叢雲風華
〜まやーさりーん

その粗末な小屋は、森の片隅に二つ並んで建てられていた。

一行は、レラ、リムルル、シクルゥ、ミナとチャンプル、そして慶寅と夢路と二手に分かれて一泊することになった。

小屋の中央にある囲炉裏に熾された火が、囲んで座る娘たちを照らし出す。

ミナはその背後に弓を包んだ弓巻(ゆみまき)と矢筒を置き、チャンプルを膝に抱きながら顔を上げようとはしない。

リムルルはちらとミナを見、レラに顔を向ける。

「ねえねぇ、レラさん」

レラがリムルルを見た。

「レラさんと、ミナさんと慶寅さんは知ってる人同士みたいだけど、どこで知り合ったの?」

「私の前でその話はしないで」

冷たくぴしゃりと、ミナの声が発せられた。

「……そうね。そろそろ休みなさい、リムルル」

「えぇ〜」

レラにそう告げられ、リムルルはむくれるがすかさずミナに問い掛ける。

「あ、そういえばミナさんは、よみがはらってところのこと知ってたよね? もしかして、そこで何かあったの?」

「その話はしないでって言ったでしょ」

ミナの声がますます険を増した。

(こわ……)

その声に、リムルルは身をすくめる。

「リムルル」

レラが口を開き、リムルルは大きな目を向け瞬いた。

「わからないことが多くて不安なのはわかるけど、彼女が話したくない気持ちを汲んであげて」

「ん〜……」

納得できずに、頬を膨らませ眉を寄せたが

「ぴゃ〜!」

突如チャンプルが声を上げた。

「あ」

ミナが止める間もなく、チャンプルは彼女の腕から飛び出す。

「チャンプル!」

「またに〜」(待て〜)

