月光虹 〜幻月〜
舞い上がる髪を抑えながら、

忍び装束でなく、淡い桃の着物に身をつつんだ風間葉月は風の沸き起こる場所を見ていた。

その傍らに、次兄の風間火月が立ち、

葉月と同じ場所を見ている。

風の中心に、目を閉じた老爺が座していた。

美々しく波打つ白髪が風に舞い上がり、その面は半分、白い布に覆い尽くされていた。

傍らに表情を固くした幼い子供が寄り添い、小さな手が老爺の大陸の衣装の袖を、ぎゅっと握り締めている。

その子供、劉淑鈴リュウスーリンは日の当たる世界に出てきたが、

笑わなくなった。

”獣肉が体質と不和を起こす”とその父が語ったとおり

子供はしばらく起き上がることが叶わず、咳を繰り返していたが。

雲飛の指示で葉月と火月が持ち寄った薬草を服し続け、体調が回復してからも、子供は一度も笑顔を見せず、

葉月と洞に捕われていた頃の、よくしゃべる明るい子供とはまるで別人と化したようになった。

父の右目を覆う白い布を見た時から。

子供は笑顔を失い、父の側を離れなくなった。

「雲飛さん」

葉月は声をかける。

老爺がゆっくりと眼を開く。

「淑鈴ちゃん」

続けて葉月は声をかける。少し、屈むようにして。

子供が上目遣いに、葉月を見た。

その笑みの消えた表情に意識して微笑みかけ、葉月は努めて明るい声を出す。

「ご飯、持ってきました」

「いつもすまぬな」

穏やかな声が返ってくる。

「調子どうだよ、爺さん」

火月が言う。

「特に変わりはない。直に動けよう。そう兄に伝えればよい」

「……俺らが監視に来たみてぇな言い方されるとなぁ。けどまぁ、事実だよな」

ため息まじりに言いつつ、火月は僅かに肩を竦めた。





劉雲飛は起き上がれるほどに回復してから

おそらくは毎日、蒼月の宛がった療養のための小屋を出て、戸外に座し瞑想を重ねている。

この小屋は、風間の里が隠された山と外部の丁度境に、いわば偵察用に設けられているものだった。

今の雲飛の言葉を兄に伝えればどういう答えが返ってくるか、

火月には大体の予想がついていた。

「では、そろそろ立ち去ってもらいましょうか」

常のように顔色ひとつ変えず、あっさりとそう言い放つだろう。

そりゃあんまり冷たかネェかよ、兄貴。

葉月の恩人だぜ?

