月光虹 急之終 |
「氣が、乱れたな」 雲飛が呟いた。 「どうなったってんだ? じいさん」 火月は怪訝な色を目に浮かべ尋ねる。 「娘と、貴様の妹の居場所が掴めた」 「マジかよ」 雲飛が指差した岩肌に、火月は目を据えた。 「大したもんだよな、大陸の気の修行って奴は。」 「わかっておろうな。貴様の為すべき事は、妹御と娘を救い出して後、すぐさま遁走することのみだ。」 流れる風の中、なびく白髪の下から、老爺の鋭い視線が火月を見据える。 「二人を捕らえた魔物どもの始末は儂が引き受ける。よいな、断じて彼奴らに立ち向かおうなどと考えるでない」 「くどいぜ、爺さん。俺は葉月を助けるためだけに来てんだからよ」 「うちの一人、炎邪の狙いは貴様の肉体を乗っ取る事」 火月を見据える雲飛の視線は、さらに冷徹さを増していった。 「もし、彼奴が首尾よく目的を遂げたならばその時は」 老爺の視線が火月を射る。 「儂が貴様を殺す」 「ごめんこうむるぜ」 火月は雲飛を見返し、不敵に笑みを浮かべた。 「俺は黙ってあんたに殺られるつもりなんざねぇからな!」 「それは首尾如何よ」 口元に僅かな笑みを浮かべ、雲飛の視線は火月を離れ岩山へと向けられる。 二人は岩山へと向かう。 火月は風の如く岩肌を駈け、雲飛は風に乗り中空を翔ける。 二人の姿が消えしばし後。 少し離れた木陰から、長髪の男が現れる。 水の如く静謐な、乱れなき気配。 「あの魔物たちの潜伏場所を突き止めたのはお手柄ですよ、火月。ですが……」 風間蒼月は口をつぐみ、 その冷めた瞳が二人の向かった岩山を見やる。 「果たして首尾よく行くでしょうか。」 弟を見つけ出し、尾行した先で目撃した光景を蒼月は思い起こす。 「己が己のままでありたければ、手を引けい」 雲飛にそう告げられた時。火月は殺気だった表情を浮かべた。 「引けるかよッ! 俺が消えることなんぞより、葉月を助ける方がよっぽど重要だろうがぁっ!」 その言葉に、雲飛が眉を寄せた。 「ウダウダ言ってんじゃねぇっ! 邪気を持ってる奴について知ってんなら教えろっ! やっと見つけた葉月の手がかりなんだよッ!!」 掴みかからんばかりの勢いだった。 「……妹を救うために己の命を捨てる、と言うか」 「俺がなァっ! 死ぬ時は葉月を助け出した後だっ!」 火月は老爺を怒鳴りつけた。 「命知らずの愚行、とも言えようが」 雲飛は目を伏せる。 再び開き、火月を見据えた目には満足げな色があった。 「貴様の心意気、武侠の精神にも通ずるな」 そして両者は共に同じ方向へと向かい、 蒼月はどちらにも悟られることなく、その跡を追って岩山へと辿り着いたのだった。 (少し、今回の任務の性質が変わるかもしれませんね) まずは、確認せねばなるまい。 この岩山に、果たして確実に”彼らの怨敵”にして”風間一族が滅すべき存在”たちが篭城しているのかを。 轟音が響き、 岩屋にも揺れが届く。 葉月は刹那身を竦めたが、 自分の後ろで寝入っている子供の身体に覆い被さった。 「グォラッ!?」 「客人かな」 水邪の平然とした言葉に炎邪が瞬く。 「ドルルゥッ?」 「さて、どのような手段でお前の爆炎をかわしたかが興味深いが」 笑みすら浮かべ、水邪は葉月を流し見た後踵を返した。 「ここはひとまず置こう。久方ぶりに師を出迎えるか」 その言葉に炎邪が瞬き、一方淑鈴を庇う葉月の眼にも戸惑いが見える。 