嬉しげな声とともに、小さな丸々とした体が飛び跳ねる。

チャンプルは、囲炉裏の火に吸い寄せられて舞う蛾を追い回していた。

「チャンプル、戻って」

「ひゃっ!」

リムルルは思わず声をあげる。

彼女の正座した膝の上に、チャンプルが飛び乗ってきた。

「チャンプル!」

ミナが身を乗り出した。

「またに〜」

楽しそうに笑い声を立てながら、チャンプルは蛾を捕まえようとしている。

「ちょ、ちょっとぉ〜。」

困り果てた顔で、リムルルははしゃぐチャンプルの動きを見守るしかない。

「……」

無表情に様子を眺めていたレラが膝を浮かせる。

伸ばされたミナの手と、

チャンプルを避けるために動いたリムルルの手が触れ合った。

「あ」

どちらともなくあがる声。

リムルルがミナを見て、ミナもリムルルと向き合う形になる。

「またに〜!」

その隙に、笑い声を立てながらなおも蛾を追うチャンプルは、リムルルの膝を離れた。



そしてリムルルは見る。

またしても、ここにはいない人の姿を。



「雲飛さん……?」



そう呟いた途端にミナの顔が強ばり、その青藍を宿す瞳に激烈な光が宿った。

バシッと強烈な音が響き、

「いたっ!」

思わず声を上げて、リムルルは打たれた手を押さえる。

「二度と言わないで! 私の前で、そいつの名前を二度と出さないで!」

突然の痛みと衝撃、矢継ぎ早に浴びせられる怒号。

リムルルはただ、呆然とミナを見ていた。

「あなたなんかに勝手に人の心を覗く権利があるっていうの? いい加減にしてっ! 私を怒らせないでよ!」

眦を釣り上げて怒鳴りつけるミナの形相。

無意識に肩がわなわなと震え、リムルルの目から涙が滲み出す。

剥き出しの怒り(イルスカ)が叩きつけられ、なすすべもなく心の皮膚は傷つけられていくほかない。

再び、鋭い音がなった。

はっ、と見開かれたリムルルの目に映ったもの。

頬を押さえ、怒りと戸惑いが綯い交ぜになった表情のミナと、冷めた目で彼女を見据え、平手を構えたレラの姿。

「この子に八つ当たりするのは私が許さないから」

唇を噛み、レラを睨みつけたミナに向かい、

「あなたの力は滅することしかできない、と言っていたわね。そのあなたの力が怒りのままに振るわれることは」

冷たい声が発せられた。

「ミナ〜!」

チャンプルが、ミナの元へと走り寄ってくる。

突然の成り行きに、蛾を追うことを忘れたらしい。

「ただの破壊と殺戮に繋がりかねない。つまり魔を滅するものから、世に禍をもたらす存在へとなりかねない」

突き放した瞳で、レラはミナを一瞥する。

「そうなったらあなたも私にとっては排除の対象になる。前にも言ったはずよ。もう忘れたの」

「レラさん……」

リムルルは、呼びかけるともなく呟いた。

「やっぱりね」

俯いたミナから、ぽつりと暗い声が漏れる。

「人なんて裏切るものだもの。結局あなたも例外じゃなかった」

屈みこんだミナは、脇に置いた弓巻に包まれた弓と矢筒を手にする。

「行くよ、チャンプル」

言うなりレラとリムルルに背を向け、土間に降り立った彼女は引き戸に手をかける。

「んっ……」

多少手間取っているようだったが、体が入るだけの隙間を確保するとミナはそこからするりと抜け出した。

後も見ることなく、彼女は走り去っていく。

「ミナー!」

驚きを宿した声で叫んだチャンプルが、転がるように彼女の後を追って走っていった。




リムルルはただ呆然と、わけもわからずミナとチャンプルが走り去って行った引き戸の向こうの闇を見つめていた。

ぽっかりと明いた、夜(シリクンネ)へと続く暗い穴。

がたがたと音を立て引き戸が閉められ、リムルルははっと正気づく。

