月光虹 時明之跋 前


このままこうしてちゃ、いけない。

どうするのか早く決めなくちゃ。

蒼月兄さんも言ってたじゃない、

迷いは命取りになる、って。

茂みの中で頭を抑え屈みこんだ葉月は、自分に言い聞かせ続けている。その彼女の耳に。

「ウゥゴォオゴォオオ! ドギュシュッ!! ゴゥラアアアァァァァァァー!!」

聞き慣れた雄叫びが届いた。

「嘘っ!?」

姿は見えないが、確実にこちらに戻ってきている。

「炎邪さん……もう戻ってきたの?」

兄さんが見つかったら。

葉月は刹那に逡巡を捨て、茂みから走り出た。



岩山に向かい駈けていた火月の耳にも、その雄叫びは届いていた。

「ちぃッ」

魔物との対決は避けられなくなったことを火月は悟る。

(仕方ねぇや)

腰の朱雀に手をかけた火月の前に、

「ゴォルォアァァァァァァ!!」

雄叫びと共に上空から、洞の中にいた魔が舞い降りた。

凄まじい地響きが火月の身体にも伝わる。

目の前に仁王立ちとなった魔物の身体からは、

凄まじい熱気と共に、形容しがたい忌まわしさを孕んだ気が押し寄せてくる。

「ったく、とんでもねぇ邪気だよな……」

火月は呟いたが、

(だからって引くわけにゃあいかねぇな!)