そう言ったところでかえってくる言葉がそっけないものであろうことも、

火月には容易に想像がついた。

「後腐れを残すなど愚行です。第一あまり長居が過ぎるようですと、

里の秘密が漏れる現在進行の危険を消去する必要性が増すでしょう」

そして、血のつながりがあるという事実すら断ち切るような、背筋を薄ら寒くさせる光を宿す瞳で、

兄が自分を一瞥するだろうことも。



兄貴も俺も葉月も、風間に属する忍びだ。

だから、わかっちゃいるけどよ。

里の秘密を漏らさねぇのが大事だって言っても、兄貴の考え方は……なんか納得できねぇや。




四人は小屋に入った。

親子の食事が済んで……子供はほとんど箸をつけなかったが……

火月は雲飛の視線に……穏やかな片目の視線に気づく。

あることを自分にうながしているように思える。

「葉月」

火月は、後片付けをしている妹に声をかけた。

「ちょっくらこいつと……あ、いや、嬢ちゃんとその辺散歩でもして来いよ」

葉月は刹那戸惑っているように見えたが、

「淑鈴ちゃん」

そう笑みながら子供に声をかける。

「私と、お外に出ようか」

子供は避けるように、しっかりと父の袖にしがみついた。

「淑鈴」

穏やかながら、異議を許さぬ調子を秘めた声がかけられる。

「行くがよい」

俯き、淑鈴は父の袖から小さな手を放す。

向き直った子供のその小さな手を葉月がそっと握り、

二人は小屋から出て行った。




「……俺に、なんか言いてぇことでもあるかって思ったんだけどよ」

火月は雲飛に向き直る。

「それもあるが」

穏やかな声が告げた。

「娘を葉月殿に任せる心積もりだった」

「ん?」

「愛しいものが笑顔を無くしたのを見せ付けられるのは……案外堪えるものだな」

眼を伏せ、そう老爺は呟く。

火月は返す言葉が見つからず、そのまま雲飛を見返した。

「妻が居てくれればと痛感しておる。娘を慰めたくとも儂は、

そのように打ち沈むのは弱き心の証しと責めるような事しか言えぬ」

「……ん……まぁ、嬢ちゃんもあんたも嫌な思いしたんだしな。

葉月もずっと気にしてたし。嬢ちゃんが一遍も笑わねぇって」

「娘は、葉月殿のことは信頼しておる。

儂と共にあってただ心を痛めるよりは、葉月殿といた方が慰めとなろう」

「かもしれねぇ。葉月はあれで、結構里のチビたちにも人気あんだぜ?」

「ほう。ところで立ち入った事を尋ねるが」

雲飛の声音が変わったのが耳に入る。

「主らの親御はまだ健在か?」

「いきなりなんだよ」

「主らがどうやら、常は人間じんかんと交渉を持たぬ立場であることは理解しておる。

そこに立ち入るつもりはない。語りたくなくば語らずとも良いが、先の魔物どもの一件」

雲飛の静かな、だが鋭い視線がはっきりと火月を捕らえた。

初めて火月と相対した時の視線と同じく、強い光が籠もっていた。

その片方の目に。

「彼奴らは既に滅したとは言え、後に禍根を残す可能性はまだ残っておる」

火月の中で、僅かにざわめいた何かがあった。

雲飛の話の内容が、どうやら尋常ではないと感じたゆえの心構えなのか、それとは違う何かなのか。

「どういうことだ?」

そう、火月は問い返す。

「水邪に関しては断言できぬが、炎邪が主に影響を及ぼす可能性はあるという事よ。

それについて儂が助言できる事があるやもしれぬ。だが、主らの事を何も知らずには言えぬということだ」

「……そういや、爺さん。その何ジャとかってのが葉月と嬢ちゃんを攫った張本人だって

あんたは知ってたけど、あんた奴らと何か関係あんのか?

どさくさで聞くの忘れて、そのまんまになってたけどよ」

「次に危急が訪れたならば、そういった事はもっと早くに気にかけるべきだな」

雲飛の唇に、微かな苦笑が浮かんだ。

火月は首を竦める。

(なんか、兄貴が増えたみてーな感じだぜ。ま、爺さんは兄貴に比べりゃまだマシな言い方するけどよ)



雲飛は冷静さを崩さぬままに、淡々と語り出した。

「炎邪と水邪。あやつらは千年の昔、我が八人の弟子達のうち二人であった」





葉月は木々を渡る風の中、子供の手を引き歩く。

「あのね、淑鈴ちゃん。お花が咲いているところがあるのよ。

少し遠いんだけど、行ってみようか?」

葉月は淑鈴に目をやった。

子供は葉月の手を握り締めたまま俯いていたが。

「葉月師姐。お父さんのお目目治るデスか」

思い詰めた幼い声に、葉月の笑顔が消える。

「葉月師姐。カナしい気持ち、お父さんから出て行ってくれません!」

顔を上げ、淑鈴が葉月の着物にすがり付いてきた。

「淑鈴、どうしたらいいデスか。どうしたらお父さん、カナしい気持ちなくなるですか」

声に悲嘆が増すが、葉月にすがりついた子供はぎゅっと目をつぶり、涙と嘆きを押し殺しているように見える。

葉月の目に憂いの色が増し、彼女はただ無言で子供の頭を撫でた。

ふと脳裏を過ぎったのは、あの夜の洞での水邪の言葉だった。

”貴様も華胥飛仙たる劉雲飛の血を受けし者なら、見苦しく泣き喚くな!”

