とが体を包んでいる。

ウエインカルの呪縛から醒め、リムルルはぷるぷると頭をふった。

(レラさんと、ミナさんが……?)

先ほど見た光景を想起すると同時に、彼女は完全に現世(うつしよ)へと立ち返る。

そして、たった今起こった事態に直面した。

「待って!」

一声叫び、妖滅師の少女の後を追って走り出す。

暗闇の中に浮かぶ竹薮を目指し、二人の娘が次々に駆けていく。

「あがー……あがー……」

幽かな泣き声が、暗闇から響いてくる。

「チャンプル!」

必死の声と共に、真鏡名ミナは駆け寄った。

腕から血を流し、円らな瞳からぽろぽろと涙を零している小さな獣の下へと。

「あがー……ミナー、ミナー」

ミナは泣いているチャンプルの前に屈みこんだ。

「チャンプル……」

「あがー」

「しっかりして!」

リムルルは足を止めた。

小屋の中でのひたすら黙していた冷たい姿とは打って変わり、必死にチャンプルを呼び続けている、

ミナの真摯な姿を見つめる。

(そんなにその子のことが大切なんだね……、ミナさん)

別の呻き声が耳に届いた。

はっと目を向ける。

その肩に矢を突き立てたまま、劉雲飛は崩れ落ちようとしていた。

「雲飛さん!」

駆け寄ろうとしたリムルルの目前で、

老爺の身体が傾いだ。

「がはっ」

足がその場で凍りついた如くに止まり、リムルルは思わず両手で口を覆っていた。

苦痛の呻きと共に、老爺の口から鮮血が噴出し

闇の中に、鮮やかな赤い色が映り込み、そして飛び散った。

白い顎鬚が、無残に血に染まる。

「……あ……」

ただかすれた声のみをリムルルは搾り出した。

老爺は地に倒れ伏し、その体がなおも痙攣を繰り返している。

目の前の凄惨な光景から目を反らす事ができず、吹雪荒れ狂う夜の如く、頭の中が真っ白になった。

何が起きているのかもわからず、立ち尽くすより他はない。

ふと、のたうつ老爺の向こうで

目を見開いて立ち尽くしている子供……劉淑鈴の姿が入った。

世界そのものが打ち壊されていくのを、為す術なく見つめるしかない絶望の表情。

あらゆる感情が打ち砕かれたその顔を見て、

(助けなきゃ)

その思いがリムルルの心に湧き上がる。

「コンル!」

コンルで冷やせば、なんとかなるかもしれない。

理屈も何もなく、リムルルはそう思った。

「コンル、雲飛さんのところに行ってあげて!」

「無駄よ」

冷たい声が耳に突き刺さった。



見ると、立ち上がっていた真鏡名ミナがリムルルを見据えていた。

リムルルは僅かな違和感を彼女に覚え、すぐにそれが何かを知る。

腰に巻きつけられた長い白布。その一部が裂かれていた。

裂かれたそれはミナの腕の中に抱えられつつしがみついている、チャンプルの体に巻きつけられている。

白布には血が滲んでいた。

「ミナー……」

弱々しい声がミナを呼ぶ。

「ムダ……って……?」

「そいつはもう助からないから」

冷たく平然と、ミナは告げる。

リムルルは声を失った。

ややあって。

「ひょっとして……スルク(毒)?」

故郷のカムイコタンでは、狩りの際にある種の草木……トリカブトや、海の生物から採られた毒が使われることもある、

その事を思い出し、リムルルは声を絞り出す。

「ミナさんの矢のさきには、毒が塗ってあったの?」

「私はそんなもの使わない」

軽蔑の光が、リムルルを見る青藍の瞳を過ぎっていった。

「強いて毒があるとすれば、鏃(やじり)にじゃない」

ミナは、なおも苦悶の動きを繰り返す老爺に一瞥を向け、すぐリムルルに向き直る。

「そいつが元から体の中に持っていたものよ。そうなるのも当然の結果」

「……わかんないよ……」

「部外者にわかるわけがないけど。そいつはヤナカジの器だったから、破魔の弓矢は致命傷になる。それだけよ」

「やなかじ……って?」

「魔物の放つ悪い風のこと。それを滅するのも私の役目」

ミナは、腕の中のチャンプルに目を落とす。

「もう、こんなとこにいなくてもいいね。行こう、チャンプル」

リムルルに向けられた氷のような冷たさはすっかりその声から抜け落ち、温かさに満ちていた。

ミナはくるりと踵を返す。



リムルルはただ、呆然と立ち尽くしていた。

目の前で苦しんでいる人に対して、何もできる事がない。

(姉さま……姉さまぁ、私どうしたらいいの?)