朱雀の柄を、力を込めて握り締めた。

「ヴァッハァ―――――!!」

魔物が吼えた。

豪快に笑っているようにも見える。

引き出された朱雀の刃が閃く。

「行くぜ!」

火月は駆け出す。

「でぇやッ!」

刃が魔物目掛けて振り下ろされたが、

魔物は拳を固め、手首の鉄環を頼りに大きく振り回し、

火月の一撃を薙ぎ払った。

「ちぃッ」

傾いだ火月の身体目掛け、魔物が突っ込んでくる。

「ぐあっ!」

衝撃に火月が声を上げると同時に、

「ドゥッシャァ!」

魔物が叫んだ。

足から滑り込むように火月に突っ込むと、胸倉を掴んで宙に放り上げる。

凄まじい力だった。

「ドゥルアァ! ドゥルアドラァ! ドルゥラアアァァッッ!!」

笑い混じりに魔物は叫び、

火月を追って自らも飛び上がった。

宙を飛んだ火月は目の前に、瞳のない目と牙のような歯を持つ魔物の嗤いを見た。

「くそぉッ!」

「ジェズドォオオォオオォォオォ!!!」

その魔物、炎邪の振り上げた拳が火月に振り下ろされた。




息が苦しい。

はぁ、はぁ、と息を継ぎながら葉月は走る。

「兄さん! どこ? 火月兄さん!」

岩山の近くまで、葉月は戻ってきた。

辺りを見回し、ただ兄の姿だけを探す。

じゃり、と土を踏み締める音が聞こえた。

葉月は身を震わせる。

彼女の肌が刹那に感じ取ったのは、安寧の気配ではなく不穏の空気だった。

「兄さん……?」

振り向いたその刹那に、彼女は凍りついた。




葉月はただ、目を見開き立ちつくしている。

「にい、さん」

搾り出された声はかすれて消える。

兄は目の前に立っているのに、

馴染んだ姿形であるのに、

それはもはや、兄ではなかった。

火月の腕が伸びてきた。

そして葉月の手首を掴んだその刹那に理解できたのは、それは炎邪の手である、ということだった。

「ハ……ヅ……キ……」

兄が、兄ならぬ声で言った。

「カ、エ、ル、ゼ」

有無を言わさず、葉月は強い力で引き寄せられた。

無慈悲さを感じさせる類の力で。

「トリ……ムル……ティ……」

さらなる声を耳にして葉月は震え、その目から涙が溢れ、零れた。

「ナニ……ナイテ……ンダ……? ハヅキ……チーハイ……ガ……イッテタ、ロ。

トリムル……ティ……サンニン……キリノ、セカイ、ツクル……カ……」

兄の目は、真っ赤に濁っていた。もう人の目ではなかった。

「ソレモ……悪クネェ……ナ」

火月の腕が、葉月の手をぐいとひっぱった。

涙を零しながら葉月は、

ただその手に引かれるままに動いていた。





宙を裂き、刀風が水邪に襲い掛かる。

身を反らした水邪は一足踏み込み、師の身体目掛け蹴りを叩き込む。

「ヒュッ!」

雲飛の身体が傾ぎ、蹴りは空を切り裂く。

同門の師と弟子は幾度となく打ち合い、刀と鉄輪のぶつかり合う硬質な音が響く。



風は流麗と吹き、だが刹那に大きなうねりと化し水を抉ろうとする。

水は怒涛となり、風を飲み込まんと襲い掛かる。

「天・翔月!」

水邪が両腕を広げ、その手首の鉄環から水流が湧き出す。

水は水邪の手刀の周囲で刃と変じ、

回転と共に雲飛に襲い掛かった。

刃で薙ぎ払おうとした刹那、それは水を分断し

着物と肌とが裂かれ、紅い流れが水に混じって宙を舞う。

水邪の腕が伸び、雲飛の首筋を掴んでいた。

指先に籠もる力。

雲飛が目を見開き、動きを完全に止める。

その手から刀が滑り落ち、金属が岩を叩く音が響き渡った。

「ふっ」

一声が雲飛の喉から漏れ出たが、

水邪のさらなる指の圧力にそれは押し殺される。

「点穴。これを使用するのは実に千年振りか。神たる我には既に必要ではない技術だが」

悠々とした声と表情で、水邪は吊り上げていた師である老爺の身体を投げ出した。

「命乞いをするか?」

冷酷な声が響く。

点穴もまた、武侠の心得る術のひとつである。身体に点在する特定の経穴……すなわち人体のツボ……を衝く事により、

内息、つまりは気の流れを遮断することをこう呼ぶ。

経穴の場所によっては、動きもしくは身体機能が封じられ、死に至ることもある強力なものではあるが、

一流の武侠がこれを戦いの場に使用することは皆無であり、止血や毒に当たった際の治療として使われることが多かった。




水邪は、差し伸べた掌をぐいと握り締める。

同時に、見えぬ力が雲飛の身体を持ち上げ、中空に浮かんだその全身を、見えぬ圧力がさらに締め上げた。

肉が捩じられ、骨が軋む。

表情が苦悶に歪んだ次の刹那に、宙に浮かんだ雲飛の身体は岩の台座に叩きつけられた。

「がッ」

痛みを受けてすら動く事の叶わぬ身体を台座に横たえたかつての師を、水邪は優越感に満ちた笑みを浮かべ見下ろす。

「申し渡したであろう? 老兵に我の相手は務まらぬ、と」

歩み寄り、水邪は雲飛のすぐ脇に立つ。

「如何なる心境かな? 我が師父よ。口惜くちおしいか? 恐ろしいか? 命長らえたいか?」

受けた衝撃と痛みを何とか克服したらしい雲飛の目は冷め切り、動揺も示さず感情も浮かべぬまま、水邪に注がれている。

「悔やんでももう遅い。今や貴様に残されたるは、黄泉へ通じる路のみ。それが」

水邪の笑みは冷笑へと変じた。

「貴様自身が選んだ運命だ」

腕を組み、指を顎に当て、水邪は雲飛に問い掛ける。

「口はきけるであろう。速やかに我が問に答えるがよい、師よ。貴様は如何なる手段を用いて、炎邪の爆炎より逃れたか?」

口を閉ざし、師の声を待ち受ける。

しばしその場を支配した静寂を撃ち破ったのは、多少の苛立ちを込めた水邪の、凄みを帯びた声だった。

「我は、貴様に拒否など許してはおらぬぞ」

水邪の掌が、再び宙に差し伸べられる。

またも雲飛の身体は、抗う事を封じられたまま宙に浮かび上がり、

台座から地へと投げ落とされた。

動くことの叶わぬ手を、水邪の足が踏み躙り、

顔に浮かんだ酷薄な笑みと共に、水邪の足は老爺の身体を襲った。

身体が回転し、岩の台座に激突する。

鈍い音が重く響いた。

されるがままの雲飛の目が、苦痛を宿しながらも水邪に据えられる。

「ほーう。これは、よわいの割りに頑強だな」

面白そうに水邪は言った。

「外功のみならず、内力も鍛え上げていればこそ、か? 