こんなに辛くても淑鈴ちゃんが泣かないのは、

あの言葉を守っているからなんだ。

葉月はそう直感した。

どう言ってあげたらいいんだろう。

葉月は身を屈め、己に縋りつく幼子の背に手を回した。

かける言葉は何も思い浮かばない。

そのまま引き寄せると、子供の温かみが体に触れる。

葉月の腕に包まれた途端、

子供は堰を切ったように泣き声をあげた。



薄く日が暮れ始めた頃。

葉月は子供を伴い小屋まで戻ってきた。

兄の火月が戸口に立っていた。

周囲を包み始めた薄闇のためなのか、

兄の表情が少し暗く、引き締まって見えた。

「戻るぜ、葉月」

「はい」

葉月は兄に答え、子供を小屋に入らせる。

「あ」

その時彼女は思い出した。

今日着てきた着物の袂に、入れたままになっていた品のことを。

「兄さん、ちょっと待ってね」

「ああ」

兄に断って、葉月は小屋に入る。

「淑鈴ちゃん。これ」

葉月は袂から、赤い飾り紐を下げた簪を取り出した。

振り向いた子供に、それを差し出した時、葉月は僅かな気の変化を感じた。

何かの、呟きを聞いたような気がした。

見ると劉雲飛が、葉月の手元にじっとその片目を注いでいた。

「あ。お母さんのかんざしデス」

少し、子供の声が明るくなった。

「葉月師姐。これ、お母さんが淑鈴に持たせてくれたデスよ。

お父さんに淑鈴のことわかるようにってー。淑鈴ね、オトナになったらこれをつけるデス。

お母さんみたいにこれがにあう、綺麗なオトナになるデス!」

子供の顔にようやく、葉月が初めて会った時に似た笑みが浮かんだ。



小屋を出て葉月は、自分を待つ兄の顔を見た。

辺りは青く闇をまとっていたが、その中でも兄の表情が常と違う真摯さを持っているのが見て取れた。

「帰るか」

火月が告げ、葉月はうなづく。

二人は小屋を離れ、山に入り、里への道を歩いて行く。

忍びの修練ゆえ、闇の中で灯がなくとも二人に支障はない。ましてや慣れた道程である。

山道を踏み分けやがて、大分闇が色濃くなり始めた中、見慣れた崖が目に入る。この向こうが風間の里だ。

「葉月」

兄の声に、葉月は彼を見る。

「俺ら風間の忍びは封魔の術を伝える役目も持ってる、って兄貴や月心斎の爺に言われてるよな。

あまり使う事ぁねぇだろうけど、そういう術を持ってるって事自体、魔物だのあやかしだのに出くわすことが多い、

ってことになるよな」

「うん……?」

相槌を打ちつつ、葉月は兄の意図が掴めぬまま話に耳を傾けていた。

「ヘタしたら、てめぇが魔物に取り込まれたり、引かれちまったり……あり得ねぇことじゃねえんだ」

里との境に立ちはだかる崖を見ていた火月が振り向いた。

「俺はおめぇを守りてぇし、なんだかんだあるけど里での暮らしも気に入ってる。

守りたけりゃ強くなるしかねぇんだ。てめぇでてめぇの幸せ、ぶっ壊さネェために」

「兄さん……どうしたの?」

「いや」

火月は僅かに俯き、心配そうに声をかけた葉月を見る。

「おめぇが嬢ちゃん連れ出してる間に、雲飛の爺さんと話した。

あの爺さん、昔すげぇ辛い思いをしてたってことがわかった。

今度のことでもきっとまたそんな思いしてよ……けど、俺が同じ轍踏まねぇように気ぃ使ってくれた」

再び里の方へ顔を向けた兄の明るい声が響く。

「爺さんと話してっとさ、最初は兄貴が二人になったみてぇでヤな感じだったけどよ、

今はオヤジが二人に増えたみてーな感じだぜ?」



火月、蒼月、葉月の三人を育てた血のつながりのない父は、

蒼月と火月が正式に風間の忍びと認められてからは

諸国を巡り魔に絡んだ異変がないかを調査し報告する任務についていた。

任務の性質上、今は滅多に風間の里に顔を見せる事はない。

兄は義父をとても慕っていた。

少し、義父を思い出させる人がいてくれて。兄が明るく笑ってくれている。

葉月の胸に、暖かい思いが満ちた。





「そうですか」

部屋で火月の”報告”を聞いた兄蒼月の反応は、予想通りの素気無いものだった。

「ではそろそろ立ち退いてもらいましょう」

「じゃあ、明日葉月と最後に飯を渡しに行ってくらぁ」

そう言い捨て、火月は腰をあげようとしたが。

「その必要はありません。私が行きます」

「なんだァ!?」

あまりに意外な兄の言葉に、火月は思わず大声をあげた。

「そんなに驚くようなことですか。とにかく、あの老人には私から立ち退きを言い渡します。

お前たちが来る必要はありませんよ。いいですね」

そう言い置いて、蒼月は火月の鼻先で襖を閉める。




月の光が差し込み、静まり返った夜。

