叢雲風華 〜わっさいびーん 弐〜 |
「姉さま!」 姉が、見知った人に刃を振るおうとしている。 「だめー! だめだよ、お願いやめて! 姉さまぁ!」 その事実を目の前にして、リムルルは声を限りに叫んだ。 ただ、見ることができるのみ。 声が届くこともなく、手で触れることも叶わぬ所にいる姉に聞こえるわけもない。 あまりにも遠い幻(オハインカラ)、それが絶望的な隔たりを持っている事も、リムルルの心から消えていた。 その声が、届いたはずはない。 しかし、幻の中で姉ナコルルの腕は振り上げられたまま動きを止め、 チチウシの刃は上空で止まった。 その瞳にはありありと、躊躇いの色が見える。 「姉さま……お願い、止めてよぉ……」 リムルルの目から、涙が滲み出す。 幻の中で、姉に組み伏せられている老爺の目蓋が開いた。 ナコルルを認めた刹那、その目は強い光を取り戻す。 その射抜くような鋭い眼光が、リムルルの心に新たな惧(おそ)れを芽吹かせる。 姉さまと、雲飛さんが闘う……。 脳裏に想い起こされたのは、レラと雲飛が刃を交えた光景。 同じことが起これば、結果としてどちらかが斃れることとなる。 そんな……。 姉が人を殺めるのを見たくはないが、姉が殺められる光景はそれ以上に見たくはない。 絶対に嫌だ! ぶるぶると大きく首を振り、リムルルは逡巡する。 (……ここで、ただ黙って見ているしかないの? 私だって……姉さまみたいに、 カムイコタンの巫女にもアイヌの戦士にもなれるって、認められたのに!) 腰に結わえられた彼女のメノコマキリ、ハハクル。 その存在がリムルルに想い起こさせた。 自分が、何者にならなくてはいけないのかを。 ……やらなくちゃ! きっとできるはず! 決意を胸に立ち上がったリムルルは、そのメノコマキリ・ハハクルの柄を握り締め、声を張り上げる。 「コンル、行くよ! ぜったい二人を止めなきゃ!」 しかし、コンルは動かない。 「どうしたの? コンル!」 その時、コンルは形を変えた。 大きな鏡面へと変化し、その中に姉と雲飛の姿が映る。 「あ!」 リムルルが見た幻、否、遠い地となったあの竹林でたった今起こっていることを 精霊は己が身を使い映し出して見せた。 「……若いな」 コンルの氷の鏡に映し出された雲飛が、低く呟く。 その上に馬乗りになったままのナコルルは刹那肩を震わせたが、強き意志を目に宿して雲飛を見据える。 「そなたは、まだ人を殺めたことはないか」 「……はい」 少女の答えに、老爺の唇にふっと笑みが浮かぶ。 「でも、あなたが自然の敵なら。斃さなくてはならないモノというなら、私はただ一人のアイヌの戦士として、あなたを殺せます」 ナコルルは、可憐だが決意を込めた声でそう告げた。 「儂を屠るべき者と見做しておるならば、なぜその刀を振り下ろさぬ」 ナコルルの、宝刀の柄を握り締めた手が微かに震えている。 「……あなたの気は、深い悲しみに満ちている」 そう、少女は告げた。 「ウエンカムイの悪しき気があなたの中に……それに抗おうとする、良き魂も一緒に」 顔を伏せ、ナコルルは僅かに唇を噛んだ。 「私には……」 「ならば、我が身を解放してはくれぬか」 穏やかな、よく通る声で雲飛が言った。 「その前に、あなたに聞きたいことがあります。答えていただけますか?」 顔を上げたナコルルが、僅かに強めた語気で言う。 「あなたは……」 眼光を返す雲飛の顔。 姉の声がそこで途切れた。 「聞きたいことって? なんなの、姉さま?」 思わずリムルルは、氷の鏡に映った姉に話しかける。 しかし、次の刹那にその目が捉えたものは姉の顔ではなかった。 「慶寅さん!?」 前を見据える彼の真摯な表情を見て、これもまたウエインカルだと気づく。 ただそれがたった今起こっていることなのか、過去に遡ったのかそれとも未来なのか、 判断する術を持たないリムルルは迷う。 「この声。……そうか」 ウエインカルの中の慶寅が目を細めた。 「我旺……アンタ、魔物の國を獲ったってワケかい」 「……そんな」 小さな呟きに、慶寅が目を向ける。 