小さな肩が震え、唇が戦慄き、目に涙が滲む。

突如、夜の闇に叫び声が響き渡る。

びくっと大きく身を震わせたリムルルの目の前で、

背を向けたミナの腰の後ろに取り付けられた矢筒から、突如大量の矢が飛び出した。


「ええっ!?」

リムルルと、異変に気付き振り返ったミナが同時に声を上げる。

矢は矢筒から一斉に放たれたかのように空へと舞い上がり、

すべてが上空でぴたりと止まった。

「なっ……なにこれ!?」

その目で見たものが信じられず叫ぶリムルルと、立ち竦むミナ目掛けて、

下方を向いた鏃が光を帯び、雨となって一直線に降り注いだ。


「しゅらぁアッ!!」

氣合一閃、男の叫び声と共に巻き起こった烈風が周囲を凪ぐ。

同時にリムルルの頭上に飛び出したコンルが広がり、盾へとその形を変えた。

「コンル!」

声を上げた途端に、リムルルは何者かに突き飛ばされていた。

その身に紫の外套を巻きつけ、コンルの盾で防ぎ切れなかった流れ矢からリムルルを庇ったのは。

「レラ……さん?」

鋭い視線を宿した紅い瞳がリムルルを捉えた。

「怪我はないわね?」

「う、うん」

常と同じ冷静な口調に気圧され、頷く。

立ち上がり、振り向いたレラの視線を追ったリムルルは、

「わっ……。」

目にしたものに大きく目を見開く。



竹林に降り注ぐ月光に、巨大な白刃の煌きが白々と浮かび上がる。

信じられないほど長く大きな太刀の柄を握り、片膝を突いている徳川慶寅。

その後ろに、チャンプルを抱きかかえ呆然と立ち尽くしているミナの姿。


周囲の竹や地の彼方此方に、半分に断ち切られ矢羽を失った矢が突き刺さっているのが見える。

「我旺様をも圧倒した太刀筋……」

低い呟きを耳にしたリムルルは、黒河内夢路の姿を認めた。

「夢路さん」

「ご無事でしたか。遅れて申し訳ありません」

夢路は軽くリムルルに一礼した。

「それにしても」

眉根を寄せた夢路の声が、常より低く、警戒を帯びたように感じられる。

「あれは……」

「あれって?」

きょとんとしたリムルルは、レラの険しい視線に気付く。


立ち上がった慶寅が、レラが、夢路が見据えているモノの姿。

「ひっ!?」

思わず、喉が鳴った。

そこに立っていたのは、夜の闇にもはっきりと感じ取れる、

禍々しい氣を全身から発している、小柄な”何か”。

凄まじい殺気に満ち満ちた二つの目だけが、闇の中に爛々と輝いていた。


コ ロ シ テ ヤ ル



真っ黒い瞋恚(イルスカ)が、脳裏に直に侵入し、焼き付けられる。




「いやああ!」

悲鳴を上げリムルルは両耳をふさいだ。

とてつもなく禍々しい何かが、周囲で殺気で汚染する何かがすぐ側にいる。

(助けて! 怖いよ姉様、助けて!)