しかしながら、如何なる内功の達人も炎邪の轟炎の前では刹那に灰と化す。

となれば」

刹那考え込み、再び水邪は口を開く。

「流派の秘奥である得仙。としか、考えられぬか」

再び拳を握り、水邪はその力で師の身体を楽々と台座に横たえ直した。

「ふむ。少し考えてみたのだが。老いたりといえど貴様の血と肉と魂、そして外功の腕前と卓越した神仙術。

全て、神たる我の糧となるにふさわしいものではないか。」

その面を覆う笑みに、嬉々とした色が浮かぶ。

「よし。淑鈴スーリンは見逃そう。あの小娘の血肉は炎邪にくれてやる。あの頃より」

水邪は、そこで一呼吸置いた。

「戦波は、妙に貴様の子供に愛着があったからな。苦しませず死なせてくれと我に依頼したほどだ、

あやつを全て喰らえる事をさぞ喜ぶだろう」

そう告げる水邪を見据える雲飛の目に、

心髄の怒りが燃えた。




火月が火薬を仕掛け穿った岩屋の巨大な穴から、風間蒼月は身を滑らせ潜入した。

油断なく目を配り、何者の気配もないことを確かめて踏み出す。

岩屋に踏み込んだ蒼月の目に、人の姿が入った。

それは大陸の衣装をまとって眠る、長い銀髪の女児だった。

その側に身を屈めた蒼月は、子供に息があるかを、次いで揺さぶり目覚めないかを確かめる。

身体に温もりはあり、息もある。だが体を揺さぶられても、子供は目覚める様子がなかった。

(薬、ですか)

潜入の前に耳にした火月と老爺の語らいからして、この子供は老爺の拐された娘と見てまず間違いないだろう。

(彼らなりに利を見出したから……でしょうね。さて、どうしましょうか)

蒼月はよく心得ている。

逡巡は切り捨てることこそ肝要。さもなければ、取り返しのつかぬ事態を招く。

(余計な荷物が増えることは極力避けるべきですが)

子供の前に膝をついていた蒼月は、子供の肩の下に手を差し入れ、その小柄な身体を抱え上げた。

刹那。

蒼月の、水面の如く静謐な面が僅かに動いたが、揺らぎはすぐさま消え失せ常の無表情に戻る。

踵を返した蒼月は極力音を押さえつつ、足早にその場を立ち去った。



左右に目を配り、

子供を抱えた蒼月は、足音を消去した歩法で洞窟の内部を駈ける。

声が聞こえた。

あの者の得意げな声だった。

動きを止め、蒼月は声の方向へと進む。

「これが今生の別れとなる。師よ。言い残す事はあるか?」

陰に包まれた岩の回廊に、ぽっかりと抜け出したように明るい空間が開いている。

蒼月は岩に身体を付け、光のある岩屋の内部の様子を窺った。

水の魔物であり、風間一族の怨敵のひとりである水邪の、長い髪に隠された背が見える。

幸いにもこちらに背を向け、急襲をかけるには妥当な位置に立っている。

その向こうに寝台を思わせる岩の台座が見え、そこには長い白髪と顎鬚を持つ老爺が横たわっていた。

彼らよりも手前に、大陸のものらしい刀が転がっているのが目に入る。

老爺の表情は厳しく結ばれており、その目は冷め切った色を宿している。

微動だにせず押し黙っていた老爺は、しばしの沈黙の後口を開く。

「貴様の心に根を張った自愛は、一度滅し新たに育みなおすべきものだった。

導きを誤ったは、師である儂の罪だ」

蒼月から見える水邪の背中、その肩が僅かに竦められる。

「つまらぬ」

心底軽蔑した調子で、水邪は眼下の老爺に言い放った。

「少しは赴きある辞世を吐くかと期待したがな。まぁ、よかろう」




水邪と老爺の言葉に耳を集中しつつ、蒼月はひざまずいた。

腕に抱えていた眠る子供を足元に横たえ、また音も無く立ち上がる。

その手は、腰の後ろの神剣”青龍”に添えられ有事に備えた。そうしながら、

「愚か者が、二人……」

冷めた感情のまま、口の中だけで小さく呟く。

遥か昔に魔に魅入られ、正道を外れ人ならぬ浅ましきものに成り果て、世の理より弾き出された師と弟子。

どちらにも、ただただ軽侮の念より他には何も湧かない。

(ですが、彼らが人の道を違えるものであったが故に我々は生を受けました)