「 水邪の淡い笑みには愉快そうな色が加わる。 それとは別の感情が一瞬閃いたように見えたがすぐに消え去り、 葉月の視界からも、ふたりの魔物の姿は消えた。 助かった、のだろうか。 葉月はこわごわと身を起こす。 ふと見やると、子供は何も知らぬげに眠り続けている。 あのひとたちが戻ってくる前に、今度こそ逃げた方がいい。 その時葉月の耳に、突如として声が聞こえた。 (離れよ) 「えっ!?」 (すぐその場所より出でよ。留まればお主の身が危い) 「だっ……誰ですか?」 (案ずるな。お主の兄がそこへ向かっておる。淑鈴と共に岩屋を出て身を伏せい) 「兄って……火月兄さん!?」 (急げ) 声が途切れると同時に、葉月の身体の奥底から、歓びと新たな力とが湧き出した。 兄さんが来てくれた。 ここまで、助けに来てくれたんだ。 「淑鈴ちゃん! ここから出られるよ?」 身体で守った子供に語りかけ、その眠りが覚めていない事に思い当たったものの、 葉月は立ち上がると、屈んで子供を抱え上げた。 「えッ?」 重さを覚悟して力を込めた腕に、肉の重みの代わりに推測との落差がのしかかる。 子供の重さではなかった。 否、ほとんど重量と言えるものが感じられない。 目を丸くしていた葉月は、先ほどの声を思い出した。 慌てて淑鈴を抱えなおし、足元に落ちていた笄(こうがい)を拾い上げ胸元に隠す。 岩屋を出ると安全と思える岩陰に身を隠し、淑鈴を抱き寄せ、身を伏せ耳を手で塞ぐ。 風が吹き抜けた。 洞窟の入り口を狭めていた岩が、 跡形なく崩れ落ちている。 それを後ろに、刀を手にひとりの老爺が佇んでいた。 その目に宿る、一遍の容赦もなき冷めた光。 「ィバゴヴァイガガダヴァア──ッ!!」 歯軋りの後、肩を怒らせ炎邪が吼える。 確実に仕留めたという満足感を裏切られ、その表情は怒気と殺意に満ちていた。 「絶体絶命の事態を切り抜けることこそ武侠の真髄……そう言っていたかな」 隣りに立つ水邪は、悠然と笑みを浮かべている。 「我が師劉雲飛よ」 その両手が、胸の前まで動く。 両手が胸の中央へと近づけられた時、水邪の唇に薄く笑みが浮かんだ。 「我らに封じられた、あの岩の中での千年は快適であったか?」 言葉と共に水邪は、胸の前の両手を下ろす。 「貴様ら如き痴れ者、本来なら捨て置く所だが」 雲飛が口を開き、重々しく言葉が告げられる。 「己の不始末は己でつけねばな」 同時に、洞窟の奥から大音響が轟いた。 「グォラァッ!?」 炎邪がそちらを向き、水邪も僅かにまなじりを動かしたが 雲飛が手にする柳葉刀を構えたのを見て再び向き直る。 「グガァオォッ!!」 音の聞こえた方を気にしつつも、炎邪は雲飛へと身を乗り出すが、動きを止めた。 目の前に、水邪が伸べた腕があった。 「師は我が引き受ける」 水邪は炎邪を流し見る。 「不埒者の始末、任せたぞ」 「ドゥッシャアァ!!」 拳を握り締め、大きくうなづくと炎邪は身を翻し、駆け出す。 身を動かした雲飛の前に、水邪が立ち塞がった。 「しかし、これは椿事と言うべきかな?」 水邪の顔には、今ははっきりとした笑みが浮かんでいる。 「貴様が自らを囮とし、あまつさえ事にあたって他人を頼むとは。 そう、あの頃は……我の知る限りは自ら頼む事はなかったようだがな」 雲飛はただ、黙している。険しい表情からは如何なる感情も窺い知れない。 「とは言え、師よ。