月光虹 時明之跋 後

憤怒の化身となった火月が、

その魂の座を支配した炎邪が、

雄叫びと共に雲飛に斬りかかる。

血塗れた雲飛は、残された片目に彼を留めた刹那に飛び退き、

朱雀の刃は岩の台座を両断した。

岩の切り口から白く煙が立ち昇り、赤々と焔の筋が走っている。

蒼月は葉月の肩を抱いたまま立ち上がった。

「葉月! ここから出なさい。入り口付近に子供がいます。その子を連れて行きなさい!」

抑えた声ながら有無を言わさぬ調子で、蒼月が言い放つ。

兄に目を向けた葉月は、その言葉にしばらくの間思考から追い出されていた、大陸の子供を思い起こした。

「早く行きなさい!」

叱咤の調子を込め、蒼月は葉月の肩を押しやり注意を入り口に向けさせる。

「はいっ!」

葉月は身を翻した。その耳に、

「ぐがあああぁぁぁぁ」

次兄の声で炎邪のあげる咆哮が轟く。

それは、その場を後にする葉月の心を突き通し、新たな痛みを噴出させた。




妹を送り出した蒼月は、その所有する神剣・青龍を抜き出す。

その目の前で、魔に乗っ取られた弟が全身に怒気を巡らせ、

仲間を屠った老爺へさらに攻撃を浴びせようとしていた。

血塗れた老爺には、焦りも疲れも見られない。

森厳たる表情のまま、襲い来る火月を片目で見据え、その攻撃をかわし続けている。

「赦しは乞わぬ」

そう小さく呟き、老爺は広げた右の掌を火月に向けた。

その掌が、うっすらと翠の色を帯びた靄とも微風ともつかぬものに包まれる。

その刹那、火月が吼えた。



反応が一瞬遅れれば、己の身も危かっただろう。

反射的に蒼月は飛び退き、青龍より発した水流で身を守っていた。

地が揺れ、岩壁が轟き、

蒼月は崩れ落ちようとする岩屋を駈け、脱出した。

弟の咆哮が辺りを圧して轟く。

飛来する岩の弾丸を避けつつ蒼月は、

彼には珍しく僅かながらも戦慄を覚えていた。

(まさかこれほど、とは)

木陰に身を隠し事なきを得た蒼月が目をやると、崩れ落ちた岩屋の向こうで山々を背にし

遠く、大陸の老爺と弟が打ち合っているのが見えた。

(これが……肉体を得た炎邪の力の一端ですか)