心の中で恐怖が渦を巻く。姉を呼ぶ叫びは声として発せられることもなく、リムルルの中で響き渡る。

そんな彼女の肩を、ためらいを脱ぎ捨て抱きかかえる娘の腕があった。

体を包む温もりに、リムルルは目を上げ、冷静な赤い瞳の光を見た。

「レラさん」

「落ち着きなさい!」

その声は、リムルルの動揺を止めた。



オトウサンヲキズツケタ


頭の中に、なおも容赦なく入り込んでくる真っ黒な思念。



ソイツ、コロシテヤル




強烈な殺意が大気を焼き焦がす。

その小柄な姿は、どうやら子供のものと認められた。

だがそれはもはやあどけない幼子ではなく、世に在らざるべき異形のものと化していた。

それを真っ直ぐに見据え対峙する慶寅の背後で、

彼の身体に守られる形となったミナの慄く表情が見える。

リムルルは戦慄した。

先ほどより強く耳を両手で塞いだが、その行為は何の役にも立たず

純粋な憎悪と殺意が心に侵入してくる。

「やめて……やめてよ、怖い……怖いよぉ……。」

震える声でリムルルは繰り返す。

そのモノの前に慶寅が立ち、厳しい目を向けていた。

「子どもがそんな言葉口にするもんじゃねえ」

これまでの道中では耳にしたことのない、凛呼とした、力強い響き。



子ども……?

恐る恐る、リムルルは涙に滲んだ目を上げた。

周囲をみるみる汚染してゆく、子供のものではない、人のものでもない。

積もり積もった汚濁、全てを呑み込む呪詛、圧倒的な破壊への衝動。



「レラさん?」

震える声でリムルルは尋ねる。

「あれ……あれは、一体なに? ねぇ、なんなの?」

レラは赤い瞳を、ある者へ向けた。

その方向へ視線を誘われたリムルルは、

チャンプルを抱きかかえ、呆然としている真鏡名ミナの姿を見る。

「殺劫……なの……?」

ミナが呟いた。

「え?」

「ん?」

リムルルと慶寅が、同時にミナの呟きに気をとられた時。


突如周囲の闇が、放たれ続ける禍々しき殺気と交じり合い、

闇黒の濃霧と化して広がりリムルルに襲い掛かる。


「いやああああ!」


自分の発した叫び声以外、何も聞こえなくなった。





闇の中に、ちろちろと揺らめく炎。

(……ここ、どこ?)

目を開き、リムルルは身を起こした。

ごつごつとした岩場に自分が横たわっていることを知る。

(まだ、夜なの?)

しかし周囲を見渡し、すぐにわからなくなった。

自分が今、一体どこにいるのか。

「レラさん? 慶寅さん? 夢路さん??」

不安で胸を膨らませながら立ち上がる。

「みんな、どこ? どこにいるの?」

リムルルの声はより大きくなった。

すぐ傍らで、聞きなれた細氷の旋律が聞こえる。友だちの”声”だ。

「コンル!」

見慣れた氷の精霊の姿を見つめ、心を押し潰さんばかりに膨れ上がった不安は弾け飛んだ。

「良かったあ〜。コンルはいてくれたんだね! でもみんなは、一体どこにいったんだろ?」

再び辺りを見渡す。

侘しい岩場の間に、時たまちょろちょろと不思議な炎が見える。

「みんな、どこぉ? 誰か、いませんかぁ?」

もう一度、呼ばわってみる。

しかし応える声の代わりに、突如思いもかけぬ声が耳に届いた。



──國が哭いておるわ。



重々しき声が、辺りの澱んだ氣の中から湧き上がる。

リムルルは、びくりと身を縮めた。

「だ、誰っ!?」

立ち上がり、腰の後ろのハハクルの柄に手をかける。



我、現世を離れ、此処に魔界を統べし者を討滅するとも、國の慟哭は鳴り止まぬ。




「まかい……?」

呆然とリムルルは呟いた。

なおも声は重々しく響く。




艶やかな紅に彩られし我が生涯、未だ潰えず。この手中に魔界を統べるとも、命数は尽きず。

なれば、今こそ忠國の大義を果たさんことを。

現世と魔界の覇権をここに賭し、現世を統べし、ますらおよ!──いでや示さん、侍魂!!





