叢雲風華
〜まやーさりーん


(姉様! 姉様!)

後ろから追いかけてくる夢路の呼び声は、リムルルの耳にはまるで入らない。

彼女は夜の森を駆け抜ける。

脳裏にあるのはただ、姉の元へと駆けつけたい、その思いだけだった。

「おぉっとっ!」

男の呼びかけと共に、リムルルの疾走は止められた。

「どうしたい? こっちはなんとか落着したぜ」

徳川慶寅が、リムルルの肩を押し留めて笑いかける。

傍らにはレラと付き従うシクルゥ、暗い顔つきの真鏡名ミナが立っていた。

「放してぇっ! 姉様が、姉様が」

リムルルの叫びは涙声に変わっていく。

「ん?」

「姉様が死んじゃう! 怖い人に殺されちゃうよおっ!」

「何?」

その叫びを聞いた慶寅の表情に真剣さが増した。

「放して、放してよぉ……!」

涙に声が濁り、リムルルの感情は堰を切って溢れ出す寸前だった。

「こっちを見るのよ、リムルル」

凛と、声が響いた。

涙に濡れたリムルルの目が声の主に向けられる。

「眼を覚ましなさい!」

紅い瞳が、揺らめく光を宿しリムルルを真っ直ぐに見つめていた。



アイヌの言葉で風の名を持つ娘の立ち姿は、超然とした雰囲気をまとっている。

「ナコルルは、ここにいるわ」

森然とした瞳、森然とした声でレラが告げる。

感情のない静謐な声は、一切の疑問を抱かせない。

「誰にも殺されたりしないから」

リムルルの心で吹き荒んでいた感情の波が、徐々に鎮められていく。

「気を確かに持ちなさい」

凛とした言葉が、がリムルルの心を突き通した。



(レラさんは、ナコルルさんの)

(リコンみたいなものデショ?)

劉淑鈴の声が脳裏を過ぎる。

リムルルは、両手を胸に当てた。

心が静まっているのがわかる。

(……だいじょうぶなんだ。姉様は、だいじょうぶ)

「どうやら、落ち着いたみたいだな」

その様子を目にした慶寅が安堵の声で言った。

リムルルは、レラに目を据える。

「……レラさんは、姉様の……」

小さな声でリムルルは呟くが、自然に口を噤(つぐ)んだ。

問い質してはいけないような、そんな気がした。




「余計な力を持って、それに振り回されているのね」

冷めた声が耳に届く。

真鏡名ミナの冷たい青藍の瞳が、リムルルを見ていた。

「たぶん」

ミナはちらりとレラを見、またリムルルへ目を移す。

「あなたは未来に起こることを垣間見たのね」

リムルルは、そばに寄って来たシクルゥの毛を、しがみつくように握り締めていた。

(未来に……?)