呆然としている夢路の姿。 「ガオウ? なんだっけ?」 小首をかしげたリムルルの前に。 闇に浮かんだ幾つかの鬼火が、ちろちろと迫ってくる。 宙に浮かんだ幾つものパシクルアペは、寄り集まり地に降り立ち、二頭のホケロウ(狼)の姿を取っていた。 それが、炎の牙をむき出しにリムルルを威嚇する。 「きゃああ……っ!」 完全に油断していたリムルルは、咄嗟に飛びのくが均衡を崩し、そのまま尻餅をついてしまう。 腰のハハクルに手をかけたと同時に、鬼火のホケロウが左右から彼女めがけて飛び掛った。 「椿!」 男の叫びと同時に、刀が鬼火のホケロウを両断し地を撃った。 「ふっ」 紅い、花弁を散らさず落ちる華の幻が浮かぶ。 四散した鬼火に目もくれず、 男は異なる太刀を刹那に抜き取る。 「朝顔!」 手元も刀も、その形が捉えられぬほどの速さで回転し、 巻き込まれた今一頭の鬼火のホケロウは、先程の一頭同様火花と化して四散する。 「あ……」 掠れた声で呟いた、座り込んだリムルルの傍に舞い降りてくるコンル。 「どうだい?」 その上に振ってくる、堂々とした声。 「カッコ良かったろ?」 朝顔と名付けた太刀を手に彼女を振り向いた徳川慶寅が、片目を閉じて口元に笑みを浮かべる。 「慶寅さん……?」 瞬いたリムルルが、またも感じ取る異様な気配。 「ふっ!」 一声、慶寅に上空から飛び掛ろうとした鬼火の化鳥が真っ二つに裂かれ、闇へと消える。 「油断は禁物でしょう。このような場所です」 黒河内夢路の紅みを帯びた瞳が冷たく慶寅を一瞥する。 その時、刀は既に鞘へと収められていた。 「ご無事でしたか?」 夢路がリムルルの前に膝を折り、覗き込む。 「う、うん。二人ともすごいね……」 「ま、侍だからな。」 慶寅は夢路を見やる。 「借りを作っちまったか」 「そのように思われる必要はありません」 慶寅を見上げ、すげなく夢路は言った。 瞬きして、リムルルは二人を見た。 「レラさんは?」 もう一度、慶寅と夢路の顔を交互に見る。 「一緒じゃないの?」 「……ああ。」 慶寅が答える。 「そんな……」 リムルルは、その場に立ち上がった。 「すぐに探さなきゃ! さっきみたいなのが、ここにはうじゃうじゃいるんでしょっ!?」 興奮のまま、言葉を続ける。 「それに、クニが泣いてるとか、まかいがなんとかって……」 リムルルは、そこで言葉を切った。 「さっきの変な声……慶寅さんたちも聞いたの?」 「……アンタも聞いてたか」 立ち上がった夢路が、僅かに顔を伏せる。 「慶寅さん、ガオウって言ってたよね?」 「なぜそれを?」 怪訝そうに眉をひそめた慶寅だったが、 「ああ、アンタにゃそういう力があったんだったな」 すぐさま、表情を和らげる。 「ガオウ、って……レラさんが言ってた、夢路さんのしゅくんだったっていう人?」 「……はい」 夢路が答えた。 沈んだ、痛みの滲んだ声。 それはリムルルが続けようとしていた言葉も押し止めた。 「黄泉が原にて、お別れして以来……まさかこのような形で」 あまりに悲痛な夢路の表情に、かける言葉が浮かんでこない。 「ええと……」 どうすればいいのかわからず、戸惑うリムルルの耳に慶寅の声が届く。 「俺が思うに、どうやら我旺は決着をつけたがってるみてぇだな」 にっ、と唇が笑みを浮かべ、伸ばされた逞しい腕は軽く夢路の肩を叩く。 刹那身を固めた夢路が、戸惑いと非難の綯い交ぜになった目を慶寅に向けた。 「往くか」 呟いた慶寅は、リムルルに目を向ける。 「あの娘(こ)も探さなくちゃならねぇしな?」 瞬くリムルルに、慶寅は笑いかけた。 ふと、周囲の空気が変わった。 リムルルが目を上げると、 幾つものパシクルアペ(鬼火)が、猛烈な速さで前方へ飛んでいく。 何かに吸い寄せられるように。 「あれは!?」 夢路が驚きの声を上げた。 澱んだ暗黒の中に、ほの白く浮かび上がったものがある。 三人は、誰からともなく駆け出した。 闇の中に白く聳え立つ、それの形がはっきりと認められるところで三人は立ち止まった。 