強烈な響きを持った声が放った最後の言葉は、リムルルの魂を直に揺さぶってくるようだった。

「誰? 一体誰なのっ?」

その時、コンルの”声”の響きが変わった。

「あ!」

前方に倒れ伏す人の姿が見える。

銀色の長い髪が頭の後ろでまとめられ、流れ落ちている。

「ミナさん!」

リムルルは、コンルと共に駆け寄った。

「大丈夫?」

そう声をかけ、肩を揺さぶろうとするリムルルの手が撥ね退けられた。

「起きてるからほうっておいてよ」

ミナは起き上がり、リムルルには目もくれず周囲を見回した。

「チャンプル!」

立ち上がり、なおもその名を呼ぶ。

「チャンプル! どこ?」

辺りの闇に満ちているのは、恐ろしいほどの沈黙のみ。

ふっとミナはため息をつく。

「早く、見つけてあげなくちゃ」

「ち、ちょっとぉ!」

リムルルは自分を完全に無視したミナに対し、半分抗議を込めて声を張り上げる。

「ミナさんは、さっきの声を聞いてなかったの?」

歩み出そうとしていたミナは動きを止めた。

「……魔界がどうこう言っていた声のこと? 興味ない」

そのまま、再び歩み出そうとする。

「ウエンカムイかもしれないでしょっ!」

そう叫んで、リムルルはふと気づいた。

彼女の手には、先ほどまであったはずのあの巨大な弓(クアレ)がない。

(この人、よーめつしなんだってレラさんが言ってたっけ……)

ふと、思い当たる。

(じゃあ、弓がなければ”よーめつ”はできないんじゃ?)

特に何も考えず、思ったままを口にする。

「そっか、弓がないからミナさんはなんにもできなくなったんだ?」

明るく言い放つ声に、ミナの足が止まった。

「あまりバカにしないで」

低くなった声が言い返してくる。

「素手でもティ(手)で多少は何とかなる」

「てぃ?」

「琉球には空手も伝わってるから」

「ふーん」

つまり、素手で殴ったりとかして戦う、ってことかな?

そういえばシカンナカムイ刀舞術にもあるって、姉さまが言ってたっけ。んーと。

頬に指を当て、その言葉を思い起こす。

「それって、ハシナウカムイ流えんぶじゅつみたいなの?」

リムルルはミナに続けて話しかける。

「紫の姉さまが得意なんだよー。ぼっこぼこに殴ったり、イタイとこ蹴ったりして、結構えげつないの!」

「まとわりつかないで。邪魔」

ミナがぴしゃりと言った。

「むっ!」

眉を寄せ、頬を膨らませてリムルルは、彼女を気にも留めずに歩を進めるミナの背を睨みつけた。

(勝手だ、このヒト!)

初めてリムルルは、ミナに対して怒りを覚えた。

「じゃあミナさんは、こんなとこで一人っきりでもいいっていうの!?」

ミナの背に向かって怒鳴りつけるリムルルの声に、彼女は立ち止まる。

「あなたに心配されるいわれなんかない」

(……むッッかぁ!)

小さい胸の中で、怒りはさらに膨れ上がった。

ミナはそのまま振り向くこともなく、一人歩みを進めていく。

「べーっ!」

その背中に向かって、リムルルは思い切り舌を突き出した。

「ふーんだ! あんな人もう知らないっ。行こっ、コンル!」

友達の氷の精霊を振り向き、リムルルはミナの去った方向とは反対の方へ歩き出そうとしたが。

しかし、その足は自然と止まった。

「うわぁ……」

小さな呟きは弱々しく消える。

上空……果たしてそれは、空と呼べるだろうか?

重苦しく禍々しい、雲とも瘴気ともつかぬ黒い気に覆い尽くされたそのニシ(空)は

ただ閉塞感だけを伝えてくる。

周囲に見えるものといっては、禍々しき渦の中から時折覗くごつごつとした岩肌のみだった。

置かれた状況のあまりの異様さは、リムルルの足を竦ませた。

(ど……どうしよぉ……)

周囲には、誰の姿も見えず。

それどころか、生きているものの気配もない。

去っていくミナの背が、脳裏に浮かび上がった。

あんな人でも、一人よりはまだましかもしれない。

後ろを振り向いて。

「ううん!」

すぐさま意を決し、リムルルは頭(かぶり)を振った。

「大丈夫!きっと大丈夫だよっ! コンルがいるもん、安心だよね!」

と、リムルルは精霊のウトクイエコロペ(友達)に笑いかけた。

友達は薄闇の中で、煌々(きらきら)と煌いてみせる。

力を得て、にっこり笑い返しリムルルは思う。

ミナの他にも、あの場には人が何人もいた。

「レラさんと、慶寅さんと夢路さんはどうしたんだろ?」

次にすることは決まった。

「よぉっし!じゃあみんなを探そっか、コンル!」

コンルと共に、元気良くリムルルは歩き出したが。

「それにしてもここって……すっごく、気持ち悪いところだよねコンル」

朧に、不気味な火が瞬く。

パシクルアペ(鬼火)だ!