その行為にも、狼は何の反応も示さない。

「いつ幻が現実になるか、怯えながら生きなければならない」

ミナは冷めた目で怯えたリムルルを見据えたが、ふっと目をそらす。

「私だって、こんな力は欲しくなかった……」

そう呟く。

「随分と馬鹿にした話ね」

レラが言い捨てた。

あまりにも突き放した物言いに、ミナとリムルルは同時にレラを見る。

「欲しいものだけ持って、一生を安楽に生きていける。そんな幸運の塊のような」

瞳の紅い光が揺らめき、冷たくミナを見る。

「薄っぺらな人間が、ウレシパモシリにどれだけいると思っているの?」

レラがミナを見て、刹那唇を釣り上げた。

「欲しくはなかったと言えば、そのいらない力があなたから逃げていってくれる、とでもいうのかしら?」

嘲りを込めた笑いなのは明らかだった。

ミナの顔が、怒りと不快感で蒼褪めていくのが見て取れる。

「あなたなんかに何がわかるって言うの……!」

「わからないし、わかりたくもないわね」

冷たく切り捨てる声。

「欲しくない力というのは、邪気を感じあやかしを滅する、あなたに備わった力でしょう。

その力によってこの世界で生きていくことを選んでおいて、わずらわしいというなら」

レラはミナを一瞥する。

「今すぐ妖滅師なんて止めればいい」

ミナが唇を噛んだ。

「あんたもなかなか言う事がキツイねぇ」

慶寅がかすかな苦笑を浮かべる。

「せっかく旅路を共にするんだ。また気分がささくれ立つような言い争いはなしにしようぜ?」

腕を広げて肩をすくめた彼は、

「まぁ俺があんたの立場なら」

ミナの方を見た。

「たまたま持っちまって、おいそれと棄てることができねえもんなら、せいぜいそれを楽しんでいこうぜって言うところなんだが」

「……だから」

苦々しげにミナが呟く。

「何も知らないくせに、能天気なこと言わないでよ」

「ん、そりゃ俺はあんたじゃねえからわかんねぇけどな。

けど俺の立場で言うと、たまたま将軍家に生まれてめんどくせぇことも多いが、だからこそ楽しめることもそれなりあるもんだ。

背負った荷がどれだけ重かろうと、そいつに潰されて終わっちまっちゃあつまんねぇぜ? だろ?」

彼は片目を閉じるが、ミナは慶寅を見ていない。

「……私は……私にはこれ以外に生きていく道がないのよ……!」

俯き呟いたミナが顔を上げ、きっとレラを睨みつける。

「勝手なことばっかり言わないで!」

「自分は他人に言いたい放題言うくせに?」

さらりとレラが言い放つ。

「私のことなんて、放っておいてくれればいいのよっ!」

言い捨て、ミナは踵を返そうとした。

「行こう、チャンプル!」

しかし、答える声がない。

「……チャンプル?」

彼女はその時初めて、チャンプルの不在に気づいた。

「どこ? チャンプル!」

「そのままだったら、あなたはどこにも踏み出せないわね」

レラは小さく呟くが、ミナはもうその言葉に耳を傾けてはいない。

「チャンプル! どこ? 何処に行ったの、チャンプル!」

必死さを滲ませてあたりを見回し、呼びかけるミナを見つつ

「ふぅん」

慶寅は軽く周囲を見渡した。顎に手を当てる。

「はぐれるような距離でもなかったはずだけどな。ん?」

道の向こうからやって来る人影に目を留めたと同時に、リムルルもレラも目を向け、黒河内夢路の姿を捉える。

「結局お前さんも来ちまったのか。そりゃ一人で残ってても意味はねぇかな」

そう笑った慶寅に向け、

「ご老人の娘御は、こちらに来られてはいないのですか」

夢路は言った。

「へぇ。あの子がまた来たのかい。俺に会いに来たのかね」

「迷い事を。娘御が助力を求められたのは、あなたではなく巫女殿ですよ」

夢路は睨むような目線を慶寅に向ける。

「冗談だ、そうムキになるなよ。しかし、あの子も行方不明か。これまた迷うような距離でなし……」

「チャンプルー!」

ミナの呼ぶ声は、焦りを帯びてきていた。

「神隠し、ってやつじゃあないよな」

リムルルはそう言った慶寅を見る。

「かみかくし?」

「人が突然行方をくらますことさ。何年か経ってひょっこり帰ってくることもあるらしいが」

ちらりと、ミナに目をやる慶寅。

「それじゃ妖滅師さんは困るだろうな」

「ところで、あのサンタクルの子供がまた来たの。無駄なことなのに」

レラが冷めた声で夢路に向けて言う。

「ナコルルさんという方を探しておられたようでしたが」

夢路が答えた。

「ただ……娘御の話によりますと、そのナコルルさんと彼方は娘御を取り上げるのに協力されたそうですね」

「え?」

声を上げたのはリムルルだった。

「とりあげる、ってどーゆーこと? 夢路さん」

「それはですね」

夢路の瞳が刹那宙を舞う。言葉を探していたようだった。

「娘御の言葉そのままを伝えるなら、生まれることができたのがナコルルさんとレラさんのおかげだと」

「……そうなの? レラさん」

「成り行きでね」

何故かリムルルから顔をそらし、レラが呟いた。

「姉様、いつそんなことしてたんだろ」

腕を組みながら、リムルルは眉を寄せる。

「チャンプル! チャンプルー!」

ミナの呼び声が響いている。

「とりあえず、向こうの方を探してみるか」

慶寅が言った。リムルルも動こうとしたのだが。



瞬きの間のことだった。

リムルルは、先ほどまでいた世界から切り離されていた。

レラも夢路も、慶寅もミナもシクルゥもいない。

そこは夜でなく昼でない霧杳(むよう)の世界。

「えっ」

驚いて周囲を見渡す。

「また会ったな、北方の巫女よ」

低く森厳な声が耳に届き、

「雲飛さん!」

傍らに立つ声の主を認めたリムルルは声を上げる。

「そなたを巻き込んだことを詫びるべきか、ちと判断がつかぬな」

劉雲飛はそう呟いた。

「ええっと……こんばんは」

とりあえず挨拶だけはしなくちゃ。

リムルルはそう判断して、咄嗟に頭を下げる。

「それで、ここはどこですか?」

「そなたたちが普段身を置く世界の裏側、とでも言おうか」

「せかいのうらがわ……ですか?」

リムルルは首をかしげた。

「どうしてそんなところに来ちゃったんだろ」

「儂はあれがここに逃げ込んだのではないかと思うたが、気配は感じ取れても見つけられぬ」

雲飛が言った。

「そなたは人が普段意識することのない世界の根源に近づける力を持つがゆえに、儂の歩みに反応してしまったまでのこと」

「そうなんだ……」

よく意味がつかめずに、リムルルは再度首を傾げるほかはない。

「レラさんや慶寅さんたちは、ここには入って来られないの?」

そう訊ねるリムルルに、雲飛は静かに答える。

「意識してここに入れる者はそうはおらぬ。ただ、同じ場所に居合わせてはおる。彼奴らは表に、儂とそなたは裏に居ると言うだけでな」

「んー……」

意味の分からない言葉に、リムルルは正直うんざりして肩を落とした。話題を変えることにする。

「それで、雲飛さんが言ってたあれって何のこと?」

「落ち着きの足らぬ我が娘のことよ。他人の助力は必要ない、縋るなと何度言ってもあれは聞く耳を持たぬ」

そう言って目を閉じた雲飛が、

「はて……一体あの性質は誰に似たかな」

ほんの微かに、唇に笑みを浮かべたようにリムルルには見えた。

それが嬉しさゆえか、僅かな苦々しさゆえか、わからなかったけれども。


しかしその微かな揺らぎは瞬時に消えた。

二人が同時にはっきり聞いたのは子供の悲鳴。

「あれは!」

リムルルが叫んだと同時に、

獣の咆哮が轟いた。



「そんな……チャンプル!?」

女の声に驚いたリムルルの目に、驚愕の表情を浮かべたミナの姿が飛び込んでくる。

「ちぃっ」

刹那表情を歪める慶寅。

霧杳の世界、雲飛の言った”世界の裏側”から、瞬きの間にリムルルは普段の世界へと戻ってきていた。

駆け出すレラの姿をリムルルは捉える。

だがそれよりもなお速く、

風が空を翔けた。

「雲飛さん!」

リムルルの叫び声に、慶寅と夢路が目を見張る。

だがミナは構うことなく駆け出し、

レラは刹那足を止めたが

「行くわよシクルゥ!」

狼に号令し、首の周りの飾り布をはためかせ駆け出した。