私情は、捨てなければならない。

ある決意を胸に蒼月は、両者の戦いの場へと向かう。




子供を背負い、爆音から必死の思いで逃れた葉月は木陰に身を隠す。

抱いていた眠る子供を抱え下ろし、草の上に横たえる。

身を乗り出し、逃げてきた岩山を見ると

それは明らかに形を変えていた。

崩壊した岩肌から飛び出してきた、ふたつの影。

火月と老爺が、空中で激しく打ち合っている。

互いの刀に時折、陽光が反射する。

別の方向から、日の光が反射した。

そちらに目をやると、宙に浮かんでいた水の塊が溶け分解し、

蒼月の姿が目に入った。

みんな、無事だった。

そのことを知った葉月は座り込む。ほぅと、小さく吐息が漏れる。

涙の筋がこびり付いた淑鈴の寝顔を見下ろした葉月は、子供の乱れた髪を整えてやりながら、

これまで見た光景の意味を、反芻しつつ捕らえなおした。

水邪は、大陸の衣をまとった老爺に倒された。

あのひとが多分、淑鈴ちゃんのお父さんなんだ。

葉月は、眠る子供の頭をそっと撫でつける。

この子供、淑鈴を救出するため岩山に戻っていった次兄の火月は赤い目に変じ、炎邪の言葉を発した。

それを思い出すと同時に、葉月の心に突き刺さった棘に激痛が走る。

口を押さえ、葉月は俯き首を振る。

兄さんは、炎邪さんにとり憑かれたんだ……。

そして、長兄蒼月。

淑鈴を連れて逃げるよう指示した兄は、あの場に残ってどうするつもりなのか。

そのことに思いを馳せた葉月は、記憶の中から拾い起こす。

兄の手ほどきの下に、一族に伝わる”封魔の術”を習得していた時のことを。




「お前が封じるべき魔、我ら風間一族の怨敵は、炎邪と水邪と呼ばれる大陸出身の妖魔たちです」




兄は、感情を全く込めていない声でそう告げた。

「彼らは肉体を持たぬ精神体として、世に現れます。そのとき」

言葉を刹那切った兄の表情からは、やはり如何なる思いも読み取れなかった。

「あらかじめ……用意していた憑代となる人間を乗っ取り、禍を振りまくのです。

肉体がなければそのうち自然消滅しますから、そういう点ではただの雑魚にしかすぎないのですがね」

兄は、冷めた眼差しを真っ直ぐに葉月に向けてきた。

「いいですか葉月。それ故に、肉体とする人間に彼らが近づく前に封印する事が肝要となるのですよ」



肉体とする人間。

火月兄さんのことなの?

あらかじめ、用意していた憑代?

……兄さんが?

葉月の心に疑問が渦を巻く。

ただ、彼らがどのように憑代を用意するのかについては、葉月は蒼月から具体的に聞かされた覚えがなかった。

封魔の方法と、その際に必要とされる真言。

兄に教わる事もあれば、一族に属する祓い師の手ほどきを受けることもあった。

その厳しい習得の日々に紛れて、葉月が妖魔たちの取る手段に関して深く追求することはなくなっていったのだった。



そして、火月が炎邪に憑依された今。

長兄は次兄をどうしようというのだろう。

何か、助け出す手段があるのか。それとも。

葉月は立ち上がり、足元に眠る子供を見やる。

(淑鈴ちゃん……大丈夫だよね)