「ひゃあっ!」

思わず悲鳴を上げ、両腕で顔を庇った。

暫しの間の後、こわごわと見る。

相変わらず、パシクルアペ(鬼火)はちろちろと瞬いているが特に危険な様子はない。

「……ここって……」

私、どうしてこんなところにいるんだろ?

足を止めてリムルルは思った。

少なくとも、この不気味な場所はあの事件の起きた竹林の中でないことは確かなのだが。

「コンル……さっきの変な声、”まかい”がなんとかって言ってたよね……まかい、っていうのは」

かつて姉に教わった、ひとつの言葉が脳裏に浮かぶ。

ポクナモシリ。

人の世界(アイヌモシリ)でなく、神の世界(カムイモシリ)でもない、

地下の陰鬱な冥府、神々に敗れた悪しき神や魔物が追いやられる場所。

「私たち、ひょっとしてポクナモシリに来ちゃったの?」

さしもの元気者のリムルルも、思わず青褪め悲痛な声を出していた。

「どうして?」

リムルルは、ぶるっと大きく身を震わせる。

今の自分が置かれた状況についての予測は認めたくない恐ろしいものであり、

そして同時にあの時に見た異様なモノを、再び思い出したからだ。

全身に殺気を漲らせた恐ろしいモノ。

「もぉやだぁ……」

すべてから逃げ出したい気持ちだけが心の中に満ち満ちて。

「姉さまぁ……」

涙声で、リムルルは姉を呼んだ。

それはどこにも届くはずのない声だったが。


さぁっと、風景が開ける。

緑の竹林、朝の光が落ちる中。

しっかりとした足取りで。

長い艶やかな黒髪を流し、目にも鮮やかな赤い飾り布を頭部に巻いた、可憐な娘がやって来る。


「姉さま!」



姉さまが来てくれたんだ!

リムルルの心に喜びが溢れたが、姉の行く先には別の光景が見える。

仰向けに横たわる、長い白髪の人物。

その手甲を嵌めた手に握られている、幅広い刃を持つ刀。

「雲飛さん!?」

竹林の中で老爺は、これまで見せていた厳しくも透徹した瞳と、静謐ながらも剛健な表情からは及びもつかない

柔弱さすら覗わせる表情で横たわっていた。

自ら矢を抜き去り抉り抜いた肩の傷は、まだ生々しい紅い滲みを残している。

(じゃあ、さっきと同じ場所ってこと?)

肩の部分の衣服は、血にべったりと染まっている。

(ううっぷ……)

傷口は自ら処置したのか肉が抉り出され、生々しく赤い色が覗いており、胸がわずかに上下しているのが見える。

「雲飛さん、ひとりであそこに残っちゃったんだ。でもよかった、無事だったみたい。あれ?」

ほっと息をついたリムルルは、目を瞬く。

老爺から僅かに離れた所に、長い弓が突き立っている。

「あれって……ミナさんの弓?」


横たわる雲飛の前で、姉ナコルルの足は止まり。

彼女はその腰の鞘から、小刀を引き出した。

カムイコタンに伝えられる宝刀、チチウシ。


それを手にし、前へ構えた、アイヌの戦士を継いだばかりのリムルルの姉。

これまで目にした覚えのない光をその澄んだ瞳に宿した彼女は突如、

力を失い横たわる老爺に飛び掛る。

「姉さまっ!?」


雲飛に馬乗りになり、両足で胴体を締め付けたナコルルが

その手にした宝刀チチウシを振りかざす。

「自然の怖さを……教えてあげる」

冥い、悲しみを秘めた声でナコルルは呟く。


雲飛の上に翳された無情な白刃が、冷たい光を宿す。



「姉さま、駄目っ! やめてよ、姉さまぁ!」

その光景に、リムルルは声を限りに叫んだ。