蒼月は、昏睡する唐土の衣装の子供に目を落とす。

(あなたもその意味では同列のようですね)

軽く顎を上げ、背後の岸壁に身を凭せ掛ける。

(さて。目下の問題は如何にこちらに有利に事を運ぶか、です)

戒められている様子がまるで見えないにもかかわらず、老爺が全く動かないのは

おそらくは何らかの方法により、水邪に動きを封じられている……と、判断するのが妥当であろう。

冷ややかな瞳が今一度、子供を一瞥する。

(あなたが丁度使えそうな駒で助かりましたよ)

蒼月は、水邪の長き髪に覆い隠されている背と、その向こうに拘束されている老爺に再び視線を投げた。




「さて」

優越感に満ちた笑みで師である雲飛を見下ろしつつ、水邪は悠々と岩屋の内部を見渡す。

「本来ならば、昨夜この洞にてあの小娘は我らの贄となり、今頃その神仙の血肉は我らの血肉と化していたはずであったが」

「淑鈴を拐したはそれが理由か」

声に僅かに含まれた怒気と凄みを感じ取ったか、水邪は再び雲飛に目を落とした。

「瑞兆だ。炎邪があれを拾ってきた。あのような愚佻ぐちょう極まりない女孩こむすめが我らの供物となること自体、

考え得る限り最大最高の栄誉ではないか。それを愚かにも、封魔の娘が阻んだのだ」

「ならば貴様は、その娘御に感謝するがよかろう」

雲飛の声がさらに低まった。

「淑鈴に掠り傷ひとつ負わせていれば、貴様たちには地獄も生温い苦悶が待っていたぞ」

「ほう」

水邪の目に愉快そうな色が増す。

「憤怒に身を任せ……さて、何とする? 一指動かすことも叶わぬ有様では」

水邪は優越感に満ちた笑みに唇を歪ませたまま、雲飛に顔を近づけた。

「いかな華胥飛仙といえども、打つ手はあるまい?」

楽しげな水邪の声が岩屋に響く。

「哀憐を催すぞ、我が師劉雲飛よ。虫けらとて死の前に逃げ惑うことくらいはできる。

それすら適わず、黄泉に赴かねばならぬとはな。貴様の弟子どもの方がまだしも上等な死に方であったか」

台座の周りを悠々と巡り、水邪は片目を閉じ、ちらりと師を見やる。反応を確かめているようだった。

雲飛の表情は、水邪のその言葉にもまったく変わっていない。

「敢えて、我が師兄たちと師弟と呼ぼう。師としては弟子の最期は知りたかろう?