戸口の微かな音に、老爺は耳をそばだてる。

「来たか」

戸口に立った影に対し、雲飛は不敵に笑みを浮かべた。

「もう、大分回復されたと弟に聞きましたので」

風間蒼月は淡々と告げる。

「そろそろ、ここを立ち去っていただきたい」

「承知した。だが主が来たのはそれだけの理由ではなかろう」

「お嬢さんはお休みですか」

「この刻限だ。よう眠っておる」

「好都合です」

蒼月は雲飛の前に立つ。

老爺の左手に、布団をかぶって眠る子供の姿があった。

「儂に何を聞きたい」

「形代に封ぜられた魔を制御する方法を」

青い月光を含む闇に、静けさが落ちる。

「大して文献が残っていなかったので、調べるのは骨が折れましたが」

蒼月の声が淡々と続く。

「あなた方の流派は仙術を会得し、降魔辟邪を主な使命としていたとか。

水邪も元来あなたと同国であることを考慮すれば、やはりその流儀に従うべきでしょうからね」

「何ゆえそれを望む」

「聞いてどうします?」

「儂は、かつての己と同じ過ちを作り出すのに手は貸さぬ」

「あなたと同じにしてもらっては困りますね」

その言葉を受けた雲飛の唇に笑みが浮かび、口調は蒼月に劣らぬ辛辣さを帯びる。

「頼み事をする心積もりなら、言葉を選んではどうだ」

「最もです。ですが闇キ皇は、異界から現れた正体の定かでない魔。

水邪は所詮、元は道を違えた愚かな人間。闇キ皇に比べれば制御は容易いでしょう」

「儂もそう思っておったよ。千年前、闇キ皇に身を委ねるその刹那まではな。

その結果、儂は全てを失い多くの命を奪い、永遠に消えぬ罪を負った」

まるで感情の動きを見せぬ静謐な声が、そう低く告げる。

「小僧」

雲飛の声に、僅かながらも威圧の響きが混じった。

「お前はまだ若い。世に己が為し得ぬ事なしと、浅薄に思い込んでおるのであろう。

それが誤りと思い知った時は既に手遅れよ。最早取り戻すことは叶わぬ、儂のようにな。去ね。」

蒼月から言葉は返ってこない。

月明かりの闇の中、時折微かに子供の寝息のみが聞こえる。

「我が弟妹、火月と葉月は」

雲飛は黙したまま聞いている。

蒼月は、一層淡々と告げた。

「その死を望まれている存在でもあるのです」




「……何者にだ」

「同じ一族の長、そして近しき立場の数名に」

蒼月はそこで、初めて雲飛の前に腰を降ろした。

「弟妹に脅威を感じている者が存在しているのです」

「火月殿と葉月殿にか。何ゆえだ」

「私と火月は幼い頃引き取られました。あなたもご存知のことと思いますが、彼らの血を受けた者であるゆえに……

それを承知していたのは一族のごく僅かの者のみでしたが……それなりに面白くない扱いを受けた事もありましたよ」

蒼月の語りは、雲飛の問いへの直接の答えになってはいなかったが、

異議を挟む言葉を雲飛が発することはなかった。

「そのような私自身と直接関係せぬことのために、不愉快な思いをするのも真っ平でしたからね。

一族にとり文句のない益となる働きを為すよう、これまで務めてきました。

今は少なくとも、生まれを引き合いに我々を表立って非難するものはおりません。ですが」

蒼月の冷めた瞳が老爺を見据える。

「一族の長は、火月と葉月の力はあまりに強大すぎると思い始めているようです。

その力はゆくゆく、一族が制御しきれぬものになるのではないかと」

「……それは火月殿が炎邪の血を受けたことと関係しておるのか」

「水邪の血を受けた私に対してそう漏らしていましたよ。

火月は少々考えなしに行動するところがありますから、それで目をつけられたのかもしれませんが」

皮肉な笑みが蒼月の唇に浮かぶ。

「別にあなたにどうこうしてほしいなどと言うつもりはありませんよ。

我々で解決すべき問題です。ただ、そのために必要な助言を一言いただければよい」

雲飛の指が、その見事に白い顎鬚にかけられた。

彼は残された片目を閉じる。

「水邪の制御が叶ったとして、果たしてそれが主の弟妹のためにのみ使われるとも思えぬがな」

「無論、私のためでもあります」

蒼月が平然と答える。

「私は、この世はどこまでもくだらぬものだと思っていますよ。

ですが、弟と妹を見ている時はそう捨てたものでもないとも、思えるのです」





両者の間に蒼き月光のみが差し込んでくる。

「一度しか言わぬ。何を意味しておるかは主で確かめよ。調べものが趣向ならばな」

唇に笑みを浮かべ、雲飛が告げた。

「―――――睚眦(ガイシ)招来、饕餮(トウテツ)號令」

「それが、あなた方の流派の”秘訣”ですか」

「精々、水邪の残留思念に呑まれぬよう用心する事だ」