「あまり使われてないようね。立て付けがよくない」

引き戸を閉め切ったレラが、ぽつりと呟いた。

彼女は振り向く。

その紅い瞳がリムルルを見た。

「他人の怒りに身をさらすのが辛いのはわかる。でも受け流せるようになりなさい。訓練のいることだけど」

常の素っ気無い声が告げる。

「いちいち真に受けていたら、余計な心の傷を背負うだけよ」

「レラさん……いったい、ミナさんになにが、あったの……?」

レラは黙したまま立っていた。

リムルルの傍らにシクルゥが寄ってきていた。

まるで、リムルルの守護者であるかのように。

「あんなに怒るのって、ふつうじゃないと思うし……」

ふぅ、となぜかレラは微かにため息をついた。

「シクルゥ、教えていいものかしらね」

鼻先をあげたシクルゥは、土間へと軽やかに飛び降りレラの側に寄り添う。

「あなたはまだ小さいから、理解が及ばないかもしれないし」

「レラさんっ。子供扱いしないでよっ!」

「そうは言うけど……」

珍しく、少し弱気さを感じさせる声でレラが呟いた時、戸を叩く音がした。

「御免」

リムルルはきょとんとする。

「あれ、誰か謝ってる」

「謝ってるんじゃなくて挨拶してるのよ、リムルル」

「そういえば、夢路さんの声?」

「開けていただいてもよろしいですか」

レラが戸に手をかけた。

再び、がたがたと戸が音を立て始める。

立て付けの悪い引き戸を開くため、リムルルも駆け寄り手を添える。

戸の向こうから、同じように手を添えていた黒河内夢路が姿を現した。

「お手間をかけました」

目礼してから夢路は二人を見る。

「何かあったのですか?」

「夢路さん、どうしたの?」

「妖滅師の方が飛び出して行かれたようで……危険だからと慶寅さんが連れ戻しに行かれたのですが」

「あの子は男嫌いだから、逆効果かもしれないけど」

レラがそう呟く。

「でも、あの男も事情は知っているしね」

「僭越ですが、あなたが行かれた方がよろしいのではありませんか?」

レラの紅い瞳が夢路を見る。

「妖滅師の方が慶寅さんを嫌っているのは明らかでしたから。同じ顔見知りであるなら、娘さんの方が角も立たぬかと」

ふぅ、とレラが小さく肩を落とす。

「そうね。シクルゥ!」

呼ばれた狼が、レラの元へ走り寄る。

シクルゥを従え、レラは小屋の外へ出た。振り向かずに告げる。

「あなたはリムルルといてやってくれる?」

「わかりました。あ、こちらの方が」

夢路がなおも告げようとするが、立ち止まることもせずレラは駆け去っていった。

「言っちゃダメですっ!」

慌てた子供の声がする。

「え?」

リムルルは瞬きを繰り返した。

「はい?」

夢路が小首をかしげ、袖を握り締めた小さな手の主を見下ろす。

「あれっ……」

夢路の後ろから現れた姿に驚くリムルル。

「えっと、雲飛さんの娘さん??」

数日前にあったきりの劉淑鈴リュウスーリンが、夢路の袖を掴みつつ、後ろをそうっと振り向いていた。

瞬きを繰り返してから、ようやく夢路を見上げる。

「レラさん呼んじゃダメです。キョーボウだから、お父さん助けてくれません!」

劉淑鈴はぷぅと両の頬を膨らませた。

「こちらのお嬢さんが、小屋の方を見ておられましたので。お二方に御用があったようなのですが……」

夢路の言葉は、ほぼリムルルの耳を素通りしていた。

(お、おかしいなァ……)

わけがわからない。

何故ならつい先ほどまで、リムルルはこの子供の気配をまったく感じ取れていなかったからだ。

子供は夢路の後ろに着いてきていたというよりは、突如夢路の後ろに沸き出した、

としかいいようのないほどに唐突に、その場に現れたのだった。

(コンル〜、これっていったいどういうコト?)