曲聖卿チューシェンチン師兄と、王安治ワンアンジ師兄。貴様の二番弟子と四番弟子だ。この二人は我が屠った。

安治師兄は水無き場所にて溺死した。我の水に頭部を封じられ、もがき苦みつつ死んだ。

聖卿師兄は、我の水の刃で五体を切断されて死した。命乞いの様は愉快な見物であったぞ?」

朗々と告げつつ、水邪は笑った。

「武骨者の李鉄リーティエ師兄と、我らの師弟……あの小うるさい藍玉寧ランユニン、すなわち貴様の三番弟子と七番弟子は炎邪が葬った。

李鉄師兄は、炎邪の轟炎に瞬時に身を焼き尽くされた最初の供物となった。

玉寧は所詮小僧、炎邪の手刀の一撃でその首はあっけなく飛んだ。

黄泉路にて、運がよければ師兄一同に再会が叶うかもしれぬな? 師よ」

「貴様たちを最初に封じたは」

静かな重い声が、石と化した如くに表情を変えぬ雲飛の唇から告げられる。

雲龍ユンロン斗娜ドゥナの二人か」

「フン」

吐き捨てた水邪の声に、忌々しげな調子が混じった事が聞き取れた。

「さすがに貴様の一番弟子と言うべきか。他の者どもよりは遊べたな、雲龍は。

八番弟子の斗娜も女の身ながら、雲龍の補佐としてはなかなか使えたようだ」

「……皆、天仙遁甲を修めた者として、武侠の道を貫いて逝ったのだな。お前たちを、師として誇りに思うぞ」

静かに、岩屋の天井を見つめていた雲飛はそう呟いた。

「愚かな。聖卿は無様に命乞いしながら死んでいったのだぞ」

「ありえぬよ。あやつは次代の剣仙と選ばれし者のひとり」

その言葉で、水邪の気にさらなる苛立ちが加わったように思えた。

「剣仙。剣仙か。かつて我らの目指した、貴様が太師父である”赤明先生”より受け継ぐ筈だった、流派の栄誉にして宿命か!」

その声が甲高くなり、さらに怒りが混じる。

岩壁に身を寄せ、二人を窺っていた蒼月はその声に、本能的に危険なものを感じ取った。

怒りのままに老爺に危害を加える意図がある、そう判断した蒼月の手の指の間に苦無が数本挟みこまれていた。

刀を身体に結わえるための帯に常に仕込まれている、忍びの飛び道具である。

水邪に対し有利を確保するために、あの老爺に生きてもらっていて損ではないだろう。

よって、水邪が老爺を害するようであれば阻止するのが得策。

だが、遅かった。

水邪は師に向き合い、片手を振り上げ、

指の先が定められたのは雲飛の右目だった。



肉を貫く忌まわしい音と共に、苦悶の絶叫が岩屋に響く。

肉体の切片を引き剥がされ、抜き去られ、破壊される痛み。

苦痛は生きとし生けるものすべてが味わう定めの、命の証。

それはあの老爺の強靭な精神をも確実に痛めつけていた。

「くっ」

出遅れた事を刹那忌々しく感じた蒼月は小さく声を漏らしたが、

「うううう」

突如、可愛らしくも苦しげな声が耳に突き刺さる。

刹那に苦無を仕舞い込んだ蒼月は身を屈め、その掌を、横たわりつつ呻く小さな娘の口に押し当てた。

蒼月の掌に覆われた、子供の口から漏れている呻き声。

掌に、子供のより苦しげな呻き声が当たり、蒼月は力加減を誤らぬよう子供の口を抑えつける。

呻きと共に、子供の瞼の端からは、涙の粒が零れ落ちてゆく。

やがて叫び声が途切れ、

ぴちゃりと音が聞こえる。

滑った血が、滴り落ちる音。

ぽた、ぽた、と途切れなく続く。

まるで呼応したかの如く、蒼月の掌の下で、子供の呻く声は、弱々しくしゃくりあげる音へと変じていった。

老爺の叫びに紛れて、うめき声が水邪に届かなかったことは幸いだったと、

蒼月は冷めた意識の中でちらりと思う。




「さて……貴様が仙の身と化したならば、これもまた再生するかな?」

水邪の平然とした、かつ得意げな声音が岩屋に響き渡った。

蒼月は、水邪へと目を走らせる。

優越感と加虐の愉悦に満ち満ちた冷笑が、その返り血を受けた面を覆い尽くしている。

その指先はどろどろに血塗れ、ひとつの小さな球を摘んでいた。

赤黒く濡れた、柔らかい白い球。

己の目線にまでそれを差し上げると

「軟弱だな」

目を眇めて悠々と呟き、

水邪の指はそれに圧力を加える。

おぞましき音と共に、指の間から、

握り潰されたそれの残骸が滴り落ちていった。

「憐れなものだ」

血と、潰された眼球が混じり合った液を滴らせる指を、水邪は差し上げ師に目を落とす。

「千年の幽閉の果てのこの定め、想像も及ばなかったであろうな? 師よ」

眼下の光景、紅い血を塗された顔一面に苦悶を張り付けている、師父であった老爺の姿。

その光景が、水邪の口元をさらに緩ませた。

「痛いか? 苦しいか? 助かりたいか?」