屈みこみ、子供の頬に手を置く。

「もうすぐ、お父さんに会えるよ。きっと」

再び立ち上がり、子供に影を落とす周囲の木々を見渡し、

葉月は、ぺこりと頭を下げた。

「お願いします」

何故か、頼んでおけば大丈夫という気がした。

むしろ、確信に近かった。

振り向き、飛び出し、彼女は走り出す。

大切な人たちの、戦いの場へと。



戦いはいつ果てるともしれない。

炎邪と一体化した火月が連続で繰り出す攻撃は雲飛にかする事すら叶わないが、

風の如く攻撃をかわしている雲飛も、火月の繰り出す剣撃のあまりの激しさに、

次の一手を放つ事が叶わない。

そのような状態が続いていた。

空を翔け、木々を駈けていた両者は山肌に降り立った。

刹那。

激しく水柱が噴き上がり、火月を直撃する。

「ぐがぁあっ」

完全に不意を突かれ、直撃を食らった苦悶の声と共に火月の身体が落下してきた。

雲飛が目をやると、

長刀を抜き出し手にした男が……洞窟の中で見た、長髪の青年が立っていた。

「消去します」

冷静な声で青年が呟く。

その声を聞いた刹那に。

本能的にと言っていいほど、止めなければならぬという思いが雲飛の中に沸き起こる。

先ほどまで己の為そうとしていたことを、今まさに為そうとする青年。

魔界で爆炎を操る術を会得し、現世に舞い戻った弟子の霊体は、

肉体を得れば現世に対する破壊神となる。

その炎邪の憑代と化した風間火月を、炎邪もろともに屠ることは必定。

義侠の精神を持つ若者の命を絶つ非情は、十二分に承知している。

それでも、なお。

この青年が、風間火月を屠ってはならぬ。

その意志を胸に、雲飛が動こうとしたその時。


「止めて! 蒼月兄さん!」

息せき切りつつ、ひとりの少女が姿を見せた。




「お前もわかっているでしょう」

青年が口を開く。

「火月をこのままにしておけばどうなるか。退きなさい」

冷徹な口調だった。

少女が、青年に対し踏み出す。

「そのために、私がいるの! だから兄さん……」

「私情は捨てなさい。あまりわがままを言うと、お前とて容赦はしませんよ」

「蒼月兄さんのわからずや!」

叫んだ少女が、倒れた火月に駆け寄った。

ひざまずき、火月の身体に少女が触れようとした刹那、

「ぐがぁああああああ」

火月が跳ね起き、朱雀を握り締め歯を剥き出す。

その赤い目が雲飛を捉える。

「シ……ねぇええ!!」

雲飛が身構える。

その掌は火月当人から吸い出した瞋恚を含んだ、強大な仙氣の風巻を発するべく構えられた。

だが火月は動きを止めた。

背後からその腰に、少女が抱きついていた。

「ぐぉっ」

赤い目が少女を振り向く。

「兄さん」

呼びかけと共に、少女はさらに深く火月を抱擁する。

その身体が刹那、清い光を発したように見えた。




火月の手が開き、朱雀が取り落とされる。

彼の身体が崩れ落ちた。

少女が、倒れた火月に寄り添う。

雲飛の見守る前で、二人の側に青年が歩み寄って行く。

「まったく。お前も聞き分けがなくなってきましたね」

火月を抱き寄せ、彼の頭を自分の膝へと預けた少女が青年を見上げた。

「大丈夫だから。火月兄さんなら……きっと、大丈夫」

「まぁいいでしょう」

青年は向きを変え、雲飛の元へ足を運ぶ。

その手に、身体に結わえた帯から取り出したと思しき手巾があった。

いつの間にか、それは水気を含んでいる。

少女に、蒼月兄さんと呼ばれた青年は冷めた表情のまま、雲飛に濡れた手巾を差し出す。

「拭って貰えますか。見苦しいので」

雲飛は蒼月の目を、力を篭め睨みつけた。

「再会するお嬢さんにその姿を見せ付けたいなら、構いませんが」

彼の手から、半ば引っ手繰られるように手巾が取られる。

「う……」

耳に届いた呻き声に蒼月が顔を向けると、火月が目を開いたのが見て取れた。

「兄さん」

葉月の呼ぶ声に、火月の瞳が動く。

赤く濁った色は消えていた。

「はづき……? 俺、どうしちまったんだ……?」

そう問うた火月の頬に、雫が落ちる。

「良かった……」

後は声にならずにしゃくりあげる妹の顔を見て、

「おい……泣くなよ」

火月の声に戸惑いが混じる。

手巾を穿たれた眼窩に押し当てていた雲飛が呟く。

「どうやら、今は案ずることはないようだ」

「覚醒の可能性が消えたわけではありませんがね」

そう言い置き、蒼月は弟妹の元へと身を翻す。

「兄貴」

「とりあえず、戻りますよ。炎邪水邪を滅するのに功があったとはいえ、

相応の申し開きが必要な事は覚悟しておきなさい」

火月を見下ろし言い放った蒼月は、葉月に目を向けた。

「あの子を迎えに行きましょうか」

「あ……はい」

火月が身を起こし、葉月は立ち上がる。

「お前はここで」

蒼月はちらりと雲飛を振り向く。

「そちらの御仁と待機していなさい」

火月が雲飛を目にして、愕然とした色を浮かべた。

太い眉をしかめ、火月は僅かに俯く。