歳月とは無惨なもの。気概が昔のままであろうとも、もはやその老いさらばえた肉体が追いつくまい? 神たる我には、醜悪なる老いなど無縁」 愉快そうな光を湛えた目が、雲飛をねめつけた。 「隠せぬな。貴様は確実に衰えた。既に我の相手は務まらぬ」 言葉と共に、水邪の笑みは憐みの色を帯びる。 「折角永らえた命、ここでむざむざと落としたくはなかろう? 老兵は去るがいい。」 「娘を見捨て、貴様たちの穢れた手に委ねて去れ、と言うか」 雲飛が低く呟いた。 「貴様を屠る事など容易い。かつての師父といえど、今や我の指先ひとつで消え去る、朝露よりも儚き命。 が、昔の誼(よしみ)で見逃してやろうと言うのだよ。神の慈悲であるぞ?」 嘲りの籠もった視線が雲飛に据えられた。 「あの小娘が未練か? 執着は見苦しい。子供など、師娘に似た女を見つけてまた孕ませれば良かろう?」 表情を変えぬまま、水邪を見据える雲飛の目の光のみが険しさを増した。 「古の俚諺にもあろう、師よ。妻子など衣装と同じ、幾らでも替えはきく」 悠々と、水邪は言葉を投げかける。 「だが無二の友は手足と同じ、代わりはどこにもないと。」 「もう何も言うな」 その静かな声は、水邪にひとつの事実をはっきりと告げた。 雲飛に、引き下がる意志は欠片たりとないことを。 「覚悟を決めよ。師の役割を以って、武侠の掟を破棄した貴様たちを粛清する。」 「仕方あるまいな。浅薄にも我に楯突く道を選択すると言うならば、我が師劉雲飛よ。 神の裁きを受け、師娘の元へと旅立つが良い。」 「思い上がるな、小僧」 雲飛の低い声に、僅かな鋭さが加わる。 「貴様に武の道を教え、技を授けたのは誰か。儂に通じるなどと自惚れも甚だしい」 続いて放たれた声には、はっきりとした怒気が籠もっていた。 「―――愚か者が!」 「かつて、我に武の道を開いたのが貴様であったことは否定せぬが」 再び笑みを浮かべつつ、水邪は構えを取る。 「神の力を得た我が、いまだ貴様に受けた教えのみ遵守し続ける木偶である、などとは思わぬ方がよいぞ?」 優越感に溢れた笑みが消え、 「ヒョォッ!」 表情を引き締め、水邪はかつての師に向かい踊りかかる。 火薬による爆破で岩屋は半壊した。 押し殺した声が、轟音と揺れを耐え、身を起こした葉月の耳に届く。 「葉月……いるか? 葉月!」 抑えた調子だったが、間違えようの無い声だった。 「兄さん? 火月兄さんなの? 私、ここにいるよ!」 葉月の胸には嬉しさが込み上げてきたが、 あのひとたちが戻ってくるかもしれないという不安が声を低めさせる。 「こっちだ、葉月!」 葉月は淑鈴を背に負って立ち上がり、 転がった大小の岩や石を避け、踏み越えつつ、光のほうへと歩む。 光の中に浮かぶ姿。 火月が、片手を差し伸べていた。 太陽の光を背に受けて。 「兄さん!」 歓びが頂点に達した、しかしその時。 「ォアアアアアアアァアアァァァアァ!!!」 聞き慣れた咆哮が耳をつんざく。 葉月は振り向いた。 炎邪が、瓦礫の山の中仁王立ちとなっていた。 「走れッ! 葉月ぃっ!!」 火月が叫ぶよりも僅かに早く、葉月は足を踏み出したが 「ドゥッシャッ!!」 熱気のこもった息遣いがすぐ背後に感じられ、同時に葉月の腕が掴まれていた。 「あっ」 炎邪は、葉月の背から眠った子供をやすやすと引き剥がす。 「うるあァ!!」 火月が朱雀を抜き、炎邪に踊りかかった。 