段々と、風狂めいた声音が高まってゆく。

「……駄目だな! これが神に叛逆した愚物の末路よ」

「いい加減にしたらどうですか」

冷めた声が岩屋に満ちた。




水邪は振り向く。

そこには似姿があった。

「おお」

水邪の目に似姿と映るほど、

鏡と向き合っている、そう喩えても過言でないほどに、佇まいの似た青年。

「我が御許に辿り着いたか、愛しき肉身よ!」

水邪は青年……風間蒼月に向き直った。

大きく両腕を広げ、弾みに指先をべっとりと濡らしていた血が飛び散る。

上体と、嬉々とした色を浮かべた面には、点々と紅く返り血が咲いていた。

表情を全く変えることなく、冷めた視線で水邪を見ていた蒼月が口を開く。

「見苦しいですね、あなたは。少し落ち着いたらどうです」

「神は万物の頂点にして、あらゆる真・善・美の化身であるぞ。見苦しいなどという言葉とは無縁」

水邪の言葉に、目を伏せた蒼月は僅かに累息を漏らす。

「抵抗も叶わぬ弱者を甚振る行為が見苦しい、と言っているのです。

あなたには何を言っても無駄でしょうが」

水邪はようやく、蒼月が腕に子供を抱えているのを目に留めた。

「何をしているか、我が器よ。その子供は炎邪の糧ぞ。」

その言葉が耳朶に届いた刹那。

血に濡れた老爺の、力を失った首と、残された目が微かに反応した。

「さあ、その供物を速やかに我に献上するのだ!」

かつて己の弟子であった魔の声の響く中、漸う、目を向ける。

水邪が我が器と呼んだ、現れた若者。

佇まいも面立ちも、水邪がかつて弟子の孫継海であった頃に似てはいるが、冷め切った雰囲気は継海にはなかったものだ。

彼が、風間火月と同じ立場であることは疑いようがない。

その腕に、長い髪を持つ幼子が抱えられていた。

間違えようのない姿形。頬はうっすらと赤みを帯び、かすかに胸を上下させ、眠っているのが見て取れる。

残された目に見慣れた愛らしい寝顔が映り、頬に流れた涙の痕が見て取れた。

生きている。

間違いなく生きて、此処に在る。

抉られた眼窩を苛む激痛と、心を穿った喪失感も刹那去り、雲飛の心は安堵に包まれる。

次の刹那、その思考はただひとつの事に集中した。

娘を救わねば。

魔と化した弟子たちの手から解放し、日の当たる世界へ戻さねば。

そのためにはこの場を打開せねばなるまい。

今は動けぬ我が身にとり、水邪の目の前に立つ青年の動向が大きく影響する。

力の萎えゆく身体と精神に、内心で叱咤を浴びせ、流れた自らの血に塗れた雲飛は青年にすべての意識を集中させた。





「供物、ですか。この子はあなた方にどんな益をもたらすのです?」

「聞きたいか? 我が器よ。その小娘自体は何の益ももたらさぬ豎子じゅしに過ぎぬが、

生まれには至上の価値があるのだ。神仙として生を受けたが故に、その血肉は神の力を飛躍的に高める効果を持つ」

「神仙。ほぅ。しかしそのようなものが実在するのですかね」

「我が肉身よ。我が耳に愚かしき言葉を聞かせるな。それではその辺りの愚物と変わらぬ言い草だぞ? ”それ”は」

水邪は身を傾け、紅い指が蒼月の抱えた子供を指差す。

続いて、血濡れた指は岩座の上の血塗れの老爺を差した。

「そこなる堕ちた仙術士が合気によって生み出した、紛れもない神仙よ」

「あなた方は、かつて大陸で暴虐の限りを尽くした妖魔。しかし、その姿になる前は人の身だったと聞いていますが」

目を伏せた蒼月が、そう水邪に告げ再び目を開く。

「大陸人は時に理解できぬ不合理を信じ込むようですね。神仙などと、そのようなくだらぬ御伽噺を信じて何になります?」

「理解できぬ不合理。正に今のお前のことだぞ、我が肉身よ!」

水邪が大仰に首を振る。

「世に生れ落ちる全ての血肉に捕われた魂は、己の柔弱な入れ物を永らえさせるため地に這いつくばり!

醜く右往左往し続け、露命を虚しく費やし朽ち果てて逝くのみだ。

お前は我が器として受肉したことで、そのような浅ましき生き方を免れる祝福を授かっているのだぞ?」

水邪の声が岩屋に響き、蒼月は無表情のまま水邪を眺めている。

右腕で抱えた子供の体の後ろに隠された蒼月の左手には、奇襲のための苦無が挟み込まれている。

彼の耳朶に、声ならぬ声が響いた。

(彼奴に好きなだけ喋らせて、その隙に不意打ちをかける腹積もりか)

蒼月は表情を変えない。

声の出所を探ろうともせず、なおも声高に話し続ける水邪を見ている。

(……そこに横たわっている、あなたですか? その状態でこのようなことができるのなら、並の精神力ではありませんね)