困惑した眼を、リムルルは精霊の友達に向ける。

コンルが、細氷の煌きでリムルルに答えた。

「……え?」

リムルルは瞬く。その傍らで

「レラさんではなく、リムルルさんの方に御用だったのですか?」

夢路が子供に尋ねたが、

「あのデスネ!」

淑鈴はそれを気にとめた様子もなく、リムルルに向かって声を張り上げた。

「縷々奈古おねーさんは、どこデスか?」

「へ?」

その言葉に、リムルルは首をかしげた。

「縷々奈古おねーさん、いまどこにいるデスか?」

「……誰?」

子供が何を言っているかがつかめずに、リムルルは眉根を寄せる。

「縷々奈古おねーさんだったら、きっとお父さん助けてくれるデス。どこにいるデスか?」

「るる……なこ……って!」

ふと、閃く。

「もしかして、ナコルル姉様のこと言ってるの?」

「あ! そデス」

子供は、両手で頭をぴしゃんと叩く。腕の動きにつれて、たっぷりとした幅を持つ袖が翻った。

「ナコルルおねーさんデシタ。どこにいるデスか?」

「うーん」

どこにいるかは私が知りたいよ……。姉様が帰ってきたら、コンルと友達になったのを見てほしいのに。

思いつつ、はっと顔を上げたリムルルは子供の前に指を立て突き出した。

「姉様の名前を間違えちゃ、めっ! だよ!」

「ハイ。淑鈴気をつけるデス」

「よし、素直だね!」

神妙な言葉ににこっと笑ってから、リムルルは淑鈴に問い返すべく口を開く。

先ほどのコンルの答えを確かめるのは、後回しにして。

「でもどうして、姉様が雲飛さんを助けてくれるってことになるの?」

「私もひとつ疑問なのですが」

夢路が子供の方へと身を屈めた。

「近くにあのご老人がおられるのですか?」

「あ、お父さんは近くにはいないデス」

夢路を振り返り、子供は答えた。

「じゃあまた抜け出してきたの?」

「またとか言っちゃダメデスっ! 淑鈴はちゃんとお父さんのそばにいるけど、抜け出してきてるのデス」

得意げな顔で子供は答えた。

「……あの、お話の意味がわかりかねるのですが」

夢路が困惑を声に滲ませる。

「あのね、夢路さん」

リムルルは言った。

「コンルが言ってた! この子は精霊に気が近いから、普通の人にはできないことができるんだって」

「……はあ。」

怪訝そうな様子ながら、夢路は続ける。

「ご老人は近くにおられないということなのですね。ナコルルさんという方は……リムルルさんのもう一人の姉上でいらっしゃるのですか」

「え? もう一人?」

あ、そっか。夢路さんはレラさんのこと勘違いしてるんだ。

「レラさんは姉様じゃないよー。同じアイヌモシリの人だけどね。もう一人姉様みたいな人はいるけど、今カムイコタンなの」

「はれ? でもレラさんはナコルルおねーさんの」

淑鈴が割り込んできた。

「え?」

リムルルは子供を見るが、子供は口をつぐむ。

「……レラさんが姉様の、何?」

「えーっとォ」

子供はまた両手を頭に乗せた。文字通り、頭を抱えている格好になる。

「んーとんーと、レラさんは、ナコルルおねーさんのリモーコンか、リコンみたいなものデショ?」

「……」

思わず、リムルルは疲れた表情になる。

彼女の父親の雲飛と話した時もそうだったが、どうにも理解できない言葉が出てくると何も説明された気にならない。

「……言ってること、わけわかんないよ」

「淑鈴もよくわかんないですけどー、とにかくムカンケイじゃないのデス」

「どうしてそんなこと知ってるの?」

「淑鈴は、ナコルルおねーさんとレラさんにてだすけをしてもらったからデスっ!」

勢いよく言い放ち、子供はにっこりと笑った。

「何を?」

リムルルは聞き返したが、笑みながら答えた子供の言葉が聞こえない。

「えっ? なあに?」

子供の口がまた、何かの言葉を告げた。声は聞こえない。

「ねぇ、なんて言ってるの?」




おかしいなぁ……。

どうして何も聞こえないんだろ?

この旅がはじまってからかなぁ。

ちょっとずつ、おかしなことが増えているような気がする。

ねえ、聞こえないからもう一回言ってくれる?

そう目の前の子供に告げようとしたリムルルは。

眼の前に、姉ナコルルの姿を見た。





「姉様!」

姉がまとっているのは、闘いの気。

その手に握られているのは、カムイコタンに伝わる宝刀チチウシ。

姉様が誰かと戦っている!

姉の澄んだ瞳が、凛とした気を発して対峙する者を見据えている。

その向かいに立つ男の姿が、眼に入った。

細長い筒を、男は口に咥えている。

その先から立ち上る一筋の煙。

男はタンパク(煙草)を吸っているのか。

リムルルは怖気を覚えた。

男の目はまるで刃物のよう。

冷たい、何の情も感じ取れない怖ろしい目。

「あなたに渡すわけにはいきません。これは、決して人が触れてはならないものです」

ナコルルの声を受け、男の唇が酷薄に歪む。

「くだらん」

煙を立ち上らせる管を口から離し、男が吐き捨てた。

「別にそんなモノがどうしても欲しいってわけでもないが」

男は唐紅花(からくれない)の着物を纏っていた。

棒衿の下で腕を組んでいたが、それを一気に広げる。

「貴様は気に入らんな」

筋骨隆々とした上半身が露わになった。

男の手が、足元に突きたてられていた抜き身の刀の柄を取る。

「そんなヌルい目をした奴は」

刀は地から引き出され、ナコルルの前に突き出される。

「斬らずにはおれんな」

男の唇がその目同様、刃の形に鋭い歪みを形作った。

「死ね」



怖ろしい言葉を耳にした途端、リムルルの中で何かがぷつりと切れた。

「姉様っ!」

リムルルは、夢路を突き飛ばすようにして戸の隙間から夜の闇へと飛び出した。