「ゴルァ!」 炎邪は飛び退き、子供の体を地に置き火月を迎え撃つ。 迫り来る朱雀の刃を、手首の鉄環、或那(アグニ)の鎖が受け止める。 「ドルァッ」 しかし、もう片方の握り締めた拳を振り下ろそうとした炎邪の目前に、 火月が朱雀から分離させておいた火の玉が舞った。 「グオッ」 払いのけた時には二人の姿は消えていた。 「デュシャァッ!」 吼えた炎邪は崩壊した岩肌から足を踏み出そうとして、 後ろを振り向く。 子供が寝入ったままでいるのを見ると、 「ドッグゴルァァァアァ──ッ!!!」 雄叫びと共に炎邪は飛び、 葉月と火月を追って眼下の森へと消えた。 「行ったか」 茂みに身を潜めた火月は呟き、後ろの葉月を振り向く。 「見つからねェとなったら戻ってくるだろうからよ、その前にできるだけ離れねーとな。葉月」 「火月兄さん」 妹の思い詰めた表情に、火月は目を留める。 「なんだ?」 「兄さん、私やっぱり淑鈴ちゃんを置いていけないよ」 葉月を振り向き、火月は怪訝な表情を浮かべる。 「スーリン? 誰だよ? ああ、爺さんの娘のことか。ってヤベェ!」 急に立ち上がった兄を、葉月は驚いて見上げた。 「あっちゃぁ〜、マジやべぇ。うっかり忘れてた」 「忘れてたって……兄さんてば……」 「ッたくついてねェなぁ。あすこに残っちまったのかよ」 刹那顔をしかめ、火月は葉月を見下ろす。 「葉月、お前は先に逃げろ。」 「火月兄さん?」 「爺さんの娘は俺が連れ出してくらぁ」 葉月の表情に、愕然とした色が広がる。 「……戻るつもりなの?」 「お前は自分の身を守ることだけ考えて、あいつからちゃんと逃げりゃいい。 そのスーリンは、必ず助けっからよ」 火月が笑う。 「安心しなって」 「でも!」 強く言葉を発した葉月だが、次の刹那思いなおし声を落ち着かせる。 「兄さんを信用してないわけじゃないよ。だけどあのひとたちのところへ戻るのは……」 でもこのままじゃ淑鈴ちゃんが。 だけど、行ったら火月兄さんが危険な目に。 二つの思いが、同時に葉月の胸に去来した。 「俺ぁ、爺さんに約束したからな。お前と爺さんの娘を助けるって」 火月は葉月を見ている。 あの明るくて優しい目で。 その見慣れた表情に感じる安心感と裏腹に、葉月の心には不安な思いが大きく膨れ上がっていく。 「あ! そう言えば、淑鈴ちゃんのお父さんも来ているんでしょう? じゃあ、もう大丈夫なんじゃ……」 「お前だけ連れて、ケツまくってトンズラこいたんじゃあ、夢見が悪ぃからよ。」 「だったら、兄さん」 葉月は一呼吸置いて告げる。 「私も一緒に行く」 火月は、直接言葉を返さず、葉月の頭に軽く手を乗せた。 「俺に任せとけよ」 その手は、力強く逞しかった。 火月はそのまま、茂みから飛び出す。 「兄さんっ」 「絶対戻るって! スーリン連れてすぐ追いつくからよ、先に行って待ってろ! 葉月!」 兄の声はどんどん遠ざかる。 そのまま、葉月の手が永遠に届かないところへ消えていくかのように。 「兄さん」 胸が苦しい。 不安感はただならぬ強さで、葉月の中で荒れ狂う。 どうすればいいの。 兄の後を追って、自分にできることがあるのか。 水邪と炎邪の手の届かぬところへ逃げるのが、 ここまで助けに来てくれた兄に報いる事ではないのか。 そう自分に言い聞かせても、足も、体も動かない。 葉月は頭を押さえ、茂みの中に座り込んだ。 |