「無用の心配です」

蒼月は立ち上がった。

「感謝しますよ、劉雲飛さん。明日は弟妹も見送りに来たいそうです」





「葉月師姐〜。イッショに来てくれないデスか? 淑鈴、師姐とイッショに修行がしたいデス!」

劉淑鈴は頬を膨らませ、甘えた表情を宿した眼で葉月を見上げている。

葉月は困惑を含んだ笑顔を子供に向け、背後で蒼月が肩を竦めていた。

その蒼月を、火月が横目でちらちらと見ている。

「淑鈴。葉月殿は我らの流派のものではない。兄上たちと同じ流派だ。

よって師姐と呼ぶ必要もない。そう心得て別れを述べよ」

「う〜〜〜〜〜」

父の言葉に、子供は唸りとも嘆きともつかぬ声を出し、小さな握り拳で目を擦った。

「淑鈴ちゃん」

葉月は子供の前にひざまずき、竹皮の包みを差し出す。

「おにぎり作ったの。お父さんと一緒に食べてね」

「わぁい!」

途端に嬉しげな声が溢れ、淑鈴は万歳の姿勢を取る。

「最後までかたじけない」

雲飛が一礼した。

「葉月師姐! 淑鈴からもお礼するデス! これ、受け取ってくだサイ!」

と、子供は突如腕を突き出した。

「え?」

瞬く葉月の前で、淑鈴は袖の下に片手を入れる。

めくりあげた袖の下から、幼子特有のふっくらとした腕が剥き出しとなる。

そこから、何かを摘み上げるような動作をした淑鈴の指が、ずるずると細い棒を引き出し、

風車が全員の目の前に現れた。

「……え……。」

「ハイ、葉月師姐!」

葉月の後ろで火月が、唖然とした表情で目を見開いていた。

蒼月の表情は常と全く変わらないが、彼も子供から眼を離さない。

「これ、淑鈴のたからものデス。戦波師兄がくれたものだけど、葉月師姐にあげるデス!

かざぐるま、葉月師姐ふたつになりまシタ〜。」

にこにこと笑って風車を差し出す淑鈴を目の前に、葉月はただ瞬きを繰り返す。

(そう言えば……炎邪さんが私にもくれたあの風車、どうしたんだろう……あの洞窟と一緒に潰れちゃったのかなぁ……)

葉月は茫然とそう考えた。

あの夜、淑鈴の腕の中から突如現れたように思えた、彼女の母の形見の簪。

確かに、突如現れたものだったということをたった今葉月は理解したのだった。

文字通りに、淑鈴の腕の中から。

「淑鈴」

雲飛の声に苦々しい色が混ざる。

「仙の術を人前で妄りに使うでない」

「はれ?」

子供は雲飛を振り向いた。

「お父さん、どしてデスか?」

「無闇に他人を驚かすだけのものだからだ」

「はれれ」

淑鈴は葉月たちに顔を向け、不思議そうに瞬く。

火月は唖然とした表情で子供を見たまま、瞬きを繰り返している。

「水邪がお嬢さんを神仙と言っていましたが、事実だったようですね」

「し……神仙だァ? そりゃ、仙人って意味だっけか?」

「異様に軽い子だったのは確かですが」

知らぬ顔で蒼月は火月に言った。

「爺さん」

火月は雲飛に顔を向ける。

「あんたが千年封印されてたってのは聞いたけどよ……嬢ちゃんはそれと関係ないんだろ?」

「うむ。直接には関係ない。だが娘は霊となって地に止まっていた我が妻の胎で、千年の歳月を過ごしておる。我らは」

雲飛は、己の面を覆う白布に手をかけ、そのまま解いていく。

「爺さん?」

「仙などと言えば聞こえは良いが」

白布がはらりと離れる。

「人と異なるモノにしかすぎぬよ」

眼が穿たれた痕は、全く残っていなかった。

僅かの傷も残さず、炯々とした両の眼光が三人の兄妹を見据えていた。



「達者でな」

雲飛は、竹皮の包みを両手で持った淑鈴を抱え上げる。

その足元から、小さく風が渦を巻く。

子供が、満面の笑みで三人に片手を降った。

それに手を振り返し葉月は、

「ありがとうございました!」

老爺に向かい頭を下げる。

「爺さんたちも元気でな!」

火月が叫ぶように言った。

蒼月は無言で、老爺と子供を眺めている。

風が舞い上がり、

雲飛の姿は見る見るうちに空へと消え去っていった。

葉月の手の中で、風車がからからと回った。



大陸の仙の親子を見送っていた葉月は、

青空にぽっかりと、薄く浮かび上がる白い半円の月を見た。

刹那眼の中に、

あの夜の月光の虹が浮かび上がる。

水邪と炎邪の姿が、洞窟の中で起きた様々なことが、

白い虹を兄たち二人と見上げていた幻が。



千年の間揺蕩たゆたってきた因縁が、

今確かに終わりを迎えたのだと、

その月が教えてくれたようだった。



月光虹 了


睚眦ガイシ
饕餮トウテツ



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