(主もなかなかの胆力だな。時間を無駄にはできぬ。

単刀直入に言う。儂の刀をこちらに投げ、娘を連れてすぐさまここを出でよ)

蒼月の冷めた目は、変わらず水邪に注がれている。

(あなたは動く事が叶わないのでしょう。勝算はあるのですか)

(説明する時間はないが、一言言おう。彼奴の施した点穴は直に解ける)

蒼月はその時、僅かに目の端で横たわる老爺を見、刹那に視線を戻したが、

血に塗れた顔に浮かぶ僅かな笑みを捉えた。

(こやつはいざとなれば、己の精神を乗っ取った肉体より分離できる。それを見切り、屠る事は儂にしかなせぬよ)

(ご自分の怪我は考慮に入れているのですか)

(片目のみなら動くに不都合はない)

(なるほど)

蒼月は刹那、目を伏せた。

(承知しました。お嬢さんの身の安全、保障しましょう)

目を開き、蒼月の目は再びいまだ得意げに語り続けている水邪に注がれる。

「……そうであろう? この世で最も尊き存在である我に対し、畏敬の念を隠す事はないのだぞ!

さあ、遠慮せずに賛辞を我に浴びせよ!」

「まったく」

蒼月が冷めた一声を発する。

「よくもそれだけ内容のない戯れ言を、飽きずに並べ立てられるものですね。ある意味感心しますが、正直うんざりです。」

水邪が瞬いた。

「なに?」

「餞別代りに言っておきましょうか」

蒼月の目は、水底のように暗く透明な色を帯びる。

「あなたはただの俗物、です」

突然の水音と共に、水流が水邪の足元から湧き出した。

「同じ水を用いて、我に敵うとでも!」

退いた水邪の怒号が響いたが、

同じように蒼月の周りに吹き上がった水流が飛沫を散らし、彼の姿を掻き消していた。

「あの者は少なくとも」

水邪のすぐ背後で、低く告げた声がある。

「貴様よりは怜悧だ。目も心も曇ってはおらぬな」

振り向くよりも早く閃いた刃光と共に、

水邪の皮膚が切り裂かれ、血が溢れ出た。



「馬鹿な」

明らかな動転に、水邪の声が擦れている。

「キサマ、何故点穴を受けておきながら動ける!」

また、一閃。

水邪の身体が仰向けに倒れた。

「急所を点穴されても、数分で気脈が通じるよう、巡らせるべき内息を操作できる方法がある。

千年の間に、武侠の道ともどもその事も忘れ去ったか」

水邪を残った片目で冷徹に見下ろしつつ、血塗れの姿の雲飛が告げた。

「バカな」

様々な思いが脳裏を翔ける。

緊急の手段だ。

本来、点穴を解除するために内息を巡らせる行為は徐々に行うもの。

この方法はそれを短時間に一気に行う故、後に身体に掛かる負担も相応のものとなる。心せよ。

かつて千年の昔にそう告げたのは、今正に己を見下ろしている、この男であった。

そうだった。

ならばすぐさまこの男は動けなくなる、そこを、

雲飛の手にした刀が動く。

刃が、水邪の喉を貫いていた。

傷口より噴き上がる血流、逆流し口から溢れ出す血に喉が詰まる。

(バカな……バカな、バカな、バカなバカなこのようなことがッ!)