その胸中にあるのは果たして悔恨か、怒りか、憐憫か。




「爺さん」

兄と妹が、子供を迎えに行くために木立の向こうに姿を消して後、

火月は雲飛の前に胡座をかき語りかけた。

「すまねぇ」

彼はそのまま、頭を素早く、深く下げる。

「嬢ちゃんを助けるって約束したけど、守れなかった」

「炎邪に立ち向かわず、遁走せよと言い渡したはず。それも破約したな」

「面目ねぇ。」

火月は、頭を上げることができないようだった。

「妹御と兄のおかげで、貴様と娘の命はあるようなもの。二人に感謝する事だ」

「ん?」

火月は顔をあげ、怪訝な表情で瞬いたが。

「わかったよ」

「またこのようなことが起こらぬとも限らぬ。死はすなわち敗北だ。心するがいい」

「だよな。死んじまったら葉月を守ってやれねぇ」

「……主を守っておるのが妹御かもしれぬぞ」

火月は雲飛を注視し、再び瞬く。

雲飛はそれきり口を噤んだ。

失った片目の上に手巾を乗せたまま、背後の大木に身を凭せ掛ける。




「兄さん?」

淑鈴を隠した森に目もくれず進む兄の背に、葉月は問い掛けた。

「あの子を父親のもとに連れて行く前に、お前にはなすべきことがあります」

そう言った蒼月に従い、葉月は半壊し半ば埋もれた岩山の麓へと足を踏み入れる。

蒼月は、その腰から神剣青龍を抜き取った。

「葉月。水邪をこれに封じなさい」

「え?」

「僅かですが、この周辺に気が残っています」

葉月は目を閉じ、手を合わせる。

そうすると確かに、辺りの気に微かな邪気を含んだ湿気が籠もっていることが感じ取れたようだった。

「……オンコロコロ・センダリマトウギソワカ」

葉月は、この時のために習得してきた真言を唱え始める。

湿気がざわめき、流れ始めたようだった。

「オン・ロホウニュタソワカ、オン・センダラハラバヤソワカ……」

湿気が渦巻き出す。逃れようとする微かな意志を感じる。

「オン・アロリキャソワカ、ナウマクサンマンダボダナン・アニチャヤソワカ、

ナウマクサンマンダボダナン・センダラヤソワカ……」

邪気を含んだ湿気は抗いも虚しく、葉月の意志が指し示す神剣青龍へと塗り篭められていく。

「ナウマクサンマンダボダナン・アギャナウエイソワカ、ナウマクサンマンダボダナン・バルナヤ・ソワカ、

ナウマクサンマンダボダナン・バヤベイソワカ!」

邪気が消え去り、湿気が晴れ、葉月は眼を開く。

「消去完了、ですね」

淡々と蒼月が告げ、青龍の刀身を鞘に収めた。




蒼月の腕に抱えられた子供は、暉暉の下で父の腕に還った。

片目を失ったことで僅かに均衡を崩しながらも、雲飛は立ち上がり蒼月を葉月を迎え、

受け取った眠る幼い娘を腕に抱き締めた。

「愚か者が……心配させおって……」

低く抑えた呟きに、万感の思いが籠もる。

その失われた目の上には、火月の手で清潔な布が巻かれていた。

雲飛が、葉月たちをしっかりと見据える。

「この劉雲飛、そなたらに受けた恩は忘れぬ」

一礼すると老爺はそのまま踵を返し、歩み去ろうとする。

「おい、待てよ爺さん!」

火月が追い、呼び止めた。

「あんた、その怪我で勝手に動き回るつもりかよ!?」

「余人の世話になる必要は感じぬ」

そう告げた雲飛の腕の中から、

「けふっ」

小さく、苦しげな咳のような音が聞こえた。

雲飛が腕の娘を凝視し、葉月もそちらを注視する。

「けふっ。けふっ」

まだ目を覚まさぬまま、淑鈴の小さな口から断続的に咳が飛び出す。

「これは……」

雲飛が振り向いた。

「娘御。彼奴らに捕われていた間、そなたらは何を食しておったか?」

「え……。ほとんどは、炎邪さんが狩ってきてくれた獣です」

雲飛が眉根を寄せる。

「獣肉は、娘の体質とは不和を起こす」

葉月は目を見張った。

「それなら、療養のための場所を用意しましょう」

その声に、火月と葉月は驚きを隠せずに兄を見た。

「我々の仇敵でもある妖魔の殲滅、それに葉月の救出。

こちらも、その双方に関してあなたに借りができましたからね」

蒼月は刹那眼を伏せる。再び開かれた冷めた目が、雲飛を流し見る。

「ただし、その場所について一切の詮索は無用です。

それのみ厳守していただきたい」

その目に宿った冷たい光。

兄が言外に匂わせた含みを悟り、葉月の胸に怖れと悲しみが広がる。

風間の里は、忍びの里。

その所在を余人に知られてはならない。

すなわち、外部に漏れる可能性がある時は、

消去あるのみ――――――。

「承知した」

低く静かに、雲飛が答えた。



火月が無言で老爺に肩を貸し、

葉月は淑鈴を背に負う。

久方ぶりに揃った三人の兄妹は、

大陸の老爺とその娘を伴い、邪の気配の消えた山々を後にした。


注:暉暉 日光の輝くさま。空が晴れて明らかなさま。



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