「こりゃあ……」 「何かの……塔でしょうか?」 「うわあ……」 白く、網目状の枝のようなものが複雑に絡まりあい、 上空に向かい伸びている。 すべてがまるで骨の如く尖り、お互いを侵食し、突き破ろうとし、互いに断末魔の声を上げているかのように目に映る。 美しさとおぞましさが共にある、一見塔のように見えるそれは、 美神華、と呼ばれる魔界の植物の一種であることを三人は知らない。 美神華を見上げていたリムルルが、真っ先にそれに気づいて叫んだ。 「ミナさん!」 慶寅と夢路の目に驚愕が宿る。 骨の塔のような美神華の中央に、四肢を骨の枝に絡め取られて身動きならない真鏡名ミナの姿があった。 「ほーっほっほっほ!何とも愚かな者どもよのぅ!」 突如、嘲笑の声が響いた。 「我が麗しき暗黒の淵を望む贄どもが、雁首を揃えおったか」 ミナが捕らえられている真下、いつ頃からいたのか。 白い骨の塔の如き魔樹を背に、高らかに嗤いながら、伴天連の姿の妖しき美貌の男が言った。 その姿を目にした途端、リムルルはこれまで感じたことのないおぞましさに囚われていた。 ウェンカムイそのものの気配をまとった、 ウェノソユンペ(悪霊)。 目の前の男はまさにそのもの。 それは生まれて初めて目にした、魔界のものの姿だった。 この時、リムルルは知る由もなかったが。 今目の前に現れた妖(あやかし)の怨霊は、かつて人であった頃、天草四郎時貞という名を持っていた。 その後数年に渡り世に禍を振り撒き、アイヌの巫女たちの前にも立ち塞がる存在となるものである。 否応もなく天草との対峙に追い込まれたリムルルは、 目覚め始めたその強大なウエインカルも、しばし眠らせる事となる。 故に、そうでなければ心の眼に映ったかもしれない光景も、彼女は眼にすることはなかった。 陽光舞い込む竹林の中。 肩に負った傷を物ともせず、 剛毅さと森厳さを同時に宿した眼で、劉雲飛は佇んでいた。 風が笹を揺らす音。 いくつかの笹が宙を舞い、 はためく長い飾り布を、多少荒さを持つ娘の髪をはためかせる。 冷めた紅い瞳の風の巫女。 傍らに付き従う、大柄な狼。 向かい合う雲飛は、つい先程この娘の正体を知った。 「長く生きると、思いもかけぬ事柄に遭遇するものよな」 冷めた赤い瞳が老爺を見返す。 「私たちアイヌの巫女の使命は、ウェンカムイから大自然を守ること」 レラは言う。 「でもあなたのウェンサンペコルが好きなお嬢さんのおかげで、ウェンカムイの元へ容易に行けなくなってしまった」 ふっ、と軽くため息をつき、雲飛の目を見る。 「なんとかしてもらえないかしら?」 「致し方あるまい」 静かに、重い声で答え雲飛は目を伏せる。 「それにしても、父親のあなたを目の前で傷つけられたからといって、あの子の状態は尋常じゃなかったわね」 レラは、言葉を続ける。 「ウエンカムイやカミアシと完全に同一ではないけれど、 それに近しい危険な存在なのは間違いない。もし、彼女が自然に仇を成す存在になるなら」 「それ以上は言うな」 雲飛の声が静かに、だが有無を言わさぬ調子で遮る。 「あれを正気に返すことも、万に一つなせぬ場合始末をつけることも、儂の成すべき役目。他人に譲るわけにはいかぬ」 レラを見据える静謐な視線の中に、刃の如き鋭さと冷たさが宿った。 「娘はその精神に宿した殺劫を目覚めさせた」 「殺劫……というのは?」 それは琉球の妖滅師、真鏡名ミナの漏らした言葉だったことを思い出しつつ、レラは問う。 「千五百年の歳月を経て、解き放たれし”殺戮への欲望”よ」 風が、侘しい響きと共に舞う。 「あのまま捨て置いては、あれは儂の如き過ちを犯す」 雲飛はレラに背を向ける。 「断じてさせぬ」 その低く短い呟きは、何者もとどめることの叶わぬ決意に満ちていた。 旋風が湧き起こり、雲飛は風に乗り竹林を飛び立つ。 それを見送ったレラは、 「シクルゥ」 彼女の声に応えた巨狼の背に飛び乗る。 「やれやれ……時間がないのに、片付けなくちゃならないことが増えたわね。ナコルル」 狼は、風に乗った老爺を追って疾駆した。 |