血流を吐き出しながら、

水邪は叫びをあげていた。




蒼月は、入ってきた岩穴を目指し駈ける。

水の術に紛れて刀を老爺に渡すという約束は果たした。もうひとつ。

とりあえず、腕の子供の安全は確保しなければならない。

老爺との契約もあるが、それ以上に一刻も早く身軽になることの方が蒼月の考えの中では重きを占めていた。

老爺が仕損じた場合を考慮し、水邪が逃れられぬよう手を打つ必要がある。

余計な荷物は置いておかなくては。

蒼月の足が止まった。

目の前に、弟妹がいた。

火月は四股を踏む如く足を踏ん張り、右手で葉月の手首を掴んでいる。

「ぐぉぉぉ……お……」

火月の口から、獣のような声が漏れ落ちる。

その目が赤く濁り切っている。

蒼月は悟った。

弟の身体を支配しているのは、弟の魂ではない。

「愚かな。邪の力に屈しましたか」

赤く濁った目をした火月が、裂けんばかりに口を歪めて笑った。

「にいさん」

擦れた葉月の声が聞こえた。

蒼月は構えを取る。

だが彼らの間に走った緊張は、絶叫によって破られた。



「我は……神だぞォ―――――――――ッ!」



溺れている者が、もがきつつ必死の思いで発した叫びのように、それは響いた。

蒼月はその方向へ目を走らせ、葉月の身体がびくっと震える。

「ぐぉっ」

火月の赤く濁った目が、いっぱいに見開かれ、

次の刹那、その身体は葉月を引きずるようにして駆け出していた。

子供を抱えたままの蒼月は咄嗟に、突進してくる火月を避けたが

「止まりなさい!」

そう一声を発すとすぐさま身を翻す。

眠る子供……彼にとっては余計な荷物以外の何でもない……を岩壁沿いの地に横たえると、二人を追った。



すべての遠慮も気遣いもかなぐり捨て走る、兄の体を持った炎邪に引きずられるようにして葉月は、

必死に歩幅を合わせて走る。

ぽっかりと空いた洞の口。

昨夜、水邪と炎邪が淑鈴を贄としようとしていた場所。

そこで、兄の身体を持つ炎邪は急停止した。

その身体にぶつかりそうになりながら、洞の内部の光景を目にした葉月は息を飲んだ。


血塗れた刀を手に、血塗れでいながら冷厳な表情で立つ老爺。

その足元に、水邪が長い髪を散らしやはり血塗れで横たわっている。

その表情はすでに、絶命の寸前の凄まじさをまとっていた。

兄が。その魂の座を奪い取った炎邪が、叫んだ。

全身で叫びをあげていた。



水邪の血塗れの口から、仄かに白い何かが意思を持った煙のように抜け出す。

それを、老爺は手で掴む。

「あの時、出会わねば良かったなどとは思わぬよ」

彼は刃を構えた。

「貴様たちのことは忘れぬ。逝け」

老爺の手に掴まれた、揺らめく白い何かは刀で両断された。





声が届いた。

二つの声が彼の元に届いた。

ひとつは古き友の声。

千年の昔、まだ脆弱な人の身であった頃の、さらにその昔に、よるべない幼子であった時から

ずっと共にあった声。

叫んでいた。

その叫びは泣いていた。

何を案じている。

我は神だぞ。

お前は破壊を司り、我は創造を司る。我らがこの世界を維持するのだ。

神はこのようなことで死なぬ。

そこに、もうひとつの声が聞こえた。

”出会わねば良かったなどとは思わぬよ。貴様たちのことは忘れぬ”

深い声だった。

この声を初めて聞いたのは。

大陸の冬。

身を切る冷たさの中。

まだ人の身の、よるべない幼子であった頃。

座り込んだ彼の膝の上に、

まだその名でなかった頃の、小さなやせこけた戦波がうずくまっていた。

冷たい。

風に凍らされた地の冷たさが、素足を突き刺す。

でもこうしていれば、彼だけは冷たくない。

そう思いながら戦波の身体を抱き、耐えていた彼に、話し掛けた者がいた。

”我が弟子となるか”

それがその声を聞いた最初であった。

”その者も、共に”

いつの間にか、うずくまっていた戦波が身を起こしていた。

彼の手を握り締めつつ、話し掛けてきた者を、歯を剥き出し睨みつけていた。

危害を加えられると思ったか。

彼は、話し掛けてきた男を見上げた。

厳しく険しい、だがその底に強く暖かな光の籠もった目をしていた。

男の黒々とした髪と、眉と、顎鬚がやがて、白く白く変わっていった。

その目だけが同じだった。

そしてその目に、

何か光るものが見えたように思った。



既に声は失われていたが、

彼は笑って、こう言った。

「師よ」



あとに続く言葉は何もなかった。



刀で断ち切られた白い何か……もしかすると、霊魂なのかもしれなかった……は、

揺らめきながら立ち消えていった。

同時に横たわる水邪の骸が、みるみるうちに干からびて髑髏となり、それも塵と化して四散していった。

怒号が響き渡り、辺りを圧し、葉月は振り捨てられたが次の刹那、その身体は強い力で受け止められていた。

長兄蒼月の、常に冷静な表情があった。


兄が、否、兄の身体を持った炎邪が朱雀を抜く。

怒号はまだ収まらず、

憤怒の叫びと共に彼は、血塗れの老爺に突進していた。






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